2014
06.15

「Bad news is good news!」③/⑦

Category: 未分類
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 仏教では、仏教徒がしてはならない行為をまとめて「十悪じゅうあくと呼んでいます。人間が自らの“身・口・心”によってなす十の悪行のことです。その中で、“心”によって行われる三つの悪行が、①貪むさぼること、②瞋いかること、③愚かさを露呈することとされます。いわゆる貪・瞋・痴とん・じん・ち)の三毒です。先に挙げた人間の悪い癖こそは、に含まれるのでしょう。道徳性や品性を欠く、およそ人間らしくない行為とでも言ったら分かりやすいのかもしれません。
 仏教では、煩悩の炎を消すことが菩提(悟り)への道に通じると言います。ところが、一方で、「煩悩無尽誓願断ぼんのうむじんせいがんだんとも迫るように、人間の煩悩は無尽蔵であることを認めています。また、一方で煩悩は人間の生命力と表裏一体の関係にあるとも言います。 思えば、たいへん矛盾した言い様ではあります。その意味では、私たちができることはと言えば、煩悩の火に、それ以上の薪をくべないことくらいしかないことになります。
 具体的には、どうすることなのでしょう?以下は、いつものように独りよがりな私見です。
 元来、人間と宇宙とは一体のものです。と言うよりも、宇宙は全部一続きであり、人間、あるいは「わたし」や「あなた」などという個別なものは存在しません(本ブログ「『答えない』と言う答え」を参照 2013.10.24~11.9)。ところが、「わたし」という意識が生じたその瞬間から、主観と客観が分かれ、「わたし」と「あなた」が対立する世界、つまり相対世界に入り込むことになります。
 言うまでもなく、「あなた」というのは、人間だけのことではありません。動物や植物、山や川など、自然界にある全てのものが「あなた」です。そして、これらを自分たちに都合よく利用しようとしてきたのが、人間の有り様です。(以下④/⑦へつづく) 

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コメント
前回も書きましたが、中村明一さんによると日本人は、着物を着ることで日常的にお腹をふくらませて、下腹部に力を入れて呼吸をする「密息」をしていたようです。また、腰を落とすという姿勢も重要なようですが。

実は、能楽師の基本姿勢は、その条件をすべて満たしています。

それと、有田秀穂さんと玄侑宋久さんの「脳と禅」では、「呼吸法で、脳内のセロトニン神経の活動レベルが高まり、それで心の安定が実現する」と書かれています。

また、林成之さんのいう「勝負脳」は文字通り「煩悩」の震源地でしょう。

そうやって考えてみると、日本人は長い歴史の中で、無意識的に「密息」を行うことで、セロトニンの出やすい体質を作り、「煩悩」を抑制することが出来ていたのではないかと思えます。

また、「内臓感覚」という視点から言うと、「密息」を行うことで他の民族よりも、日常的に「自他の区別のない世界」、「色と空との一体化した世界」に親しんできたのではないかと思えます。

その一方で、「自他を分ける」必要もまたあるのですが。

例えば、「ナポレオンが先祖代々受け継いだ赤いズボン吊りをしているのなぜか」という問題があった場合、その答えは、「ズボンが落ちないようにするため」です。

もちろん、人がズボン吊りをする理由はそれしかありません。

ですが、ナポレオンの「先祖代々受け継いだ赤いズボン吊り」と普通の「ズボン吊り」は同じものなのでしょうか?

むしろ、ナポレオンのズボン吊りは「ズボン吊りB」と言うべきもので、一般の「ズボン吊りA」とは「区別」すべきではないでしょうか?

そうやって考えると、ナポレオンが「ズボン吊りB」をしている理由として、「ズボン吊りA」を人がする理由を持って正解とする、このナポレオンクイズは、「問題」があるのではないかと思えます。

