2014
05.22

「リーダーの条件」⑥/⑥

Category: 未分類
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 最後に飛躍するかも知れませんが、物語の青い王様にまつわる話から、ある歴史的な事実を思い出していました。第二次世界大戦前のドイツの国情に関わる事実です。あの悪名高きナチス党政権(党首A・ヒトラー)が、当時の民主憲法(ワイマール憲法)の下、当時のドイツ国民の圧倒的な支持を受けて誕生したということです。今さら説明するまでもないことですが、その後、ナチス党は暴走を始め、第二世界大戦の主因をつくる一方、国内ではユダヤ人の大量虐殺に手を染めていきました。
 ここで言いたいことは、「民主政治=多数決による政治」は、完全ではないということです。私たちは、そのことにもっと思いを寄せる必要があると思うのです。
 ただ、民主主義を原則とした社会にあっては、不完全なシステムではあっても、多数決を原理とした方法に頼らざるを得ません。それに代わるより望ましい政治システムを見い出せていないのですから…。
 政治を取り巻く課題はますます多様化し、複雑化しています。国の舵取り役を担う真のリーダーを見つけることは急務です。
 そのとき、大きな拠り所になるのは、やはり「無私」というキーワードではないでしょうか。「わたし(が)」「わたし(は)」「わたし(こそ)」等の意識は、すぐにしゃしゃり出て、人を思わぬ方向にミスリードします。
 リーダーを選ぶとき、私たちは、間違っても、容姿のかっこよさや、弁舌の巧みさ、押しの強さなどに目をくらまされてはならないでしょう。「無私」の思想の持ち、無文老師の言う「自利利他」を実践する人物をしっかりと見抜く力を磨かなければと思います。また、赤い王様のようなリーダーに育て上げることも必要だと思うのです。(〆) 

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リーダーと言うと、「カリスマ性」とか「強力な指導力」等が、求められる傾向がありますが、元スターバックスのCEOである、岩田松雄さんはその著書の中で、高校時代の体験を語っています。

岩田さんは、高校時代に野球部に所属していましたが、2年生の時に、後輩の新1年生とともに、グランドの整備等を率先して、行っていたそうです。その後岩田さんは、後輩たちから推薦されてキャプテンになりました。

その後、岩田さんは日産勤務を経て、様々な会社の社長を歴任することになるのですが。

その辺りのことは、「「ついていきたい」と思われるリーダーになる51の考え方」等に書かれているます。

それと、本来、民主主義=多数決ではないのですよ。
民主主義は、元々は全会一致が原則でした。
ですが、それでは膨大な手間がかかるために、後年多数決原理が取り入れられたにすぎません。

その典型例が、「根比べ」の異名を持つローマ法王選挙(コンクラーベ)です。

民主主義で大切なことは、その集団にかかわる意思決定を行う権利義務(つまり主権)をその集団の、構成員全体が分散して持っていることです。

ここで、前に書いた直接無限責任と間接有限責任の考え方が出てきます。

独裁国家は、独裁者が直接無限責任を負う代わりに、強大な権力を行使できる。
その一方で、民主主義国家は国民一人一人が、間接有限責任を負って、可能な範囲で自分の国の運営に関わっていかなければならない。

その引き換えに、自由と権利を保障される。

逆を言うと、国民がその間接有限責任を放棄してしまうと、ナポレオンやヒトラーのようなタイプに、付け込むすきを与えてしまうか、国が迷走状態になってしまうわけですね。

翻って今の日本はどうでしょうか? 数年前「政権交代で日本が変わる」そう言って、民主党に政権を取らせた国民は、その後「政治とカネの問題」が発覚すると、選んだ責任を放り出して、「辞めろ辞めろ衆議院を解散しろ」の大合唱、そして解散総選挙。

