2015
02.06

「鬼は内 福は外」③/③

Category: 未分類

naitaakaoni.png
 キリスト教には、悪魔という概念があると聞きます。鬼に類似する概念ではありますが、似て非なるものがこの悪魔ではないでしょうか。辞書(広辞苑第六版)を引くと、聖書で敵対者を意味する概念としてあり、「悪および不義の擬人的表現」とありました。悪魔は、常に忌むべき存在として、徹底的に排除されるべきものとされています。
 これに対して鬼には、様々な側面があります。魔よけとして屋根の棟の両端に用いる鬼瓦があります。また、「鬼に金棒」「鬼の居ぬ間に洗濯」「鬼が笑う」「鬼の目にも涙」などの諺もあります。また、「泣いた赤鬼」などという名作童話もあります。さらには、“鬼ごっこ”などは、いつの時代も子どもたちの人気の遊びです。その道一筋の様子を指して「○○の鬼」などと呼ぶこともありますが、これも決して否定的な意味を含むものではありません。このように、鬼は排除されるものとしては存在しません。
  善か悪か、有か無か、白か黒か、損か得かなど、二者択一を迫るのが西欧の価値観・世界観です。これに対して、仏教を含む東洋の価値観・世界観は、極端を嫌います。二つの対極を超越したところに真理があると説きます。
 私たちの心は、ときに善にもなれば、悪にもなります。心の持ち方次第で、鬼にもなれば、仏にもなるのが私たち凡夫です。考えてみると、自分の中に鬼がいることに気づけたときの自分こそが仏なのかも知れません。その意味では、“鬼がいるからこそ仏にもなれる”とも言えます。
 そのことをしっかりと自覚した上で、少しでも仏になる努力をしていくこと、それが鬼も仏も併せ持つ生身の人間として、よりよく生きる道につながっていくのではないでしょうか。(〆)

33-3 
※クリックすると拡大して見られます。

次回は「オズの魔法使い」を掲載(3回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。
スポンサーサイト

トラックバックURL
http://zitaichinyo.blog.fc2.com/tb.php/318-06550b4e
トラックバック
コメント
キリスト教などの唯一神教の世界では、自分たちの神以外はすべて悪魔、こういう考え方もありますね。

例えば、女神アシュタロテが大悪魔アスタロトにされてしまったという話は有名ですし。

これも、自分のパラダイムを絶対視して、それ以外を全否定する考え方ですが。

あと、青森県のそのものズバリ「鬼神社」という神社の節分では、「鬼は内」だそうです。
それ以外にも鬼をご祭神にする神社では「鬼は内」と言うそうで。

また、お能の中に「鬼」の出てくるものがいくつかあります。

例えば、「恋の重荷」という演目では、宮中である女御に恋をした菊作りの老人が、一見軽そうに見える箱を持ちあげて庭を百度千度と回れば付き合ってあげようと女御に言われます。

実は、その箱の中身は重さ数十キロはあろうというもので、老人は箱を持ちあげることすらかなわず、恨みを飲んで死んでいきその後「鬼(怨霊)」となって女御の前に現れてきます。

ただ、実際のお舞台の上での箱の中身は「電話帳」だそうです。

この「箱」をいかにも重そうに持ち上げるところが、この演目の観所のようで。

「重いものは軽く、軽いものは重く持て」これは世阿弥の言葉ですが。

で、鬼となった老人はそれで退治されるわけではなく、女御を責め立て恨み事を一通り言い終えた後で、「これからはそなたの守護神となろう」といって、成仏していきます。

どちらかというと、お能の「鬼」は「成仏させるべき存在」として描かれているようです。

これもまた、人は、鬼にも仏にもなれるものなのだ、ということでしょうね。
我無駄無dot 2015.03.15 18:39 | 編集
管理者にだけ表示を許可する
 
back-to-top