2014
05.14

「リーダーの条件」④/⑥

Category: 未分類
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 ところで、この話が、なぜ仏教説話として伝えられているか疑問に思われる読者もあるかも知れません。確かに、仏教的な匂いがあまり感じられない話ではあります。そこで、以下は、いつものように独りよがりな思索です。
 仏教(とりわけ禅)では、「無心」を大切にします。心の無い状態です。どのような心を無くすのでしょうか。それは、自己愛に結びつく「わたし」のことではないでしょうか。誹(そし)られたり、煽(おだ)てられたり、悪口を言われたり、褒められたりといった様々な世評を、一切気にしないでいられる自分のこととも言えます。
その意味では、「無心」は「無私」です。いわば「ゼロ」の自分です。
 赤い王様のとった行動が、思慮に欠けていたという側面は否定できません。しかし、その行動が「無心」と「無私」に基づくものであったことは確かです。「このくだものには、ひょっとしたら毒が入っているかも知れない。これを食べたら、自分は死んでしまうかも知れない…。」もし、赤い王様が、こんなふうに考えたら、仲間の猿たちは、救われなかったでしょう。
 「わしが食べてみるから、何ともなければ食べるがいい…。」
 たいへん重い言葉です。この言葉の中に、自己愛に結びつく「わたし」の欠片もありません。あるのは、お腹を空かした仲間の猿たちのことだけです。赤い王様は、この時点で「わたし」を捨てています。その意味では「無私」の状態です。
 では、この言葉を発した主体者は、いったい誰なのでしょうか…? 以下、私見を述べたいと思います。(以下⑤/⑥につづく)

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コメント
じたる様
ずいぶん久しぶりに、このブログを見ましたが、今回のテーマは、奥が深そうですね。

表面的にみると、このお話は、民主主義と独裁主義の違いを描いているように見えます。

つまり、赤い顔の猿の群れは独裁国家、青い顔の猿の群れは、民主主義国家のようです。

普通我々は、「独裁者=悪者」と思いがちですが、独裁者は強力な権力をもっている代わりに、その集団(組織、国家)に対する全てのリスクと責任を自分ひとりが負わなければならないわけで、それを赤い顔の猿の王様は、象徴しているように見えます。

その一方で、民主主義の目的の一つはリスクと責任を分散することです。

つまり、特定の個人にリスクや責任を集中させると、その個人が倒れたとき、収拾のつかない事態に陥る、それを回避するために、リスクや責任をその集団の構成員全員で公平に負担することを目的にして、民主主義の概念が生まれたこう言えるわけです。

赤い顔の猿の王様は、自分が率先して実を食べることで、全てのリスクを負いましたが、群れそのものは救われました。
逆に、青い顔の猿の王様は、リスクを全員で負担することを選択したことで、結果的に群れを全滅させた。

これを考えると、民主主義が良くて独裁が悪いとは一概には言えないことが分かります。
我無駄無dot 2014.05.15 08:53 | 編集
我無駄無様
 お久しぶりです。「無相の水」を覚えていてくださり、開いてくださった上に、コメントまで寄せていただいたことを感謝します。ありがとうございました。
 今回の「リーダーの条件」という話が、仏教説話として伝えられていることに不審をもたれたかも知れません。このことについては、次回⑤/⑥で、私なりの見解を披瀝させていただきますので、ぜひご一読いただき、ご感想など聞かせていただければ幸いです。また、民主主義と独裁主義の問題については、最終回⑥/⑥で触れています。こちらの方もぜひご一読ください。いつも小出しの配信で申し訳ありません。

 「観自在菩薩」についての見解、たいへん興味深く拝見しました。ご承知の通り、禅では自分の外に仏を置きません。「観自在菩薩」は、結局のところ自分のなかにある、いえ、自分自身であるということを体得することが、「悟り」と同意になるということなのでしょうか。
 ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。(じ・た・る)
じ・た・る dot 2014.05.15 19:51 | 編集
じたる様
返信ありがとうございます。
「「観自在菩薩」は、結局のところ自分のなかにある、いえ、自分自身であるということを体得することが、「悟り」と同意になるということなのでしょうか。」
これは、仰る通りだと思います。

