2014
10.25

「ネコを斬り捨てる」⑤/⑤

Category: 未分類
05

 考えてみればネコはとんだ災難でした。いきなり斬り捨てられ、絶命することになったのですから…。まったく理不尽なことです。
 しかし、よく考えてみれば、私たち人間も同じようなことが言えるのではないでしょうか。明日のことは分かりません。1時間先、1分先、いえ1秒先のことだって分かりません。まさに、一寸先は闇です。
 東日本大震災の例を出すまでも災害は、突然やってきます。そして、何の理由もなく、私たちの大切なものを奪い去ってしまいます。また、様々な事故や病気なども、私たちの都合とは全く無関係です。予告もなく突然やってきて、気がついたときには、その真っ直中にあるというのが、事故や病気ではないでしょうか。その意味では、私たちは、全く理不尽な世界に生きていることになります。
  「分かりませんを保つこと」…。それは、これまでも繰り返し述べてきたように、「大いなる命」(Something great)によって営まれる大自然の原則に身を委ねて生きているという事実を言っているのではないでしょうか。「自然の分身」を縮めたものが「自分」であるとされるように、本来、人間は、自然の一部です。人間は、自然の法則に随い、自然の営みの中で生きていく宿命にあります。そこに人間の自己都合は通じません。
 過去のことは変わりません、未来のことは分かりません、ただ現在があるだけです。「分かりませんを保つこと」というのは、「今、このとき」を一生懸命に生きていくこと言ったのではないかと思うのです。
  思えば、我が家のネコも自然の一部です。意味もなく歯を立てたり、爪を立てたりしますが、それでいいのだと思います。その「分からさ」がネコの自然の在り方なのですから…。そう考えると、その不可解な行動も、全く、気にならなくなるから不思議です。
 「南泉斬猫」は、私のような凡人にはとても歯が立ない禅問答ではあります。ただ、そうであっても、「自他一如」に徹することの意味、そして、「生きる」ことの意味をより深く、より厳しく考え進めていく上で、大きなヒントを与えてくれているように思うのです。(〆)


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コメント
「分かりませんを保って生きる」これはとても、難しいことだと思います。

実際の話、先週までは「何年もいろんな勉強を続けているのに、なぜ合格点が取れないのか分からない」そういう状態にいましたから。

ですが、そう思っていた「自分」はもういません。
心身脱落して、雲散霧消しました。また現れるかもしれませんが。
少なくとも、今では、「すっきりさわやか」という気持ちがあります。

それで問題なのは、「先週までの自分」が消えたとすると、このコメントを書いている「自分」は何なのでしょうか?

ここで、「父母未生前の本来の面目」の公案を考えてみます。

この答えの一つとして、「水道」を挙げることが出来るでしょう。

たとえば、「自分」を水の入ったマグカップと考えるわけです。そして、そのマグカップの両隣りに同じく水の入った、ビールジョッキとワイングラスがあり、ビールジョッキが父親であり、ワイングラスが母親だと考えてみる。

すると、共通するのが中に入っている水であり、その「水」が個人レベルでの「本来の面目」になるわけです。

次に、「コップの水」の話を考えましょう。
つまり、「コップの中に水が半分入っていたらどう思うのか」という話です。

この場合「プラス思考」人は「まだ半分ある」と考えマイナス思考の人は「もう半分しかない」こう思うでしょう。

では、コップの水が空になったらどうするのか。
ここで、マイナス思考の人は「もうおしまいだ」と思って絶望するのだと思います。

ですが、「水道の水が父母未生前の本来の面目である」こういう認識を持てていればどうでしょうか?

その場合の答は、簡単です。そう、「コップが空になったら新しく蛇口から水を注げばいい」。

「心身脱落」は「コップの水をぶちまけて空にすること」だと思えばいいでしょう。

あるいは、コップの水が汚れたら、一度水を捨ててコップをすすいでから、新たに水を蛇口から注げばいい。
そして、そのコップの水の汚れが悩みや苦しみであり、また煩悩であると。

ですが、水道の蛇口をひねればよほどのことがない限り、綺麗な水がいくらでも出てくることが分かっていれば、コップの水が汚れようがなくなろうが、気にかける必要はないでしょう。

なぜらは、汚れたり空になれば、その都度蛇口から新しい水を注げばいいのですから。

そう、今このコメントを書いているのは、そういう新しく、自分の器(マグカップ)に注がれた、「水」なわけです。

そして、その水は、その日の朝に目覚めるたびに、「蛇口」から「器(自分)」に注がれる。こう思うことが出来れば、目覚めもすがすがしくなると思います。

こう思えることが、「「大いなる命」(Something great)によって営まれている大自然の原則に身を委ねて生きているという事実」なのだと思います。

そして、「自分」とはしょせん、小さなコップの中の問題でしかない。

その一方で、水源地のダムから末端の蛇口に到るまでの、水道システムに存在する水、ひいては地球上に存在するすべての水が「より大きな自分なのだ」こう思うことが出来れば、「何があっても大丈夫」こう思えるのではないでしょうか?
我無駄無dot 2014.10.25 09:22 | 編集

