2014
05.18

「リーダーの条件」⑤/⑥

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 それは、赤い王様の口を借りて発せられた大自然の創造者である「大いなる命」の声ではなかったか…。これが私の見解です。
 赤い王様は、くだものを口にした時点で、大自然の創造者である「大いなる命」に運命を託すことを決意したのではないでしょうか。「わたし」を「ゼロ」にすることで、大自然の法理(摂理)に随って生きる自分に目覚め、それに身を委ねたのだと思います。
 赤い王様にとって、くだものに毒があるかないかは問題ではなかったのです。毒があれば死に、毒がなければ食べ物にできる、ただそれだけのことです。赤い王様の最後の言葉は、大自然と一つになることで生み出された「無私なる言葉」と言うべきでしょう。
 仏教には、「自利利他(じりりた)」という考え方があります。自己の利益と他者の利益を同時に実現するという意味です。いつも例に出す、山田無文老師(昭和に活躍した臨済宗の禅僧)の言葉です。
 「自分のためにしたことはみな消えていく。自分の欲望を満足したということは、満足したときに何も無くなってしまう。しかし、人のためにしたことは、何度でも喜ばれ、会うたびにお礼を言われる。人のためにしたことは永久に残る。」
 老師の言葉に依れば、赤い顔の王様は、仲間を救うことで自分も救われたことになります。赤い顔のさるたちは、王様ざるの亡骸を泣きながら背中にかついで森へ帰りますが、そのことを暗示するシーンなのだと思います。
 赤い王様は、「自利利他」を実践したのです。それが、この仏教説話のテーマだと考えるのですが、いかがでしょうか。(以下⑥/⑥につづく)

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コメント
今回の「リーダーシップ」を考えたとき、いろいろと参考になるのが、「論語」です。

実は、自分は都内で毎月開かれている、親子連れを対象とした論行教室に足掛け5年通っていて、色んな親子とともに論語の素読をしています。

それで、論語に繰り返し出てくるのが、「君子」と「仁」です。

この君子というのは、人間としての理想の生き方を象徴しているわけですが、今回のお話に基づくと、「リーダーとして有るべき姿」を表している。そう言えます。

例えば、
子曰く「君子はそれを己に求め、小人はそれを人に求む」これは、「リーダーは、リスクや責任を自分で背負わなければならない」。こうなるわけです、

また、子曰く「君子は義に諭り、小人は利に諭る」。これは、「リーダーは目先の利益ではなく、何が正しいことなのかを考えて行動しなければならない」。です。

また、「仁」は優しさや思いやり、あるいは、利他的な行動等も含まれるでしょう。

今回のお話の、赤い顔の猿の王様は「君子」のあるべき姿を仏教説話という形で説いている。自分にはこう思えました。

それと、昨日の「最近「生きることの意味」を問われているのだ」というお話ですが、これもその通りだと思います。

少なくとも日本人は、昭和20年8月15日が来るまでは、論語にもとづく道徳観の枠の中で生きてきたはずです。
もちろん、論語だけではなく仏教やその他もろもろの、東洋的な道徳観の枠の中と考えるのが正しいのでしょうが。

それらが、敗戦以降前後の見境もなく、「戦争に繋がる」として否定されたのではないかと思います。

その結果として、欧米的な利己主義や自己中心主義が主流となり、「人はどう生きるべきなのか」という「哲学」がどこかに行ってしまった。

その挙句、色んな社会的な混乱や矛盾などが起こっているそう思えます。

それでも、「共産主義に反する」という理由で先人達が生み出した遺産を、根こそぎ破壊した中国の「文化大革命」に比べると、まだましだと思えますが。
我無駄無dot 2014.05.18 16:43 | 編集
> 我無駄無様
>  今回のブログの感想を、論語にある「君子」と「仁」をキーワードにして示していただきありがとうございました。
>  「仁」は優しさや思いやり、あるいは、利他的な行動とありましたが、その意味では、それは六祖慧能の言葉「禅とは心の異名なり 心は禅の身体なり」にある「禅」にあたるものではないでしょうか。盤珪禅師が命がけで追求した「明徳」も同じでしょうね。言い換えるなら「仏心」「仏性」ということになるのではないでしょうか?
>  私は、それが誰の中にも生まれながらにして備わっていると説く仏教の思想にとても惹かれます。いわゆる「衆生本来仏なり」という思想です。もちろんそれに気づくためには努力(修行)が必要ですが、それこそが「生きる意味(目的)」であるように思います。当然、「君子」も例外ではありません。現代に渦巻くさまざまな混乱や矛盾は、人々がその努力を怠っていることに起因していると言っては、言い過ぎでしょうか。
>  「四十にして惑わず」となるためには、それ相応の問題意識と実践的態度が伴わなければならないのではと思うのですが・・・。
>  ありがとうございました。
じ・た・る dot 2014.05.19 13:59 | 編集
じ・た・る様
「それ(仏心・仏性)が誰の中にも生まれながらにして備わっている」。
儒教(孔子の教え)にも仏教におけるこの考え方と、同様の物があります。

儒教では、それを「良知良能」こう呼んでいますが。

民の時代の儒学者王陽明は「本来、良知良能は誰のこころにも備わっているが、雑駁なものが積み重なっているために、それに気づくことが出来ないのだ」。という趣旨のことを弟子に語っています。

また、「修業とは、金を錬成する際に、不純物を徐々に取り除いて金の純度を上げていくようなものである」とも述べていますが、これは、本質的には煩悩(迷いや苦しみなどなど)を減らして、無の境地に達する禅の考え方と同じでしょう。

そして、「純金」になった状態を「聖人」と呼んでいるわけです。これは、仏教における「仏」と同じ意味でしょう。

ただ、王陽明は「儒教アズナンバーワン」という考え方を強く持っていて、「仏家の思想(仏教)」を小馬鹿にしているところがあるのが、難点だと言えますが。

また「人々がその努力を怠っていることに起因していると言っては、言い過ぎでしょうか 」これも、その通りではないでしょうか?