その後、自民党に政権を取らせたかと思ったら、今度は「憲法改正は許せない」で、自分たちの責任で選んだ自民党と総理大臣を責め立てる。

これで、どこまで「民主主義」だと言えるのでしょうね。
我無駄無dot 2014.05.22 23:27 | 編集
> 我無駄無様
>  ブログへのていねいなご感想、いつもありがとうございます。
> 全員一致が原則の民主主義ではありますが、「間接民主制」にあっては、不十分ではあっても多数決を採用しなければならないというジレンマがありますね。
>  その中でやはり大切なことは、社会の構成員である私たちが、もっと「謙虚」にならなければならいということではないでしょうか。具体的には、私たち(人間)は不完全なものであるという自覚でしょう。釈迦が「自分が愚かであるとわかるほどの賢者であれ。自らを賢いと思うとき、自分は愚かであると知れ。」(スッタニパータ)と言っています。また「学ぶことが少ないものは牛のように老いる。その肉は増えるが、智恵は増えない」(ダンマパダ)とも述べています。
>  先回も書いたように、私たちは「生きることの意味(目的)」「生きている上での役割」について、常に自問自答していく姿勢が必要なのだと思います。「悟りを開く」「仏になる」などというと抹香臭い感じがしてしまうのですが、煎じ詰めれば「人から喜ばれることをする」ということになるのではと思っています。もちろん、無意識のうちにそれができるようになれば理想ですが(それこそが「十牛図」の「入?垂手」の段階でしょうか)。そして、そこに「極楽」があるということです。
>  いずれにせよ、簡単なことではありませんが、自らの中にいる仏(もう一人の自分)を発見するための努力そのものが「生きることの意味であり、目的であり、役割である」というのが今の私の理解です。
>  ありがとうございました。
じ・た・る dot 2014.05.23 10:07 | 編集
般若心経の後半戦になりますが、結局「人生は自分次第である」これを語っているのが、一番最後の「羯諦 羯諦~」の「偈」の部分でしょう。

もちろん、ここで言う「自分」とは言うまでもなく、「仏性」に達した自分ですが。

前にも書いたように、「無」や「空」は「何もない」わけではなく、「全てが重層的に折りたたまれているために、何もないように見えている」だけです。だから「依無所得故 菩提薩埵」と般若心経に書かれている。この菩提薩埵というのは、「仏」を志す「自分自身」のことですが。

また、時間的に見ると、「無」の中には現在、過去、未来も折りたたまれているので、「涅槃三世諸仏依」と書かれている。

良く言われることに「思考は現実化する」という話がありますが、それは多分、事実でしょう。

というよりも、思考(想念)と現実の間には、アインシュタインの「E=MC二乗」の公式が働いていて、本来、思考と現実の間には、区別が無いのだと思います。

仏教で言う、「自他の区別が無い」この状態を王陽明は「万物一体」こう述べています。
また、弟子たちに「心の内外の区別は無い」とも語っています。

にもかかわらず、ほとんどの人は「思う通りの人生を生きることが出来ないと」、悩んでいる。これはどういうことなのか。

でもそれは、自分自身の中にある「不平不満、悩み、苦しみ(マイナスの価値を持つ想念)」が現実のものとなっている、それだけなのかもしれません。
つまり、自分で自分の首を絞めているだけ。

それに気づくことが出来れば、それ等の「煩悩」を少しずつでも減らしていく(あるいは金の純度を上げていく)だけなのですが。

では、「金」とは何かというと、どんなに不幸にみえる人生でも、必ずどこかに「喜びや楽しみ(プラスの価値)」を感ずる部分があるはずで、それが「金」になるわけです。なので、それを少しずつでも増やしていくことが重要だと。

そして、その「金」を発見しながら、一日一日を積み重ねることを「日々これ好日」というのでしょう。

そこから先はまた次回。
我無駄無dot 2014.05.23 12:32 | 編集
じ・た・る様
「わたくしが無い」とか「自他の区別が無い」というのは、具体的にどのようなことなのかが、良くわからない。そういう場合が多いと思うので、その辺りを考えてみたいと思います。

実際の話、物事を判断したり認識する主体としての「わたくし(自分)」が無いと、最悪詐欺にあったりカルト宗教の食い物にされたりしますので。

論語に「子、四を絶つ。意なく、必なく、固なく、我なし」と有ります。
これは、「無理やりに意地を通そうとすること。
全てのことを決めたとおりにしようと無理をすること(必)。
一つのことに固執して頑なになること。
自分の我を張ろうとすることを孔子は断たれた」という意味になりますが、仏教で言う「わたくしが無い」というのは、文字通り、こういう意味でしょう。

ここでの、ポイントは、「我」と「固」ですね。

例えば、自分を水だと考えてみます。
「水は、方円の器に従う」の言葉通り、水は柔軟な性格を持ちますが、その一方で温度の変化によって、液体である水から、固体である氷、気体である水蒸気に変化するわけです。