我無駄無様
いつもながら、ユニークな視点からさまざまな例を挙げながら持論を展開される我無駄無様の発想の豊かさ、柔軟さには、敬服するばかりです。
 とりわけ、「父母未生前の本来の面目」に言及され、それを「水」を例にして論を展開されたこと、たいへん興味深く受け止めさせていただきました。言うまでもないことですが、私のブログ名は「無相の水」ということもありますので…。
 仰るとおり、水こそは、「大いなる命」(Something great)によって営まれる大自然の原則に身を委ねながらその有り様を変化させています。地球上のすべての水はつながっています。そして水には、決まった姿・形(相)がありません。いわゆる「無相」です。
 その意味では、コップの中にある水は、さまざまな縁を得て、今そこにたまたま現れた水の「仮の姿」であるわけです。しかし、私たち凡人は、それを本当の水と勘違いし、さまざまな煩悩に襲われがちです。
 曰わく、「この水には色が付いている…」「この水は好ましくない匂いがする…」「この水よりあの水の方がうまそうだ…」「この水をもっときれいにしたい…」といったところでしょうか?
 仰るとおり、コップから少し離れ、俯瞰する余裕を持てば、大自然の中で循環する清浄な水(本来の面目)の存在に気づけるのですが、それが難しい…。それに気づけば、コップの中の水を一旦、捨て去り、必要になれば、新たに水を注げばいいわけです。いつまでもコップが空っぽのままでは、人間は生きていけませんからね(勝手な推測ですが、今の我無駄無様の心境でしょうか?)
 その水も、「相対差別の世界」の中では、いずれは汚れたり、匂いがついたりするわけですが、そうなればまた、それを捨てて、新たに汲み直す…。生きていくということは、その繰り返しなのだと思います。
 ただ、清浄な水(本来の面目)が大自然の中には無限に存在しているということを心底から感得できているか否か、それが大きな分岐点になるのだと思います。それによって、生き方はずいぶん違ってくるのだと思うのです。自分の水が、常に清浄な水(本来の面目)とつながっているという確信を持つことで、ずいぶん生き方は楽になるのではないでしょうか。それが、仏教で言う「大丈夫」ということなのだと思います。
 すでにご存じかと思いますが、「首楞厳経」という経典に次のような文言がありましたので、蛇足ですが載せさせていただきます。
「煩悩の塵に包まれて、しかも染まることも、汚れることもない、本来清浄な心がある。丸い器に水を入れると丸くなり、四角な器に入れると四角くなる、しかし、本来、水に丸や四角の形があるのではない。
 ところが、すべての人々はこのことを忘れて、水の形にとらわれている。善し悪しと見、好むと好まないと考え、有り無しと思い、その考えに使われ、その見方に縛られて、外のものを追って苦しんでいる。」
 ありがとうございました。
じ・た・る dot 2014.10.25 20:01 | 編集
じ・た・る様
「ところが、すべての人々はこのことを忘れて、水の形にとらわれている。善し悪しと見、好むと好まないと考え、有り無しと思い、その考えに使われ、その見方に縛られて、外のものを追って苦しんでいる。」

本当に、その通りですね。
結局、人間はなまじ五感が発達しているので、それにどうしても引きずられるのでしょう。

それと、本来の面目である「水」が汚れるのは、様々な外的な要因がありますが、それ以上に自分自身で「汚してしまう」ことも多々あるわけです。

特に、「自分にはあれが出来ない」「自分にはこれがない」だから「自分はだめなんだ」こうやって自分を無限に責め続ける。

こういう連鎖をどこで止めるかも、大切なのだと思います。

「コップの水を捨てる(心身脱落をする)」というのは、そういう「自分を責める悪循環の連鎖」を止めてしまうという意味もあるのだと思います。

また、悟りを開くというのは、「水が本来の面目であり水道や地球の水全体が、Something great」という視点たてば、水道の蛇口を開くようなものでしょう。

蛇口を開けば、いつでも綺麗な水が流れてくる。

そして、その水の流れ自体が「本来の面目なのだ」それが分かっていれば、あるいは孟子のように「常日頃より浩然の気を養えば千万人でもいざ行かん」こういう気持にもなれるのでしょう。

これが、仏教で言う「平常心」なのでしょうが。

また、「なんじ、すべからく、随所に主となれば、たちどころに皆真なり」という「主人公」にも通じていく。

これが、他のところに書いた「電磁石のスイッチのオンオフを必要に応じて切り替える」ということですが。

単にオンオフだけではなく、流れる電流の強弱も調整できればなおいいわけです。

また「聖書」にこういう例えがあります「泥棒に盗まれることなく、火に燃やされることのない天に宝を蓄えなさい」と。

自分は、物質的なものにはあまり興味がありません。
その一方で、「天に宝を蓄える」(本当に大切なものを見出していく)ということが、どういうことかが分からない。そういう感じでしたが、今ではその「宝」を手に入れることが出来た。そういう感覚です。

いずれにしても、この1週間余り「本当の意味で目が覚める」ような体験が出来たと思います。

そのきっかけが「宅建の不合格」というのは、皮肉と言うしかありませんが。

とはいえ、自分の置かれた状況は何も変わっていません。
ですが「無一物中無尽蔵 花あり月あり楼台あり」こう思えれば、「日々是好日」の日々を送ることが出来ると思います。

ありがとうございました。

また蛇足になりますが、先日たまたま立ち寄った本屋で、「22世紀的「人生の攻略本」 起こることは全部マル! 3時間で新しい自分になれるワークブック」という本を見かけて少し読んだのですが、思わずのけぞりました。

というのも、「苦しみとはなんですか」という質問に対して「趣味です」と答え、「悩みとはなんですか」には「芸です」と答え、「人生とはなんですか」には「バカンスです」と答える。

なにかこう、とてつもなく突き抜けた書き方をしています。

また、この本の中に先日自分が書いた「雨雲の上には常に青空が広がっている」と書かれていて、びっくりもしました。

その時は、他の本を買うつもりだったので買いませんでしたが、昨日アマゾンで注文して、明日には届くはずです。

じ・た・る様も興味がおありでしたら、本屋さんにて立ち読みでもしてください。

ではまた、改めて。
我無駄無dot 2014.10.26 10:06 | 編集
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