2014
06.23

「Bad news is good news!」⑤/⑦

Category: 未分類
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 俊才の評判高き香巌禅師ではありましたが、当然のことながら戸惑い、悩みます。あれこれ考えては師に答えを披れきするのですが、どれも許されません。年月は過ぎ、失意の極に至ります。 
 自らの愚鈍さに失望した香巌禅師は、やがて師のもとを去り、かつて慕った師匠(慧忠禅師)の墓守りをして過ごすことを決意します。その墓守りの生活は何年も続きました。しかし、その間も、師から与えられた問い「父母未生以前本来面目」は一時も頭を離れることはありません。
 そんな毎日を続けていたある日のことです。掃き集めた落ち葉を竹藪に捨てたところ、そのごみの中に小石が混じっていたのか、これが竹に当たってカーンという音がします。その音は、静寂の山の墓地に大きく響きます。その途端、香巌禅師はハッとして、この問いに対する解答を得ることができたというのです。禅門叩いて十数年、初めて味わう大悟の喜びだったと言います。
 禅では「不立文字ふりゅうもんじ)」という言葉が大切にされます。これは、言葉や文字、さらには知識や論理に頼っていては悟りを得られず、そればかりか、むしろ邪魔になるということを述べたものです。その意味では、香巌禅師は、図らずもまさに身をもって、それを体験したわけです。
 後に、香巌禅師は、次のように語っています。
 「千尺の崖の上で木の枝を口にくわえ、手足をすべて放して口だけでぶら下がっている時、仏法の極意を尋ねる人があったらどう答えるか。口を開けばたちまち墜落して喪身失命し、答えなければ不親切である。さあ、どうする。口を開かなくても仏法の極意を伝えることはできるはずだ」と。(無門関第5則から)
 香巌禅師が最終的にたどり着いた境地、それこそは、「『答え』」のない答え」とも言うべきものなのでしょう。教えられて分かるものではありません。伝えられて得られるものでもありません。その人だけが感得できる境地であり、私のような凡人にはとてもうかがい知ることのできない世界だろうと思います。
 それこそは、「万物と我と一体」「天地と我と同根」という絶対的な境地なのでしょう。(以下⑥/⑦へつづく) 

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コメント
「不立文字」これぞまさしく「言語を絶して心行所滅」の「妙の境地」そのものでしょう。

「千尺の崖」の公案は、最も理想的な答えを言うと、「例えわが身が尽きようとも、言葉として仏法を伝うる」でしょうか?

この場合は、文字通りの意味で「わたくしが無くなっても一遍の悔いがない」という境地に達した人物にしか、出せない答えなのでょうが。

つまり、「自分の命よりも仏法を伝うる事を優先する」こういうことですが。

これは、ある騎士団における、入団試験のお話です。

ある人物が、騎士になろうと思い立ちその騎士団の入門試験を受けます。

その際に、コップ一杯の水を飲むことを要求されるわけです。
しかも、その水には無味無臭の致死量の毒薬が入っていると、告げられたその上で。

さて、どうするか?
この場合の答は、「黙って水を飲み干す」です。

実際には、毒などは入ってはいないのですが、ここで問われているのは、その入門したいと思っている人物が、「わたくしを捨てる覚悟を持てるかどうか」です。

当然、騎士ともなればいろいろと、自分の命をかけなければならない局面が出てきます。
また、上からの命令で、不本意なことをしなければならないこともあるでしょう。

そういうときに、「わたくし」が出てきて、それに執着するようでは困るわけです。

なので、一番最初の段階で、「わたくし」という限界を超えることのできる人物であるか否かを見極める。

これが、この試験の目的です。

「千尺の崖」の公案の目的も、これと同じだと思います。
我無駄無dot 2014.06.23 09:50 | 編集
上に書いた、「落ちることを承知の上で、あえて言葉にする」が「最後の手段」だとするとその一歩前の方法を、いくつか考えてみます。

この場合の前提は、手や足を使っても良いです。

その一「空に向かって一本指を突き立てる」。
その二「適当な葉っぱを一枚指さす」。
その三「ズボンのポケットをまさぐって、ティッシュペーパーが出てきたら、それを一枚手に持って振る」。
こんなところでしょうか?