では、氷の上に、コーヒーの粉末と、砂糖を乗せればそれでコーヒーが出来るかというと、できません。

なぜなら、固体である氷には、結晶構造があるために異物を混ぜることが出来ないからです。

これが、「自他の区別がある」状態です。

また、三角形の氷は同じ体積の四角い器の中に入れることもできません。これは、氷が固いからです。

つまり、この氷の状態が、「我」であり、「固」なわけですね。

ですが、温度が上がって、氷が解けて水になるとコーヒーと砂糖を溶かして、程よい冷たさのアイスコーヒーが出来上がります。

また、さらにお湯になると、飲みごろのホットコーヒーになるでしょう。

この、コーヒーが出来上がった状態が、「自他の区別が無い(固なく、我なし)」ということでしょう。

また、体積が同じなら容量も同じなので、水になれば三角形の氷も、四角い器に溶けて入ることが出来ます。

そして、水は蒸気となって天に昇り、雨となって降り注ぎ、万物をうるおして循環していき、また万物をはぐくむ源となる。
これが、「無私(自利利他)」なのでしょうね。
我無駄無dot 2014.05.23 15:03 | 編集
我無駄無様
 『般若心経』についてのご高説、たいへん興味深く拝見しました。ありがとうございました。
 『般若心経』が説く「空」についてですが、私は次のように考えています。もちろん独断的な解釈ですが・・・。
 「空」は、よく「有るでもない、無いでもない状態」となど言われますが、この一見矛盾する言い様こそは、仏教では、それを単純にからっぽの状態とは捉えていないからだと思います。逆に「あるもの」によって、隈なく満たされている状態を指しているのではないかと思うのです。
 無色透明な寒天が、器の底に一様に薄く凝固している状態を考えてください。器の中は寒天に満たされているのに、無色透明であるために、それを認識することはできません。器を逆さまにしても寒天は流れ出さないので、それを確認できません。しかし、紛れもなく寒天は存在しています。これが「空」と呼ばれる状態です。いわゆる「絶対無」です。
では、「空」であるとき、それを満たしている「あるもの」ものとは一体、何でしょうか?
 それを仏教では、「仏(仏性)」としているのではないでしょうか(平たく言えばSomething greatということになるでしょうね)。白隠禅師の詠う「衆生本来仏なり 水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の他に仏なし」です。この一点において、「万物と我と一体」「天地と我と同根」、つまりは「自他一如」であるということです。もちろん私はありません。  
繰り返しになりますが、自らの中にいる仏(もう一人の自分)を発見することが「生きることの意味であり、目的であり、役割である」と思います。そして、よくよく考えてみると、それはそんなに特別なことではないということを、禅は教えてくれているように思うのです。
 ありがとうございました。
じ・た・る dot 2014.05.23 20:27 | 編集
じ・た・る様
「寒天の喩」確かにその通りだと思います。

人間は、他の生き物よりも目と耳が発達しているので、「目に見えず耳に聞こえなければ何もない」。無意識的にそう思うのでしょう。

プラネタリウムに、「メガスター」と呼ばれるものがあります。

普通、プラネタリウムは肉眼では見えない6等星以降の星は、「見えないんだから映さなくていいだろう」と言って、投影しなそうです。
それを、「メガスター」では、あえて6等星以降の暗い星を投影したところ、これまで以上に奥行きと美しさのあるプラネタリウムが、出来上がったそうです。

また、ユーミンこと松任谷由実さんの歌声には、超音波の成分が含まれていて、その超音波が「癒しの効果を発揮する」とも言われています。

ですが、現在主流となっているCDはその超音波を、「人間の耳には聞こえないから」という理由で、記録しないそうです。なので、ユーミンの歌をCDやiなんとかを使っていくら聞いても「癒しの効果」は得られません。

この超音波や6等星以降の暗い星も、「空」ですね。
そして、その超音波によって得られる効果や、6等星の星を投影することで、得られる星空の美しさが、この場合の「仏性」になると。

いずれにしても、限定された能力しかない五感(五識)だけを絶対視して、そこから外れるものを認めない、そこに今の社会の限界があるとも思えます。

また、「我」と「固」をむき出しにして、そこから外れる者に敵意を向ける人達も増えていますし。

そもそも、「自分」というのも意識できるのは、全体の一部分だけなので、それ以外の認識できない「無意識」の自分と向き合っていくこと、それが、「同行二人」ということなのでしょう。

