2014
06.27

「Bad news is good news!」⑥/⑦

Category: 未分類
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 ただ、こんなことを言うと、「それでは、凡人は救われないのか?」「大乗仏教というのは、すべての人を救うことを標榜して誕生してきた仏教ではなかったのか?」という声が聞こえてきそうです。その疑問はよく理解できます。
 それに対して、私は次のように考えています。
 公案の解答を求めて一心に取り組んでいるとき、少なくとも私たちの煩悩はその火力を落としている…。公案に挑んでいるとき、私たちは煩悩から解放されている…。なぜなら、私たちが公案の解答を求めることに何の得もないからです。また、万が一、正答を得られたとしても、何の見返りもないからです。

 どの公案にも共通するテーマは、「わたし」も「あなた」も根源的には一つであるということです。どの公案もその真実に目を開かせる手だてなのだと思います。
 得もなく、見返りもない課題に挑んでいるとき、私たちは、「わたし」を忘れているはずです。また、それに対立する「あなた」も念頭にないはずです。「わたし」を忘れることで、曲がりなりにでも、絶対世界に近づけるチャンスを得られるのではないでしょうか。
 私たちは、相対世界の中で生きています。“Bad  news”もあれば“Good  news”もあります。その意味では、“Bad  news  is  good  news”、“Good  news  is  no  news”というマスコミ関係者の見方もあるのかも知れません。
 しかし、禅問答が誘う絶対世界の真実から見れば、「わたし」も「あなた」も一切の区別はありません。何の対立もありません。「良い」も「悪い」も本来はないはずです。
 その真実に足場を置くなら、悪いニュースにしても、良いニュースにしても、私たちは全く別の見方ができるのではないでしょうか。(以下⑦/⑦へつづく)

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コメント
「自他一如」とはどんなことかを、少し考えてみます。

例えば、どんぶりにラーメンを盛り付けることが出来るのは、どんぶりの内部の空間とそれ以外の空間が、一体化しているからです。

もし、どんぶりに蓋がされていて、どんぶり内部の空間と外部の空間が区切られていたら、ラーメンを盛り付けること出来ないし、あるいはすでにラーメンが盛り付けられていたら、蓋を取らない限り人はラーメンを食べることができません。

これは、どんぶりの内部と外部の空間が「自他一如」の状態だから、ラーメンを盛り付けることが出来るし、また人がラーメンを食べることが出来るということです。

そして、人が、五感を通じて自分の周りで起こってることを認識し物事を判断できるのも、それと同じで本来「自他一如」の状態が成立しているから「自分」という「器」に、様々な事象を取り入れることが出来るのでしょう。

ただ、ここから先が問題で、人間は成長に伴って、「わたくし」という「こころ」が出来てしまい、その「わたくし」が蓋になって、本来ないはずの「自他の区別」が出来上がってしまう。

もちろん、蓋は必要があるかするのであって、「わたくし」も必要があるから、生じてくる。

問題は、蓋である「わたくし」が「自分そのもの」であるという認識が、出来上がりそれに人が呪縛されることなのでしょう。

そして、禅の公案を考えることは、そのまま「蓋」を外して「ありのまま(Let it Go)」の自分を「ありのまま」の世界に向き合わせ、世界を自分に盛り付けるために、必要なのでしょう。
我無駄無dot 2014.06.28 17:59 | 編集
じ・た・る様
実を言うと、去年の今頃と今年もそうなのですが、ここ何年か法律系の資格を取ろうとしていて、今日がその試験当日だったのですよ。

そして、昨年の今頃も、ちょうど6月くらいに行き詰っていて、何か手掛かりになるものを見つけようとして、じたる様のこのページを見つけました。

で、いろいろと対話を積み重ねることで、少しは出口が見えた気がしまたが、その時はその資格は不合格でした。

それで、今日の結果ですが、ついさっき解答速報を見て答え合わせをしたところ今回も不合格でした。

ここ数週間の対話を通じて、いろいろと得るところがあったので、今度は大丈夫だろうと思ったのですが、どうやら、「いまだ木鶏到らず」になったようです。

とはいえ、「勝つ人間は、戦う前から勝っている(勝ちを乞う者が敗者である)」や、「本当の勝者は目先の勝ち負けにこだわらない」や、「自他一如」や「空」に関する様々な気付きを、これまでの対話で得ることが出来たので、これらを生かして次につなげていきたいと思います。

つまり、明らめてもできることを続ける者が最後には勝つ。こういうことですが。

また、内臓感覚と勝負脳の関係から、「自他一如」の状態を作るための、スイッチの入れ方が掴めた気がします。

簡単にいえば、「クンバカの状態を一定期間キープしてその状態で呼吸を続けること」つまり、「密息」ですが。

こうすることで、「わたくし」という蓋をはずして、五感の働きを強化し「見る」から「観る」へ「聞く」から「聴く」へ「味わう」から「昧わう」へと変えていくことが出来るように思えます。

そうすることで、「器」としての自分を、いわば「ハードディスクレコーダー」にしていくことが出来るようです。

そうやって、「ありのままの世界をありのままの自分で記録(記憶)すること」それが、「自他一如」の一つの形だと思います。

おそらく、これが、座禅における「三昧」の状態なのでしょう。

なので、これまでの対話をを通じて得たものを、次に生かして、今度こそ「木鶏」になるつもりです。

長々とお付き合いいただきまして、ありがとうございました。
我無駄無dot 2014.06.29 20:37 | 編集
我無駄無様
一身上の事柄について、赤裸々なご報告をいただき、我無駄無様が、現在、置かれている状況について、よく理解できました。ありがとうございました。
 ご察知のとおり、私は、未だに理屈ばかりが空回りしているような状況にあり、これからもつまらない思索を続けていくことになるのだろうと思います。
 その意味では、我無駄無様との一連の対話は、私の方こそ、貴君の豊かな知見、柔軟な発想力などに触れ、大いに学ばせていただく機会になりました。そして、たいへんよい刺激を与えていただきました。ありがとうございました。
 今、志をもって人生を歩まれようとされていること、陰ながら応援させていただきます。「無門関」には、「門より入るものは是れ家珍(かちん)にあらず」とあります。これからも不断の精進を続けられ、次の機会にはぜひ本懐を遂げられることを心から祈っております。
 また、余分なことかも知れませんが、人生のどの時点にあっても、「我(われ)に無駄無(むだな)し」であることを、人生の少しばかり先輩としてご助言させていただきます。
 
 今後もお時間がありましたら、本ブログをお覗きいただき、ご意見などお寄せくださることをお願い致します。
 こちらこそ、ほんとうにありがとうございました。(じ・た・る)
じ・た・る dot 2014.06.29 22:58 | 編集
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