2014
08.14

『願えば仏に』③/③

Category: 未分類
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 この考え方のもとには、『華厳経』の根本思想である「一即多、多即一(いちそた たそくいち)」があるようです。これは、以前、本ブログでも紹介したように「一」と「多」は全く同じであるという考え方です。物質を構成する一つの「微細な塵」の中にも、「大宇宙」が含まれている、そして、一つの「微細な塵」も無限の「大宇宙」も同等・同値であるということです。
 微細な塵は、私たちの身体を構成する細胞と置き換えてよいかと思います。一つ一つの細胞が「大宇宙」も同値・同等だとするなら、それがおよそ60兆個集まって形成される私たちの身体も、当然「大宇宙」と同等・同値であることになります。人間の身体のことを喩えて「小宇宙」と呼ぶことがあるのは、こんなところにも理由があるのではないでしょうか。
 つまりは、宇宙に広がる仏も、人間の身体に宿る仏も、仏であるという点においては、全く同じであるということです。その意味では、私たちは、すでに仏であるということになります。(もちろん、それは私たちの中に仏になろうと発心することが前提ですが)。   
 また、「一即多、多即一」は、これとは別な解釈もできます。先に述べたのは空間的な見方によるものですが、時間的に見ることも可能です。「一」を「一瞬」に、「多」を「永遠」に置き換えてみるのです。すると「一瞬」と「永遠」は、一つであることになります。ということは、「一瞬」の中に「永遠」があるということにならないでしょうか。仏に向かって歩んでいこうと思った瞬間に、私たちは永遠なる仏になっているということです。
 屁理屈のようにも感じられるかも知れませんが、仏教ではことほど左様に、私たちに仏道を歩むことを誘(いざな)っているのだと思います。
 私の物差しを捨てること、それは何よりも自分中心(あるいは人間中心)の見方を改めることです。自分(あるいは人間)のことばかり考えていると、小さな世界のことしか見えなくなり、真実の世界から遠のいてしまうことにもなりかねません。
 しかし、私たちが「私の物差し」の偏りや狭さを少しでも自覚し、それを少しでも是正していこうとした瞬間、物差しは、「私の色」を薄めるのではないでしょうか。凡夫である私たちにできることは、自分の煩悩に気づき、それを恥じつつ、慎み深く生きてくこと…、せいぜいこれくらいしかないのかもしれません。
 それでも、私は、「初発心時便成正覚」というこの言葉を信じたいのです。  (〆)

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