結局、人は自分の外に色んなものを求めようとするから、それに振り回されその挙句自分を見失ってしまう。そういうものなのでしょう。

なので、あえて、その「「自分」を観測しないこと」が必要なのだと思います。

そして、自分を観測しなくなることで、「十牛図」で言う「人牛倶忘」の状態になっていく。

あるいは、中村天風が言う「コップに何も入っていない状態」になっていく。

その時に、「隻手の声(中村天風流に言えば天の声)」が聞こえるのかもしれないですね。

ただ、そこから先が問題で、十牛図では「人牛倶忘」の次に、花咲き乱れる世界を描いた、「返本還元」があり、最後の衆生済度を実践する布袋和尚を描いた「入鄽垂手」にどう繋げていくかが重要で、それが最も難しいのではないかと思います。

ところで、能楽師の安田登さんによると、「古代人には「心(自我意識)」が無かったのではないか?」。とのことです。

また、現在の漢字の元である、殷の時代の甲骨文字では「心」に相当する文字が無かったらしい。とのことで、その時代の人々には、「自分とは何か」という認識や概念が、無かったらしいです。

その詳細は、安田登著「あわいの力」という書籍に書いてありますので、よろしければ、読んでみてください。
我無駄無dot 2014.05.16 09:04 | 編集
「観測」という視点から、「般若心経」を考えてみます。

まず、「眼耳鼻舌身」は外界を観測するための器官として、機能しています。
そして、観測の結果を統合して、判断を行うのが「意識(自我意識、自分)」なわけです。

そして、その観測対象として「色声香味触法」があり、その結果として「受想行識」が成立する。

では、それらを観測しなければどうなるか? というと、「眼耳鼻舌身」はあってもないのと同じ、またその対象である「色声香味触法」も、その結果である「受想行識」も成立しません。

それが、「無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法」ですね。

その結果、「無眼界乃至無意識界(目で見る世界から心で感じる世界まで無になる)」。と。

これらが、「空」ということでしょう。

そして、それらを「観測」するかしないかを決めているのが、実は「観自在菩薩(自在観測者)」である「自分」である。

よって、その「自分」を観測しなければ、「一切の苦しみ(老病死その他もろもろ)は「空」になる」これを説いているのでしょうね。

これが、「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時(観音様が悟りに到る知恵を深く考察されていた時)」ということなのでしょう。

ただ、これらはすべて、言ってみれば「前半戦」でしかないのですが。

後半戦については、長くなるので、改めて書いてみたいと思います。
我無駄無dot 2014.05.16 09:46 | 編集
我無駄無様
 「十牛図」の意味するところは、本当に深いものがありますね。発心を意味する「尋牛」からさまざまな段階を経て「人牛倶忘」に至り、「返本還元」から「入鄽垂手」に進む様は、公案「竿頭進歩」が発しているメッセージと酷似していますね。想像ですが、公案「二僧巻簾」も結局は、同様のことを言っているのではないでしょうか?
 いずれにしても、羅漢悟り(一乗悟り)を戒める大乗仏教の立場を主張したものだと思います。ただ、仰るとおり、凡夫である私たちには、それが最も難しいところなのですが。
 ただ、このことについて、私は、最近「生きることの意味」を問われているのだと考えるようになりました。キーワードは「役割を果たす」ということかと思っています。いずれ、思いをまとめてブログに配信したいと思っているところです。
 
「古代人には「心(自我意識)」が無かったのではないか?」との指摘、たいへん興味深く感じました。ありがとうございました。
 また、「般若心経」についてのご高説、後半を楽しみにしております。(じ・た・る)
じ・た・る dot 2014.05.17 09:49 | 編集
我無駄無様
〈訂正です〉
先の文中で、羅漢悟りを「一乗悟り」としてしまいましたが、正しくは「小乗悟り」でしたね。失礼しました。(じ・た・る)
じ・た・る dot 2014.05.17 09:57 | 編集
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