2014
12.12

「仏は働くか?」①/⑤

Category: 未分類
01 [ 阿弥陀三尊像(三千院)]

 宗教の問題を扱ったラジオ放送番組で、面白い話を聴きました。浄土真宗の僧侶をしている出演者から実話として紹介された話でした。ある信者の「南無阿弥陀仏」とお題目を唱えても、なかなか救われた実感が得られないという訴えに対する具体的なアドバイスとして紹介されました。
 主演者は、その信者に、次のような喩え話で応じたとのことでした。概ね次のようものでした。
  「消防車は誰がつくったものか?それは、自動車会社でもなく、そこで働く従業員つくったものでもない。“火事”がつくったものだ。薬はだれがつくったものか?それは、医者がつくったものでもなく、製薬会社がつくったものでもない。“病気”がつくったものだ。
 阿弥陀仏というのは、人間が抱く苦悩がつくったものだ。人間に苦悩があるから阿弥陀仏がいらっしゃるのだ。あなたの苦悩も病気の一つだ。その病気を治すために、阿弥陀仏がいらっしゃる。だから、「南無阿弥陀仏」と唱えると、阿弥陀仏は、必ずあなたのそばに現れて、苦悩を取り除いてくださる。」
 因みに、この言葉を聞いた信者は、その後、穏やかな生活を送ることができたとのことでした。
 たいへん面白い喩えだと思いました。これは次のようにも拡大解釈できます。私たちに「怒りや貪りや愚痴」の炎が燃え上がったとき、名前を呼ばれた仏は、消防車のごとく駆けつけて、鎮火するために放水してくださる…。何とも心強い話です。
 浄土門(浄土宗、浄土真宗など)の思想にあっては、阿弥陀仏(以下、仏とします)は極楽浄土に住むとされています。苦悩に満ちたこの世ではあっても、仏の住む極楽世界に往生すれば苦悩はないのだから、現実を逃避せず、苦しみに耐えて生き抜いていくというのがその根本教義と理解しています。それだけに、たいへん興味深い話だと受け止めました。
 ところで、私たちはこの場合の仏を“近親の死者”に置き換えることもあるのではないでしょうか。「怒りや貪りや愚痴」が生じたとき、亡くなった父親なら、あるいは母親ならどう言うだろう?どのようなアドバイスをくれるだろう?こんな思いに導かれて、冷静さを取り戻すことがことがあるように思います。このときは、亡くなった父親や母親が、仏になっているのだろうと思います。
 ただし、そのためには、自分の中にこれらの煩悩が生じているという自覚が必要でしょう。その冷静さに立ち戻れたときにこそ、救いの手は差し伸べられるということだと思います。(以下②/⑤につづく)
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