2014
11.14

『どっこいしょ(六根清浄)』①/③

Category: 未分類
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 「どっこいしょ」、重い物を持ち上げるとき、階段を上がるとき、あるいは椅子から腰を上げるとき等など、無意識にこんなかけ声をかける人は多いのではないでしょうか。かく言う、私などは、年々歳々、その回数は増えるばかりです。
 この「どっこいしょ」の語源について、面白い説があることを知りました。その語源は、「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」にあるというのです。
 試しに「六根清浄…」「六根清浄…」「六根清浄…」と早口で繰り返していくと、だんだん「どっこいしょ」に似た響きになるから不思議です。
 ところで「六根清浄」と言えば、修験道にあって、信仰する山へ登るときに唱えられるものとして知られています。曰く「懺悔(ざんげ)、懺悔、六根清浄」と。そこで、この「六根清浄」ですが、次のような意味があるようです。
 『般若心経』の中に「眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんい)」、という経文がありますが、「六根」というのは、視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚、知覚の六つを司る感覚器官(あるは感覚機能)のことを指します。これによって認識されるのが、色(姿)であり、声であり、香りであり、味であり、触であり、法(思い)ということになります
 「清浄」とは、清らかで汚れのない状態のことです。したがって、「六根清浄」というのは、六つの感覚器官(感覚機能)を清らかで汚れのないようにすることになります。
 では、なぜ私たちは「六根」を「清浄」にしなければならないのでしょうか。 それは、本ブログでも、これまでも繰り返し述べてきたように、私たちの六つの感覚機能が独立した形では機能しないからです。「六根」は、それが働くとき必ず「わたし(自我)」の影響を受けることになります。どの機能も、「わたし」の好みや癖、都合などによって、本来の働きが抑えられてしまいます。そのため、いつも正しい認識ができるとは限りません。そのこともあり、「六根」のことを「六塵(ろくじん)」、つまり六つの塵(ちり)と呼ぶことさえあります。
 小学生の書いた「運動場」という短い詩があります。
  せまいせまいなといって
  みんなが遊んでる。
  朝会のとき石を拾わされたら
  広い広いなといって拾っていた

 子どもの素直な反応の表れた、微笑ましい詩です。しかし、これが人間の知覚の実態なのです。運動場の広さは変わらないのに、あるときは狭く、別のあるときは広く感じてしまう…。大人にも、これによく似た経験はあるだろうと思います。
(以下、②/③につづく)
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