2014
03.11

『稲むらの火』⑤/⑤

Category: 未分類

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 自分の大切な全財産を施し、見返りを求めないのが本当の布施である…。その意味では、私たち凡夫が行う施しは、本当の布施ではない…。しかし、私たちが、その「できない」という自覚を持って施しをすれば、それが布施になると…。私は、仏教思想の持つこのような柔軟性にいつも救われるのです。
 ところで、これら仏教で説かれる「布施波羅蜜」の思想から私たちが受け止めなければならないことは、いったいどういうことなのでしょう?いつものように、以下は私見です。
  言うまでもなく、物質や金銭を施すことは、布施の出発点に過ぎないのだと思います。他人様(ひとさま)に施しをすることよって、私たちに起こる心の変化が問題なのではないでしょうか。私たちは、捨て難く『三毒(貪・瞋・痴)』の煩悩を抱いています。そのうち、とりわけ「貪欲(とんよく)」は強力です。尽きることなく生み出され、際限なく増幅されるのが「貪欲」です。
 そこで、布施ですが、他人様に施しをする行為には、暴走する欲望にブレーキをかける意味があるのだと思います。我欲、我執で肥大化した心を薄め、浄めることなのかも知れません。
 と言っても、欲望を完全に消し去ることではありません。欲望を全て失ってしまったら、私たちは生きていけません。貪ることに歯止めをかけ、欲望を少なくして、今ある状態に満足する…、布施にはこんな意味があるのではないでしょうか。いわゆる「少欲知足(しょうよくちそく)」の奨励とその実践です。

 最後に、梧陵の話に戻ります。仏教によれば、「忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ)」や「布施波羅蜜(ふせはらみつ)」など、「六波羅蜜」を実践している人を「菩薩(ぼさつ)」と呼びます。
 浜口梧陵は、莫大な私財を投げ打ち、津波で破壊された村の再興に全力を尽くしました。梧陵こそは、「布施波羅蜜」の実践者であり、その意味では真の「菩薩」といってよいのではないでしょうか。
 先に紹介した「エルトゥールル号事件」にまつわる逸話もそうですが、最近ではこの種の話があまり取り上げられないのは残念なことです。浜口梧陵のこの偉業も、ぜひ、語り継ぎ、後世に伝えていきたいものです。とりわけ、未来を担う子どもたちに…。(〆)

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※クリックすると拡大して見られます。  
 次回は、「憎しみを止めるには」を掲載(4回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。                            
   

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