2014
12.08

「ハイ」で悟る③/③

Category: 未分類
tubaki.jpg 
 ちなみに、刹竿というのは、寺で説法があることを知らせるために立てる旗竿のことです。したがって、旗竿を倒すということは、その日の説法の終了を意味します。釈迦のそばに二十数年も仕えていたにも関わらず、阿難は、それまで「悟り」が開けませんでした。ところが、迦葉に名前を呼ばれ、その日の説法の終わりを告げられたとたん、にわかに「悟り」を開くことができたというのです。この問答では、阿難は、何をどのように悟ったのかが問われているようです。
 この話はこの話で難解です。いったいどう受け止めたらよいのでしょうか。こちらの方は、禅問答ですので、くどくどしい解説や私見は興ざめになるかと思いますので、答えは読者にお任せするしかありません。
 ただ、先の臨済と老婆とのやりとりと重ね合わせてみると、見えてくるものがあるように思われます。どちらも「無意識」がテーマになっています。そこに注目したいところです。
 禅によれば、「誰にも分からないもの(不可思議)、説明できないもの(不可説)、答えようのないもの(不可商量)」を自己の中に心底から感得できたときが「悟り」とされます。無文老師の言葉を借りるなら、「自我の自覚以前、自他の対立以前、知識以前、経験以前の『無』としてのお互いの本心」を感得することです。これが、禅の修行の最終目標とされます。
 臨済に負かされた老婆も、迦葉に名前を呼ばれた阿難も、自らの内に潜在する「『無』としてのお互いの本心」に気づいたのではないでしょうか。その意味では、臨済も迦葉も二人(老婆、阿難)を立派に救済したということです。

 こんな簡単なことで「悟る」ことができるなら、自分にもそれが叶うかも知れない…。人から名前を呼ばれたとき、せいぜい心を込めて振り向いたり、返事をしてみよう…。こう思うのは、私だけでしょうか。
 ただ、そんな甘い了見だから、いつまでたっても凡夫のままなのでしょう。  (〆)

32-4

 ※クリックすると拡大して見られます。

次回は、『仏は働くか?』を掲載(5回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。

スポンサーサイト

トラックバックURL
http://zitaichinyo.blog.fc2.com/tb.php/339-fcc02f3f
トラックバック
コメント
管理者にだけ表示を許可する
 
back-to-top