2014
09.11

「二つの円」から③/⑤

Category: 未分類
  
  2011_5~1
  二つ目の小円は、「我」に内包されますが、「我」そのものではありません。特異な存在としての、もう一人の「我」です。いつも引用している、山田無文老師の言葉を借りれば、「顔もない、目玉も鼻もない、ずんべら坊のような化け物のような奴だが、こいつを一目見れば、もう病みつきで、もう一日も忘れることができない」…、こう喩えられる自分です。これが「禅とは心の異名なり」という表現になるのだと思います。
 では、その小円に喩えた、心の異名とされる「禅」とはいったい何か?
 これに対しては、「三昧(ざんまい)」という言葉がキーワードになるだろうと思います。つまり、その「もの」や「こと」と一つになり切るということです。そこに、「我」が入り込む余地はありません。少しでも入り込むようなら、「三昧」とは言えません。毀誉褒貶(きよほうへん)を顧みない在り方です。  
 「三昧」に徹し、心の異名とされる「禅」の世界に浸ると、劇的な変化が起きます。最初に描かれた外側の円の枠は消滅し、内側の小さな円が無限に広がっていることに気づくことになります。小さな円で表した、もう一人の「我」こそが、本来の自分であったということです。いえ、もともと外側の円はなかったのです。 
 少し飛躍するかと思いますが、あるのは時空を超え、大宇宙の中に溶け込み、大宇宙と一体となった、どこまでも純粋な「我」だけです。「禅(通常使われる意味での禅)」にあっては、その様子を「三世十方に充満する」などと表現されます。
  「近代的自我」を確立し、キリスト教の思想の中に楔を打ち込んむことになったデカルトの業績は、称えられるべきものです。しかし、仏教ではその「我」も否定します。そして、それを否定したところにあるもう一人の「我」こそが尊いと主張します。 (以下、④/⑤につづく)    

IMG_4089.jpg

※クリックすると拡大して見られます。
スポンサーサイト

トラックバックURL
http://zitaichinyo.blog.fc2.com/tb.php/283-3d42ff2b
トラックバック
コメント
管理者にだけ表示を許可する
 
back-to-top