その辺りのことは、仏教でどう考えるのでしょうか?
我無駄無dot 2014.06.15 09:22 | 編集
我無駄無様
 いつもありがとうございます。
 かみ合わないかも知れませんが、以前、ブログに掲載した「扇子は扇子ではない」から引用したものを一部再編集して、考えを述べたいと思います。
 甲が、扇子を示して乙に問いかけます。
 「これは何ですか?」
目の前に扇子が示されたのですから、乙は、当然のごとく次のように答えます。
 「それは扇子です。」
ところが、甲は、言い放ちます。
 「違う!」
それを聞いた乙は驚いて甲に聞き返します。
 「では、それはいったい何ですか?」
すると、甲は、平然として、次のように答えます。
 「これは扇子です。」
 言うまでもなく、甲とは、禅の奥義を究めた人物のことです。そして、乙は、私たち凡人の代表と考えてよいでしょう。
 甲の言う「扇子」と乙の言う「扇子」に違いがあるとは思えません。現に、最初は否定した甲も、結局は「扇子」であると言っています。では、なぜ初めに「扇子ではない」と言ったのか。そこが問題です。
 鈴木大拙は、これを禅の思想を特徴づける理念の一つとして、「即非の論理」と呼んでいます。「AはAにあらず。ゆえにこれをAと名づく」というやっかいな論法です。「金剛経」の中には、この論法に基づいた記述がたくさん出てきます。
 結局、禅では、言葉や文字、「概念」が、決して物事の本質を表す手段ではないこと、その意味では、歪みや偏りといった危うさも含んでいることをしっかり認識した上で、注意深く扱うように警告しているのではないか…。
 その上で、仏教の大切な「因縁果」という教理についても、「吊りズボン」という『因』も、「ナポレオン」、「先祖から伝わる」「赤い」などの『縁』を得て、さまざまな現実、つまり『果』が生み出だされると見ていく…。
 このような態度から、俯瞰力、達観力、つまりは真理を見極める力が醸成されてくると思うのですが、いかがでしょうか。間違っているかも知れません・・・。
 ありがとうございました。
じ・た・る dot 2014.06.16 10:30 | 編集
じ・た・る様
返信ありがとうございます。
この「ナポレオンクイズ」は自分としては「犬の仏性」と同じ構造を持っていると思っています。

つまり、あるときは「犬に仏性はある」といい、別の時は「犬に仏性は無い」という。
これは「矛盾」ではないのか。ということです。

それで、これらの問題を考えるときに重要なのが、「次元の違い(階型の違い)」です。

これは、簡単に言うと、「本来同じものでも付帯する条件が違えば、別なもの見なす」こうなるでしょう。

じ・た・る様のお話で言うと、同じズボン吊りでも新たな「因縁果」が加わることで、別なものとなるから、区別すべきだ。こういうことになります。

もちろん、それが「ズボン吊り」であるという「本質」には変わりはありません。

ですが、例えば、「山の桜は遅く咲き、ふもとの桜は早く咲く」というように、「同じ桜」でも咲く地域や標高などの違い(「因縁果」)によって、咲く時期に「ずれ」が生じます。

「同じ桜」だからと言って、そのような「違い」を無視するとそれによって、弊害が出る場合があります。

なので、そのような弊害を未然に防ぐために、あえて、「因縁果」が違えば同じものでも、「区別」する必要が出てくるのだと思います。

あるいは、こういう話はどうでしょうか。

あるお寺で、小僧さんがトイレ掃除をしようとしたところ、酸性の洗剤と硫黄性の洗剤があったので、和尚に「どちらの洗剤を使えばよいでしょうか」。と質問したところ「酸性の物を使え」と答えました。

後日、別の小僧さんが同じ質問をしたところ、今度は「硫黄性の洗剤を使え」と和尚さんは答えました。

その後、二人の小僧さんは打ち揃って、和尚様のところに行って、こう質問しました「和尚様、トイレ掃除を行うときに、私(小僧A)の時は酸性の物を使えといい、私(小僧B)の時は硫黄性の物を使えと仰いましたが、これは「矛盾」ではないでしょうか?」と。

これを聞いた和尚さんは、こう答えました、「それでは、酸性のトイレ洗剤と硫黄性のトイレ洗剤を同時に使えばどうなるかを、試してみなさい」と。

その後、実際に酸性のトイレ洗剤と、硫黄性のトイレ洗剤を同時に使った、二人の小僧さんは発生した「硫化水素」で、お亡くなりになりました。

この場合は、同じトイレ洗剤でも、酸性の物と硫黄性の物では、「因縁果」が違うので「区別」すべきだ。こうなりますが、それ以前に漂白剤やトイレ洗剤では「混ぜるな危険」という、警告が表示されています。

