2015
07.16

「達磨にヒゲはない?」③/④

Category: 未分類
hana2.jpg

  一例として、私たちが「眼」で何かを見る場合のことを考えてみます。美術館へ行って作品を鑑賞するとしましょう。このとき、私たちは、作品を観る前に、どのような準備をするでしょうか。目の悪い人は、眼鏡をかけるかも知れません。あるいは、よりよく見えるようにと眼鏡をかけ替える人もあるかも知れません。また、眼鏡の汚れを拭き落としてから入館する人もいるかと思います。持参した目薬を差す人もあるかも知れません。いずれの場合も、私たちは、「眼」というものを強く意識しているはずです。
 しかし、散歩をしていて、偶然、美しい花を見つけたときはどうでしょう。花にじっと「眼」をやり、その場にたたずんでいるような場合です。そのとき、私たちは、自分の「眼」を意識しているでしょうか。恐らくは、全く意識していないと思います。文字どおり、花に「眼」を奪われているのだと思います。確かに「眼」はあるのに、それを意識することはない…。これが「無眼」ということではないでしょうか。
 耳、鼻、舌、体(触覚)の場合にも同様の状況が起こり得ます。期せずして、お寺の鐘を聴いたとき、花の香りに気づいたとき、あるいは、思いがけず香辛料を口にしたとき、あるいは、酷暑の折、空調の効いた部屋に入ったときなど、私たちは、感覚器官の存在を全く意識していないと思います。
 『般若心経』では、これらのことを「無眼耳鼻舌身意」と言っているのではないかと思うのです。「ある」とも言えるし、「ない」とも言える状態のことです。
 このように、私たちは、経験上、無意識のうちに感覚器官が働く場合があることを知っています。では、そのとき、感覚器官を働かせ、外部からの情報を収集している主体者は誰なのでしょうか?
 私見ではありますが、それが、「ヒゲのない達磨(もちろん眼も、耳も、鼻も、舌も、体も、意識もない)」なのだと思います。(以下、④/④につづく)

38-1 
※クリックすると拡大して見られます。
スポンサーサイト

トラックバックURL
http://zitaichinyo.blog.fc2.com/tb.php/309-3c853e31
トラックバック
コメント
管理者にだけ表示を許可する
 
back-to-top