2015
07.20

「達磨にヒゲはない?」④/④

Category: 未分類
rinnzai.jpg [臨済禅師]

 そこで思い出すのが、唐の時代に活躍した臨済宗の宗祖、臨済義玄(りんざいぎげん)の言葉です。

赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位(いちむい)の真人(しんにん)あり。常に汝ら諸人の面門(めんもん)より出入す。未だ証拠(しょうこ)せざるも者は、看(み)よ看よ。」
 臨済が、修行僧たちに説いた講義の中にあるたいへん有名な言葉です。要約すると、「誰の肉体にも、姿も形もない『真人』がいる…。いつも顔の穴から出たり入ったりしている…。まだそのことが確かめられない者は早く見つけよ…。」ということになります。
 ちなみに、顔の穴というのは、眼、耳、鼻、口などのことを指しているようです。五官と置き換えてよいかと思います。 臨済禅の厳しい修行は、この「真人」をつかむことが最終目的だとされます。この「真人」こそが「ヒゲのない達磨」でないかと思うのです。
 では、どうしたら「ヒゲのない達磨」をつかむことができるのでしょうか?ここは、再び無文老師の言葉を頼りにするしかありません。

 道元禅師は、「仏道をならうというは、自己をならうなり、自己をならうというは、自己をわするるなり」と示しておられるが、自分を忘れることが、一番、救われる近道である。現代人は、とかく自分を固守し、自我を主張し、少しでも自己の欲望を満足させようと努力しておるように見受けられるが、それは本当の幸せではあるまいと思う。…自分を忘れたときが、人間一番幸せである。

 「自分を忘れたとき…」、これがこの禅問答に臨むときの鍵になるのではいかと思います。「ヒゲのない達磨」…。それは、無意識に導かれたときに現れる“もう一人”のことなのではないでしょうか。言い換えるなら、大自然の摂理に随い、時空を超え存在する“永遠の自分”です。「自他一如」を体現する自分と言ってもよいかと思います。
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 読者の中には、ゴミ一つないきれいな公園に、空ペットボトルが転がっていたとき、とっさに、“ここにあるべきものではない!(拾わなければ)”と感じた経験はないでしょうか。また、見ず知らずの幼い子どもが、目の前で転んでしまったとき、とっさに“危ない!(助けなければ)”と感じた経験はないでしょうか。あるいは、報道などにより大きな災害の事実を知ったとき、とっさに“気の毒なことだ!(何か力になりたい)”と感じた経験はないでしょうか。これらは、無意識に導かれて生じる感情だと思います。それが「ヒゲのない達磨」が働いているときなのではないでしょうか。
 「ヒゲのない達磨」に導かれて行動することが、一番幸せであるということは、それが最も「ダルマ」、つまり「真理」、あるいは「法」にかなった人の生き方であるということなのだと思います。私は、それを信じたいのです。 (〆)

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