これは、液性の違うものを同時に使うことによって、有毒ガスが発生する弊害があるからです。

このように、「自他の区別のないこと」が理想であっても、場合によっては「自他の区別をつける」必要があるので、そのバランスをどうとるかを考える必要があるのだと思います。
我無駄無dot 2014.06.16 11:37 | 編集
我無駄無様
 言うまでもなく、仏教の眼目は、「苦」を取り除くことにあります。
 そこで、前回、書いた俯瞰力、達観力の醸成ということについて考えを述べてみたいと思います。
 仰るとおり、私たちは絶対平等を理想としながらも、相対世界で生きなければならない現実があります。そこを無視することはできません。そこで、卑近な例として、野球を取り上げてみたいと思います。
 私もご多分にもれず、プロ野球大好き人間の一人です。当然、ひいきチーム、ひいき選手もあります。若い頃は、ひいきチームが負けたり、選手が活躍できなかったりすると、スポーツニュースはもちろん翌朝の朝刊も避けるほどでした。逆の場合のことはご想像ください。
 少し前に、「たかが野球、されど野球」という言葉が流行したことがありました(江川元選手の言葉でしたかね)。その当時は、人間の心理をついた面白い言い様だなと思ったものでしたが、歳を重ねるに連れて、この言葉の先には、本当は次のような言葉が続くのではないかと思うようになりました。
 「ところが、よくよく考えてみたら、やはり、たかが野球だった」
 「自他一如」の世界に浸ることによって醸成される俯瞰力、達観力というのは、このようなものの見方ができるようになることではないかと思うのです。バランスをとることととも言えますね。また、これも「中道」と言えるのかも知れません。
 それ以来、スポーツニュースも翌日の朝刊も、冷静に見られるようになりました。これが「苦」からの解放ということではないでしょうか。
 ありがとうございました。
じ・た・る dot 2014.06.17 06:45 | 編集
野球の話ではありませんが、現在開催中のワールドカップサッカーで、日本のサポーターが、「対コートジボワール戦」が日本の負け試合であったにもかからわらず、スタジアムの座席周辺の清掃を自発的に行って、その様子が各国のメディアで取り上げられています。

他国のサポーターは、自国の負け試合の時にはうっぷん晴らしとして、座席に八つ当たりとかをするそうなので、その日本人の様子に、称賛の声が上がっているようです。

これも、目先の「勝ち負けにこだわらない」、「自他一如」の世界に浸ることによって醸成される俯瞰力、達観力によるものかもしれないですね。

結局、「苦」というのは、本来一つの物が、二つに引き裂かれるから発生する物で、そのもっとも典型的なものが「恋」なのでしょう。
恋の由来は「乞い」だそうで、引き裂かれたもの、失われたものを取り戻そうとする苦しみなのだそうです。

そして、在原業平と能の「隅田川」の老母は、妻と我が子という対象の違いはあれど、「乞う」思ひを吐露していると。

その一方で、「自他一如」の世界にある程度親しむことが出来れば、もはや「乞う」必要がないから、おのずから「苦」も滅するのだと思います。

そういう意味では、日本人は他の民族よりも、「自他一如」の世界を生きているのかもしれません。

それも「密息」の積み重ねがあるからかもしれませんが。

ここで思うのですよ、もし世界中の人々が、最低でも現在の日本人と同じ心境に達することが出来れば、それだけで、「戦争」は無くなるのではないかと。

ある意味、戦争も「乞う」ことが原因で発生するわけですから。

領土を乞う、資源を乞う、などなど。

何より、「勝利を乞う」ことが最大の苦しみなのかもしれません。

まあ、今の世の中目先の勝ち負けに執着する日本人も増えているので、そうとも言えないわけですが。
「密息」の習慣も今ではすっかり廃れているわけですし。
我無駄無dot 2014.06.17 12:41 | 編集
上の話を書いた後で、気が付いたことがあります。

それは、「諦める」ということについてです。

日本では某スポーツ漫画の影響で、諦めることは「悪いこと」と捉えられているようです。

何しろ、「諦めたらそれで試合終了ですよ」だそうですから。

自分はそれに対して、異論を持っています。
何より、「人生は試合じゃないだろう」と。
試合は、「何点取ったらそれでおしまい」、「何分経ったらそれでおしまい」というルールがありますが、現実の人生にはそんなルールはありません。

そこで、上の話に戻りますが、「諦める」というのは結局は「乞うことをやめる」ことではないでしょうか?

