2014
10.21

「ネコを斬り捨てる」④/⑤

Category: 未分類
04 

「甲」の修行僧と、「乙」の修行僧の答えに違いはありません。いずれも「分かりません」がその答えです。
 何が分からなかったのかが問題だと思うのです。「甲」の修行僧が殴られた状況と、ネコが斬りつけられた状況はよく似ています。両者とも、いきなり、とんでもない災難に見舞われています。したがって、この時点で、「甲」の修行僧は、ネコの気持ちに寄り添えるチャンスがあったのです。いえ、禅的な言い方をするなら、“ネコになるチャンス”があったのです。
 ネコにしてみれば、何が起こったのか全く分からなかったはずです。したがって、答えは「分かりません」でよいのだと思うのです。ところが、「甲」の修行僧は、師から殴られ、逃げ出してしまいました。そして、呼び戻され、「分かりません」と答えています。これは、修行僧自身の答えであり、ネコの答えではありません。これでは、禅の修行になりません。師が落胆したのは、そのことにあるのだと思います。
 では、「乙」の修行僧はどうでしょう。「乙」の修行僧も、「分かりません」と答えています。しかし、師はこの「分かりません」を許しています。
 推測ですが、「乙」の修行僧は、「甲」の修行僧と師とのやりとりの中から、大いに気づくところがあったのでしょう。
 それは、ただ一つ、“ネコに成り切る”ということだったのだと思います。想像ではありますが、師は、「乙」の修行僧の「分かりません」が、ネコの立場での「分かりません」であることを見取ったのではないでしょうか。

 では、「分かりませんを保つこと」とは何のことなのでしょう。(以下、⑤/⑤につづく)

IMG_4455.jpg 

※クリックすると拡大して見られます。

スポンサーサイト

トラックバックURL
http://zitaichinyo.blog.fc2.com/tb.php/274-df974838
トラックバック
コメント
人はなぜ合掌するのでしょうか?

仏教の場合には右手と左手を、ただ合わせますがキリスト教の場合には両手の指を深く組み合わせ、神に祈りを捧げます。

ちなみにいうと、自分は基本的にはキリスト教徒です。
というのも、亡くなった祖父がプロテスタントの牧師でしたので。
また、父方のいとこは現役の牧師さんです。

とはいえ、自分は物心着いてすぐぐらいに、わけがわからないままに父親に(その父もすでに故人ですが)教会に連れて行かれたくらいで、その後教会に通ったこともないし、聖書も読んでいませんが、親族はキリスト教の共同墓地に眠ってます。

で、先の話のポイントになりすが、右手と左手が何を象徴しているか、でしょう。

おそらく、右手と左手は本来一つのものであった物が、二つに分かたれたことを表しているのだと思います。

そして、それはそのまま「相対差別の人の世」を表していると。

そして、両手を重ねることは、そのまま分かたれたものが、一つになり、それが「自他一如」を表しているのだと思います。

キリスト教の場合には、神との一体化を表しているのでしょう。

今回のお話で言うと、右手を猫であり左手を自分とすれば、殴られた僧はその時、悔しさのあまり両のこぶしをギュッと、固めていたのではないでしょうか?

その一方で、許された僧侶はその時無心に合掌しながら「わかりません」と答えた。

その合掌している様を見て和尚は、「こいつは斬られた猫と自分を重ねているな」こう考えたのだと思います。

これが、甲許されず、乙が許された理由だと思います。
我無駄無dot 2014.10.23 12:58 | 編集
続いて、「人はなぜ握手をするのか」を考えてみます。

普通握手は、他人同士の友好のあかしとして行われます。

これは、「握手は実は複数人による合掌なのだ」と考えれば分かると思います。

つまり、合掌は自分ひとりで「自他一如」を表すとすれば、握手は「あなたと私は「自他一如」で一心同体の関係になりましたよ」ということを物語るのだと思います。

それで、今回のお話の始まりを考えてみると、南泉禅師が、「このネコの真実について、一言で言い当てればよし、さもなければ、一刀のもとにネコを斬り捨ててしまうぞ」と呼ばわったとき、もし一人でも「合掌」した僧がいたら、和尚は猫を斬る必要がなかったでしょう。

つまり、その合掌した僧侶は猫と「自他一如」になったいたわけですから。

がしかし、誰を見てもそんな弟子はいなかった。
なので、やむを得ず和尚は猫を斬ったのだと思います。

ちょうど、諸葛孔明が馬謖を泣きながら斬ったように。
我無駄無dot 2014.10.23 13:28 | 編集
管理者にだけ表示を許可する
 
back-to-top