ほとんどの人は、これらの答を見て断末魔のジーパン刑事状態になるでしょう「なんじゃこれは」と。

ですが、分かる人にはわかると思います。

そして、それが分かる人には、「不立文字」これが伝わっていることでしょう。

つまり、「言葉はいらない」こういうことです。

禅の公案は、どうとでも捉えることのできるものが、ほとんどですが、実は、答えを出すことよりも、その問いの目的に気づくことの方が重要なのでしょう。

たとえば、「婆子焼庵」の公案の目的は「ルールを守ることが絶対ではないことに気付かせること」。

「犬の仏性」の目的は「正しい答えは一つとは限らないことに気付かせること」。

「隻手の音声」の目的は「五感で認識できるものがすべてではないことに気付かせること」。

そして、「千尺の崖」のもう一つの目的は「仏法を伝えるには、言葉はいらないことに気付かせること」なのでしょうね。
我無駄無dot 2014.06.23 12:01 | 編集
ちなみに、上のコメントの「その三」の「ティシュペーパー」が分かりにくいと思うので、元ネタを言うと、「乾屎橛」です。
これは現代では、「乾いた糞そのもの」と考えられているようですが、その一歩手前ということで、お尻を拭くための紙、つまり現代ではトイレットペーパーだと思えばいいでしょう。

そして、トイレットペーパーを持ち歩く人はいないでしょうが、ティッシュペーパーならば一般的だろうということです。
我無駄無dot 2014.06.23 12:55 | 編集
我無駄無様
 私がふだんから気になっていた公案の幾つかについて、たいへん踏み込んだ見解を示していただき痛み入ります。
「不立文字」ということ、私たちはもっと真摯に向き合わなければいけないのでしょうね。
 そう言えば、先日、近くの黄檗宗の末寺で、住職からお話しを伺う機会があったのですが、本山の「萬福寺」では、公案の回答は、すべて身振り手振りで行うように指示されていたと聞きました。
 私と我無駄無様との対話も文字や言葉を通して行っているのですが、禅宗の立場から言えば、「これすべて誤れり」ということになるのでしょうね(笑)。
 その意味では、私のブログも同様ですね。ブログに書き綴っていること自体、私自身が迷いの中にあることの何よりの証なのだと思います。山田無文老師も、晩年は、一言も話をされなかったと聞きます。
 私は、残念ながら、まだしばらくは、ブログから離れられないかと思います。考えてみれば、厄介なことだと思います(笑)。

 ところで我無駄無様には、ブログの開設はないのでしょうか?それとも、開設済みなのでしょうか?
じ・た・る dot 2014.06.24 13:56 | 編集
じ・た・る様
言ってみれば「不立文字」の世界に、言葉を積み重ねながら、迷いつつ進んでいく、これが「人間」なのではないでしょうか?

というよりも、全ての人が最初から「不立文字」を会得していたら、そもそも「宗教」なぞ必要ないでしょう。

とはいえ、宗教は「昼行燈」くらいがちょうどよいのだと思います。

あと、自分は、ブログも、フェイスブックもツイッターもしていません。

ていうか、携帯やスマホすらも持っていないので。
そういうものにうつつを抜かす前に、いろいろとすべきことがあるのではないか? そう思っています。

最近の、スマホを見ながらのながら歩きなどを見ると、特にそう思います。

中村天風風に言うならば「人間をつくる」こうなりますが。

結局、禅の目的も「人間をつくる」これにあると思います。
我無駄無dot 2014.06.24 14:25 | 編集
「不立文字」についてですが、ついさっき経験したことを書いておきます。

自分は、以前書いたように「密息」を行うために水道管(塩ビ管)を使って、尺八もどきを作って吹こうとしているわけですが、尺八は音が出しにくいこともさることながら、音階が現代的なドレミファソラシドではなく、「ろつれちり」という昔の日本のやり方になっています。

なので、音を出すことが出来ても、音階の取り方を覚えるのが、難しいわけです。

それで、思ったのがケーナならば、簡単ではないかということです。

で、検索するとありました「水道管ケーナの作り方」が。
基本的な作り方は、尺八同様で指定された内径の塩ビ管をホームセンターから買ってきて、指定された長さに切断し、指定された位置に指定された直径の穴をあけるだけです。

で、ポイントは「唄口」と呼ばれる音を出す部分です。

尺八もケーナもこの唄口に細く長い息を吹きつけることで、いわば「風切り音」を出して吹奏します。

この唄口の部分に「不立文字」が関わってくるわけです。

尺八は歌口の部分を全体的に斜めに削って、そこからさらに、へこみを作ります。

ケーナの場合は、一度管の先端部分に穴をあけて、その穴の下部を、丸いやすりで削って、エッジを作ります。

で、穴そのものを大きくしないで、エッジを作ると、肉厚が残るので、内側からも削るわけです。

そして、その際の手加減の仕方が、「言葉で表現するのが難しい」、つまり、「不立文字」なのだなと、思ったわけです。

要するに、あまり「エッジ」を取りすぎると、いわば唄口が死んでしまい、音を鳴らすことができません、逆に、エッジが甘いと、やはり音が出ないわけです。

その辺りの加減の取り方が、言葉で言うのではなく、実際に自分で何本か作ってみて、その積み重ねの中から、体感していくしかない。
そう思いました。

つまり、「冷暖自知」ということですが。

それで、今では密息に慣れてきたのか、気がつくと日常の中、例えば食器洗いをしているときとかに、腹部をふくらませて、下腹部に力を入れ、肛門を若干締めるという、「クンバカ」の状態になっています。

そうすると、確かに感覚が鋭敏になったり、何か、「スイッチ」が入っている気がするのですよ。

ここで、質問ですが、禅寺のお坊さんたちは、日常の「作務」を行う上で、姿勢の取り方とか呼吸の仕方などを意識してるのでしょうか?

