2014
08.06

『願えば仏に』①/③

Category: 未分類
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 私のブログに対する読者からの反応がありました。「私の物差しを問う」(配信h25.11.29~12.11)に対する、次のようなものでした。
 「一切の物差しを持たないというのは、どんなことなのだろうか…。偏って狭い自分の物差しを捨てられない。その物差しで、興味深く読ませていただいた…」
 「私の物差し」を捨てるなどということは、理屈では理解できたとしても現実にはたいへん難しいことです。それは、あらゆる我欲、我執、我見を捨て去ることを意味します。そのことによって到達できる境地こそが「悟り」であり、それは「成仏(生きたまま仏になる)」ことと同意だと受け止めています。生身の人間である私たちにとって、それがどんなに困難なことか私もよく理解しているつもりです。読者からの反応はもっともなものだと思いました。
 ただ、「私の物差し」を捨てられない自分がいることに気づけることにも大きな意味があると思うのです。
 禅にあっては、「己事究明(こじきゅうめい)」が課題であるとされます。自我を捨て、自己、つまり「本来の自分」とは何かを見極めることです。禅というと、「坐禅」を思い起こされるかと思いますが、坐という字は、土の上に人が二人並んでいる姿を表しているとされます。一方は自我がむき出しになった状態の自分です。そして他の一方は、自己(本来の自分)です。坐禅がねらうところは、一つの土俵の上で、この二人の自分が互いにじっくりと見つめ合い、対話することを通して、揺れ動く心を鎮め、清らかで落ち着いた状態に戻すことだとされます。その先にあるのが「悟り」であり、「成仏(生きたまま仏になる)」ことなのでしょう。
 このように、自分の中に自我と自己(本来の自分)を意識することは、「己事究明」への第一歩になるのではないでしょうか。その意味では、「私の物差し」を捨てられない自分に気づけるということも、「悟り」あるいは、「成仏(生きたまま仏になる)」への最初のスタートにもなると思うのです。(以下②/③につづく)


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