例えば、全体主義と民主主義との違いを考えたとき、全体主義は映画「ベン・ハー」に出てきた、ガレー船(鎖につないだ奴隷が、強制的にオールを漕がされる船)のようなものだと言えます。つまり、その国の国民は、自由や人権を持たず強力な権力に服従することを強いられている。

その一方で民主主義は、手漕ぎのボートの集合体のようなものでしょうか。

言うまでもないことですが、手漕ぎのボートは乗っている人間がオールを自分で漕がなければ、進むことはありません。その代わり、乗っている人間がどこに向かってボートを進ませるかを、自分で選択することが出来ます。つまり、民主主義は自由や人権を憲法で保障されている代わりに、それに見合った責任やリスクを負うことを個人個人が求められているわけです。

以前書いた、「独裁者」はある意味で特定の個人が集団全体に対する「直接無限責任」を負っているようなものです。

この直接無限責任とは、会社法の考え方で「その個人財産で限度なしに、債権者に対して責任を負う場合」になるわけですが。ワンマン経営のオーナー社長が、この場合になるでしょうか?

その一方で株式会社は、「経営資金を出資した人(株主)が、一定の限度で会社に対する出資義務を負うにすぎず、会社債権者に対して直接の責任を負わない場合」の「間接有限責任」が前提で経営されています。

民主主義においては、一人ひとりの国民がこの「間接有限責任」を持つことが、求められていて、その対価として、憲法上の自由や権利が保障されている。こう考えるべきでしょう。

言葉を変えれば、個人個人が一定のレベルに応じた「君子」であることが求められるのが、民主主義だと言えると思います。

それが、現在の日本ではほとんど認知されていないように見えます。

その結果として、「小人はそれを人に求む(小人はリスクや責任を他人に押し付ける)」、「小人は利に諭る(小人は目先の利益ばかりを追求する)」、「小人は同じて和せず(小人は付和雷同して迷走状態になる)」今の日本は、こういう状態になっているのだと思います。
我無駄無dot 2014.05.19 16:11 | 編集
我無駄無様
 儒教と仏教の共通点についてのご高説、ありがとうございました。たいへん勉強になりました。
「良知良能」、「純金」、そして「聖人」などの概念は、まさに、仏教における「仏」と同じものでしょうね。「枢軸の時代」とも呼ばれるゆえんの一つが、この儒教と仏教との共通点にも現れているということでしょう。
 ガーレ船と手漕ぎボートの喩えは面白いですね。民主主義社会では、誰もが自由にボートを漕ぎ出す自由や権利は認められているわけですが、表裏一体として、その危うさにも目を向けなければならないということでしょう。やはり、私たち凡人には、油断していると「わたし」という病にかかりやすいという生得的な欠点があるという自覚が必要なのでしょうね。
 一人一人が「君子」になることは、たいへん難しいことなのですが、現代は、その問題意識を持つことさえも難しくなっています。「生きることの意味(役割)」について、一人一人が真剣に考える時と場、そして心の余裕が決定的に不足しているように思います。その意味で、私は仏教の発信力の拡大に期待を寄せているのですが・・・。
 ありがとうございました。
じ・た・る dot 2014.05.21 11:31 | 編集
じ・た・る様
日本の戦後の民主主義は、言うまでもないことながら、アメリカの占領政策という形でもたらされました。

そのため、欧米人がどのような過程を経て、自由や人権という概念を生み出してきたのかに対する、理解や認識が戦後の日本人には、決定的に欠けているのだと思います。

それと、戦後70年近くの間に、我々がどれだけの物を失って来たのかも、問い直す必要があると思いますし。

あと、「般若心経」の「後半戦」についてですが、まず準備運動?として、「無は実は無ではない」。ことを書いてみたいと思います。

まず、パソコンのディスプレイは、RGBの3原色を組み合わせて、表示されています。

そして、このRGB(赤、緑、青)を組み合わせると、「白」になるわけです。

普通人は、「白は無色である」こう思いがちですが、太陽光線にプリズムを当てると、7色に光が分離します。これは、太陽光線には目に見える波長から目に見えない波長までの「光」が含まれていることを、意味します。

それで、「十牛図」における「人牛倶忘」にもなにも書かれてませんが、そこには実は「全て」が含まれている。

だから、そこには「白い円相」が描かれていると。

ちょうど、中村天風がカリアッパ師から「天の声には全ての音が含まれている、だから耳で聞こえる音が取り去られているのだ」。と教えられたように。

これは、「量子力学」でいう、「全てが重層されて存在している」という考え方そのものでしょう。

そして、その状態がすなわち「仏」なのだと。

あとは、その「仏」の中からどれだけの物を、引きだしていけるのか、なのですが。
我無駄無dot 2014.05.21 12:33 | 編集
それと、確かに「一人一人が「君子」になること」は難しいと思います。

実際の話、自分自身、「君子」と言えるかと問われれば、「遠く及ばない」こう言わざるを得ないわけですし。

だからこそ、自分に可能な範囲で「自分を修める」ことを、続けているのですが。

これは、儒教で言う「修身(あるいは脩己)」ですが、仏教で言えば、「菩薩行」に当たるでしょう。

菩薩とは、本来「仏」となることを目指す修行者のことですし。

いずれにしても、安岡正篤先生は「志」を持って生きることの大切さを、説いています。

それすらも、困難な今の社会情勢というのは、何なのでしょうね。
我無駄無dot 2014.05.21 13:39 | 編集
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