それとも、意識しなくとも日常生活の中でも、座禅をしているときの姿勢(特に上半身の)と状態が、キープされているのでしょうか?
我無駄無dot 2014.06.25 11:30 | 編集
我無駄無様
尺八もケーナも吹奏したことがあります。音階ができる程度ですはありますがケーナは、複数本、手元にあります。神楽笛(横笛)も何本かあります。
 やはり尺八の方が難しいですね。歌口へ供給する息の微妙な角度の変更で音階を作るわけで、それこそ「不立文字」によって伝えられるべき高度な技といえるでしょう。その意味では、その技は「冷暖自知」の原理に導かれて会得されるものだと思います。
 考えてみれば、伝統工芸などというものも、すべからく「不立文字」で伝えられるものであるからこそ、そこに価値があるのでしょうね。人々が伝統工芸、あるいは手作りということに特別な意味を見いだしたり、それに高い価値を見いだすのは、「見えない世界」さらには「言葉では伝えられない世界」があることへの畏敬の念が働くからだと思います。私たち日本人には、無意識の中にそのような「空の世界観」が宿っており、それが知らず知らず働き出すことがあるといったところなのだと思います。

 ところで、禅寺のお坊さんたちの姿勢の取り方と呼吸の仕方について質問がありましたが、これは、専門道場などで修行されたお坊さんなどに直接、聞かれた方がよいかと思います。前にも申し上げたとおり、私は在家者ですので、憶測するだけになってしまいますから(笑)。
じ・た・る dot 2014.06.27 13:05 | 編集
じ・た・る様
返信ありがとうございます。

伝統工芸(芸能)の底に空の世界観があるというのは、その通りだと思います。

安田さんは、お能の修行の様子を述べていますが、師匠から、「これで良い」という趣旨のことは言われないそうです。

それどころか、何がダメなのかわからないまま、ダメ出しを続けられる。

それでも、やり続けることにより、いつの間にか昨日までできなかったことが、出来るようになっている。

例えば、昨日まで出せなかった「声」がいつの間にか「越え」になっていくように。

あるいは、落語でも弟子が師匠から落語の稽古をつけてもらうことはあまりなく、師匠の世話をしながら師匠のまねをし、そうこうするうちに、いわば「門前の小僧」状態になって、落語を覚えていくようです。

これも、「不立文字」があるからでしょう。

ただ、最近の状況を見てみると、「不立文字」が裏目に出ているケースもあるのではないかと思います。

例えば、「ブラック企業」とされている企業は、一般の会社よりも、「不立文字」の要素を従業員に強く求めているのではないでしょうか?

以前書いた、「指を一本突き立てる」とか「葉っぱを一枚差す」というのは、その前提として、「庭前柏樹」とか「倶胝和尚の故事」がお互いに理解できていなければ成立しません。

ブラック企業の社長さんたちは、例えて言えば禅に関する知識を持たない人に、そこまでのことを要求しているわけで、それは行きすぎではないかとも思えるわけです。

別の言い方をすると、ブラック企業の社長さんたちは、「事業」ではなく「修業」をもとめ、「仕事」ではなく「芸事」をすることを従業員に求めている。

そこに、ブラック企業問題の本質があると思います。

それと、姿勢に関してですが、元々、謡いや仕舞を続けている関係で、体の「軸」はキープされていると思いますが、何かが足りないような気がするわけです。

ですが、なんとか水道管尺八やケーナを、吹こうとするうちに、だんだん日常的にクンバカの状態を、持続することが出来るようになっています。

なので、禅寺のお坊さんも、座禅の積み重ねで意識しないで、そのような状態になっているのではないかと、思ったわけです。

考えてみると、昔の日本人にはそれが「当たり前」だったのですね。

以前、内臓感覚と勝負脳のことを書きましたが、内臓に圧力をかける「クンバカ」を行うことで、内臓感覚が鍛えられ、さらに勝負脳のスイッチが入り、それにより五感が鋭敏になり、その結果として世界との一体感を感じるようになる。
これは言えそうです。
我無駄無dot 2014.06.28 13:10 | 編集
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