2014
12.28

「仏は働くか?」⑤/⑤

Category: 未分類
05 

 それは、ものごとを俯瞰したり、達観したりする力として立ち現れてくるというのが私の見解です。具体的には、全体を広く見渡し見通すことで、こだわりや偏りから離れ、「自他一如」という真理を見極める力が増幅されるということです。それが、「怒りや貪りや愚痴」を制御する力として働き出すのではないでしょうか。
 中村天風は、それを「空の世界に入れば 空の世界の驚くべき力が ぐんぐん生命の中に溢れてくる」と表現しているのではないかと思うのです。「あるもの」のエネルギーが、自分自身のなかで闊達に働き出していることを喩えたものだと思います。
 このように、私が究極の第三者と呼んでいるものも、「あるもの」としているものも、本質においては同じです。仏も同様です。
 禅にあっては、仏は常に自分の内側にあるとされます。自分自身が仏であり、救われるのも自分なら、救うのも自分ということです。
 そもそも「怒りや貪りや愚痴」は自分がつくるものです。その意味では、自分でつくったものを自分で鎮められないはずはないということなのでしょう。「自他一如」の真理に目覚めた心によって、揺れ動く心を制御するということです。全ては自分自身の心の有り様にかかっているというわけです。禅が自力の宗教であるといわれる所以は、ここにあるのだと思います。
 結局、浄土門で尊崇される阿弥陀仏にしても、禅で説かれる「真人」「本来の面目」「主人公」などにしても、それが自他を超越した究極の第三者であることに違いはありません。それは「自他一如」の真理そのものでもあります。だからこそ、俯瞰する力や達観する力を持ち得るのだと思います。
 異なるのは、浄土門では、それが私たちの外にあるのに対して、禅では、内にあるということです(ただし、禅にあっては、最終的には内も外もありませんので、内にもあるし、外にもあるというような言い方にもなるのでやっかいなのですが)。
 したがって、どちらの立場を選んだとしても、この究極の第三者の存在を心底から確信できるか否かということが問われているのだと思います。そこに強固な信念があれば、救いの道は開かれているのだと思うのですが…。
 読者はどのように考えられるのでしょうか?  (〆)

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コメント
仏教ではなく、儒教の中に「心即理」という言葉があります。

これは、己の「心」と天地万物を動かす法則である「理」とは同じものである。

こういう意味ですが。

王陽明の教えを説いた「伝習録」を読んでみると、この「心即理」を説く陽明と、その意味がわからず困惑する弟子の姿が浮かんできて、いろいろと面白かったりします。

で、最近になって気が付いたのが、実は「理即心」こう考えるべきではなかったのか、ということです。

例えば、「コップの中に寒天が入っている」という話は、むしろ「コップが空になったとしても、そのコップは空気で満たされている」こう考えればいいでしょう。

そして、そのコップの中の空気はコップにふたがされていない限り、地球全体の空気と一つに繋がっており、地球全体の空気が「理」であるとすれば、コップの中の空気が「心」であり、コップの中の空気と地球全体の空気が同じ一つの物であることに気がつくことが、「理即心」であり「心即理」なのだろうと思ったものです。

ただ、普段人間の心には、ふたがされておりほとんどの人は、それがゆえに自分が「大いなる一者(サムシンググレート)」から切り離された存在であることに気がつかない。

これを「自然の分身(自分)」と呼ぶわけですが。

ちょうど、コップの中の水が、元々は水道の水という「大いなる一者」から流れ出たものであることに、意識が向かなくなるように。

そして儒教で言う「理」はそのまま仏性であり、「心即理」を仏教で言いなおしたものが、「自他一如」なのでしょうね。

おそらく、そんなに遠くないうちにパラダイムの大転換が起こり、排他的で独善的な西洋的価値観から、調和と協調を重んじる、東洋的価値観で世界が動く時代が来ると思います。

その中心的な役割を日本と日本人が務めることを、祈りたいものですが。
我無駄無dot 2015.03.15 19:27 | 編集
「物事を俯瞰してみる」という話から、思い出したことを書きます。

昨年の11月に自分が所属している団体のセミナーに参加したのですが、その際に配布されていた資料をもとにして一つ、問題を出します。

これから書く文章には明らかに問違っているところがありますが、それはどこでしょうか。
①人間は哺乳類である。
②イルカやクジラは魚類ではなく哺乳類である。
③ライオンは肉食動物である。

正解は、「間違いが問違いになっていた」でした。

実際の資料ではこの問題が、文章ではなくよくある間違い探しの図形、つまり図A、Bを比較して間違いを探せというものでしたが、その図にはどこにも間違いがなく、問題分の「間違い」が「問違い」になっているのに気が付くまでに、一晩かかりました。

おそらく、全体を俯瞰してみれば、問と間の違いにすぐに気が付いたのでしょうが。

こういうところにも、人の心の盲点が潜んでいるのだと思います。
我無駄無dot 2015.03.15 19:42 | 編集
ついさっきふと思ったのですが、地球全体の水と空気は、今と昔を比べて入れ替わっているのでしょうか?

例えば、釈迦や孔子が生きていた時代と現代では、どの程度まで水と空気が同じで、どの程度まで違うと言えるのでしょうか?

まあ、細かく言えば植物は光合成で二酸化炭素から、酸素を分離して放出し、動物はその酸素からエネルギーを生み出して炭酸ガスを排出するので、その分の「入れ替え」は起こるわけですが、それでも地球全体の空気の総量を考えると入れ替わる量は、高が知れていると思います。

また水に到っては、どうかすると数十億年単位で、入れ替わることなくそのままでしょう。

というか、地球以外のところから水を持ち込まれない限り、地球の水の入れ替えは不可能なわけですし。

そうやって考えると、我々の体のなかにある60%の水は、実は恐竜時代の水と全く同じものかもしれません。
我無駄無dot 2015.03.16 01:57 | 編集
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