2015
06.18

『役割を果たす』⑥/⑥

Category: 未分類
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 二つとも極めて特殊な事例ではあります。しかし、人なら誰でも、条件さえ整えば、このような“無意識”の行為に至るチャンスがあるだろうと思うのです。それは、案外に身近なところにもあるのではないでしょうか。
 例えば、ケガをしたり、身体が不自由な人に出会ったりしたとき、あるいは困っていたり、悲しんでいたりする人を見たとき、思わず助けてあげられることはないか、何かしてあげられることはないかと考えるときもそうでしょう。大きな災害を受けた人のことを知って、助けてあげたい、励ましてあげたいと思うときもそうでしょう。あるいは、満員のバスや電車の中で、高齢者や身体に不自由がある方が乗ってこられたとき、席をかわってあげようという気持ちが湧いてくるのもそうでしょう。
 これこそは、国籍、年齢、性別、職業、経験などあらゆる相違を超越して、人が潜在的に持ち合わせているたいへん尊い心の働きだと思います。そして、それが具体的行為となって働き出すとき、それはさらに尊いものになると思うのです。
 そこで、このように“無意識”のうちに「人から喜ばれる」ことをする場合の役割の呼び方です。またぞろ、抹香臭いと思われるかも知れませんが、私は「仏としての役割」と呼びたいと思うのです。
 仏には、「限りない慈悲の心を持った人」という意味があります。「慈」というのは、相手に限りなく喜びや楽しみを与えることであり、「悲」というのは相手の悲しみや苦しみを限りなく抜き取ってあげることとされます。「慈」は「与楽(よらく)」、「悲」は「抜苦(ばっく)」とも呼ばれます。相手の喜びや悲しみを自らのものとしているのが仏であり、仏に自他の峻別はありません。
 “無意識”の自分というのは、自我に影響される以前の自分のことです。そこに自他の区別が生じることはありません無意識”であるからこそ、煩悩(自己愛から生じる身勝手な心の動き)に惑わされず、「自他一如」を実践できるということです。したがって、“無意識”で果たす役割こそは、限りなく仏に近い役割だと考えるのですが、いかがでしょうか。      
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 いずれにしても、私のように凡庸な生活に明け暮れている人間には、「仏としての役割」を果たすなど、縁遠い話ではあります。今の私には、せいぜい“意識”して「人から喜ばれる」ことをする程度しかできません。さしあたり、「無財の七施」の実践が目標でしょうか。 
 また、その他にも、家の中や公共の場でトイレのスリッパを揃えたり、近所のと人顔が合ったときには、「人から喜ばれる」よう声がけをしたり、あるいは、喫茶店でコーヒーを飲んだり、コンビニやスーパーに買い物に行ったときには、「人(店員さん)から喜ばれる」ように客としての役割を果たしたいと思っているのですが、これでは次元が低いのでしょうか? ともあれ、習い性となるまで、根気強く続けていかなくてはなりません。

 最後に森 信三(哲学者・教育者)の言葉で今回のブログを閉じたいと思います。
 「如何にささやかな事でもよい。とにかく、人間は他人のために尽くす事によって、初めて自他共に幸せとなる。これだけは確かです。」 
(〆)          

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