実際の話、人は、「無意識の自分」がいなければ、呼吸をすることも、歩くこともできないわけですから。

結局、「本当の自分」は遠いどこかに探しに行かなくとも、常に「自分」と共にいるのですね。

その、「もう一人の自分」を「意識」して感謝することから、人は幸福になれるのだとも思えます。
我無駄無dot 2014.05.24 13:04 | 編集
我無駄無様
メガスターの話、たいへん興味深く読ませていただきました。
 宇宙の構成物質は、その95%が、人間の目に見えないものだそうですが、それをも含めて宇宙の実相(真の姿)なのですね。宇宙から生まれてきた人間(生きとし生けるものと言った方がいいかも知れませんが)も同様でしょう。「華厳経」で説かれる「一即多多即一」は、そのことを述べたものだと思われます。
 見ることも、聞くことも、嗅ぐことも、味わうことも、触れることもできないものではありますが、「無意識の自分」「もう一人の自分」(言い換えるなら仏性ですが)を感得しながら生きていくということが、人の幸せに通じるということを私も信じていきたいと思います。それは、今、こうして自分があることへの感謝であると同時に、有形、無形を問わず、自分を支えてくれるすべてのものに対する使命(役割)を自覚させる力とし働くのではないでしょうか。
 いずれにしても、「同行二人」というのは、素晴らしい考え方だと思いますね。ありがとうございました。
じ・た・る dot 2014.05.25 11:58 | 編集
じ・た・る様
「五感では認識できない存在が、無であり空であり、そこに仏性が宿る」こういう認識が共有されているから、「お陰さまで」という言葉が日本語に存在しているのでしょうね。

いずれにしても、自分も「同行二人」その言葉を自覚しながら、生きていこうと思います。
ありがとうございました。
我無駄無dot 2014.05.26 14:30 | 編集
じ・た・る様
安田登さんの「あわいの力」からの引用になりますが、以前書いたように古代人(殷よりも前の時代の人)には、「心(自分という認識)」が無かったようです。

殷の時代の甲骨文字に「羌族を3人生贄にささげても良いかどうか」を問う卜占が記録されていたそうですが、肝心の羌族には、それに関して不満もなく、また自分たちを家畜扱いしていた、殷に対して反乱も起こす気もなかったようです。

ただ、その後羌族の中から興った周によって、殷は滅ぼされるのですが。

そして、その辺りから「心」に相当する文字が出てきたとのことです。

その時代の人々は「心は内臓に宿っている」という認識があったようです。

事実、内臓(正確には腸)には独特の感覚があって、それがもとで、「IBS(ストレス性腸過敏症候群)」という症状が発症するそうですが。

ただ、現在では、「心は脳に宿っている」という考え方が、主流のようです。

これは、言葉の獲得による、脳の発達が強く影響しているようですね。

が、しかし、現代人は、その「心」によるストレスに苦しめられいると。

また、「内臓感覚」出力が弱く、また、言葉では捉えることが出来ないとのことです。

安田さんは、現在では忘れられているその「内臓感覚」を「あわいの力」と呼んでいて、それを取り戻すことが、「心の時代の次を生きる」ために必要だと述べています。

この「内臓感覚」も「無意識の自分(もうひとりの自分)」つまり「仏性」と言えるでしょう。
我無駄無dot 2014.05.26 15:29 | 編集
上の話の続きになりますが、安田さんは「あわいの力」の中で、ヘレン・ケラーの例を述べています。

彼女は、言うまでもなく幼いころの病気でいわゆる「三重苦」の状態になりますが、サリバン先生に「文字」を教わり、「全ての物に名前がある」ことを知って、それまで自分がしてきたことの、意味を知り後悔と悲しみを知ったそうです。

安田さんは、「文字と時間の概念を持つことで、心が生まれる」そう述べてます。

そして、ヘレンには文字を知るまで「心」がなかった。羌族もまたヘレンと同じ状態にいたから、唯々諾々と殷の生贄にされていた。

ここから、見えてくるものは、「全ての人間は本来無一物(最初から自他の区別は無い)」ということです。
そう、六祖慧能禅師の言うとおりに

そして、「自他の区別」は時間の概念の把握と、言語の習得で「心(自分)」が芽生えることによって生み出される。いわゆる「ものごころが付く」わけですね。

そこから、「苦しみ」が生じてくると。

逆にいえば、言語の感覚が失われ、時間の感覚も喪失する時、自他の区別のない世界が開けるのだと思います。

これを能を大成した世阿弥は、「言語を絶して心行所滅」あるいは、「妙」と呼んでいるようです。

そして、その瞬間を天の岩戸開きにたとえ、「暗闇に光がさし、神々の面が白く照らされた」と、述べています。これが「面白い」の由来だそうですが。

能は現実の世界を生きる人間「ワキ方」と、「妙」の世界を生きる「シテ方」が出会うことによって、物語が展開するものが多いです。

しかも、そのシテ方はほとんどの場合、「異界」の存在です。つまり、天人であったり妖怪であったり幽霊であったり。と。このような形態の能を「幽玄能」というのですが。

禅の目的もこの「言語を絶して心行所滅」に達することでしょうね。

そして、能は舞台という形で、禅の境地を実現するための物だったと。
我無駄無dot 2014.05.30 01:52 | 編集
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