2014
11.06

「子どもはみんな タッタカ走る」②/③

Category: 未分類
無題

 子どもたちが走ることに目的があるとは思えません。ただ、走りたいから走るのだと思います。また、「おんまは みんな」の歌にしても、この詞から浮かび上がるイメージからすれば、広い牧場で自由奔放に走り回っている馬たちに走る目的や意味があるとは思えません。子どもたちにしても、馬にしても、ただ走りたいから走るのだと思うのです。その一点において、何ら相違はないだろうと思うのです。
 ところで、このような光景を目にしたとき、それが私たちの心に響くのはなぜなのでしょうか。
 私見ではありますが、それは、そのような状態の中に、私の心(以下、私心とします)がないからではないかと思うのです。私心とは、自分を可愛いと思う心のことです。
 私心が無いことを指して、「無心」という言い方もあります。しかし、いつも言うように「無心」というのは、心が全く無くなってしまうことではありません。私心が消え、代わりに別な大きな心に満たされた状態が「無心」です。それは、先の歌詞の中にある「どうしてなのか / だれも しらない」 心と言ってもよいかと思います。
 私心は、我欲・我執・我見などとも同意です。私たちは、大人になるにつれて私心が肥大し、他者との軋轢を生じ、それよって苦しむことが多くなります。私心こそが、私たちの全ての苦悩の本源です。それをうまくコントロールできたら、どんなにか安楽に過すことができるかと思います。
 その点、子どもたちには私心が希薄で、その分、悩み事も少ないのだと思います。まして、馬に私心(人間のような強烈なもの)があるとは思えません。私たちは、そんな彼らの姿に接したとき、清々しさを感じたり、心が洗われたりするのではないでしょうか。
 ところで、『禅(思想としての禅)』がめざす方向も、こんなところに源があるように思うのです。(以下、③/③につづく)


kodomo 2 
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