全ての苦しみの原因が「乞うこと」にあるのなら、「勝利を乞うこと」で、もたらされる苦しみから、逃れるためには、「乞うことをやめる」必要があるのではないかと思うわけです。

仏教では「諦める」ことを「明らめる」ことだと、捉えていると何かで読んだことがあります。

これは、「物事の道理を明らかにすることが、諦めることの本質である」と。

つまり、諦めることで、「乞うこと」をやめてそれにより「自他一如」の世界に飛び込むことで、「苦」を滅する。これが、「明らめる」ことなのでしょう。

ただ、ここで重要なことは、「終了」にしてはならないということなのですが。
むしろ、諦めることで苦しみから逃れ、その上で今ここですべきこと、出来ることに打ち込んでいく。
その積み重ねが、必要なのだと思います。

酸っぱいブドウの狐は、「あのブドウは酸っぱいさ」といって、届かなかったブドウの下から去りますが、数年後、再びそのブドウの下に来た時に、もう一度ジャンプしてみたら、酸っぱいブドウのさらに上に届いていた。

諦めてもできることを続ければ、そういう体験をすることが出来るでしょうから。
我無駄無dot 2014.06.17 13:10 | 編集
中村天風はカリアッパ師から「病を忘れろ」と言われて、キョトンとしたそうです。

「病を忘れれば病が癒えるのですか?」といって。

病に冒されて苦しんでいる人は、「健康を乞うている」わけです。

そして、健康な人間は「健康を乞うことを忘れていて、病を忘れている」。だから、「病を忘れればそれは病が癒えたのと同じことだ」とカリアッパ師は言うわけです。

そこから、天風は思うところがあったようです。

結局「勝ち負け」もそれと同じでしょう。
ほとんどの人は、「勝ちを乞う」ことで、苦しみの連鎖の中に自らを置く。そこは、ある意味で「地獄」なのでしょう。

そうではなく「勝つことを忘れ、勝ちを乞うことを忘れれば」、そこには自ずから「本当の勝利」があるのかもしれません。

なぜなら、「勝者」は常に「勝つことを乞う必要のない」存在ですから。
我無駄無dot 2014.06.17 13:45 | 編集
我無駄無様

 恋の由来が「乞い」であるというお話、たいへん興味深く伺いました。仰るとおり、「引き裂かれたもの、失われたものを取り戻そうとする」ことを「乞い」とするなら、それはまさに、「苦」そのものと言えるでしょう。

 聖徳太子による仏教を中心にした国造りの影響は、間違いなく、有形、無形に日本人の血脈の中に受け継がれ、現代に生きていると思いますね。無意識ではあっても、私たち日本人の中には、「自他一如」の世界への畏敬と同時に憧憬の念があるのではないでしょうか。その精神性(あるいは道徳性)、そこから培われた文化、思想、芸術などが、世界の人々から注目され、敬意を集めるとともに高い評価にを得ているのは、このためではないかと思います。日本は、科学技術、まして経済力ばかりでなく、このことにこそもっと誇りを持ち、世界にアピールすべきだと思います。
 「自他一如」に親しむことができれば、「乞う」必要がなく、おのずから「苦」も滅するというのは、その通りだと思いますね。戦争こそは、領土を乞う、資源を乞う、人心を乞う、国威を乞う、そして勝利を乞う、人間の最も恥ずべき行為であること、これも全く同感です。その意味では、欧米型の世界観、価値観は、すでにその役割を終えたのではないでしょうか。
仏教が主張するように、「諦める」=「明らかにする」=「物事の道理を明らかにする」とするなら、そこに働く力こそが俯瞰力、達観力ではないかと思います。
 現代を生きる私たちは、『般若心経』の文言「不増不減」をもっと深く味わうべきでしょう。この真理の会得こそが「乞うことをやめる」ことにつながるのではないでしょうか。また、「不増不減」ゆえに、私たちは「知足」という智恵に気づくべきではないでしょうか。
 「自他一如」の世界は、言葉を換えるなら「負けるが勝ち」という、次元の異なる価値観もあることに気づかせてくれるのかも知れませんね。
 たいへんよいお話を、ありがとうございました。
じ・た・る dot 2014.06.18 06:50 | 編集
じ・た・る様
「負けるが勝ち」これはその通りだと思います。

日本語には昔から「試合に負けて勝負に勝つ」、「肉を切らせて骨を断つ」という言葉があります。

これは、「目先の勝利を乞うのではなく、もっとその先にある何かを得るのが本当の勝利である」そういうことでしょう。

そういう意味では、ワールドカップの「日本対コートジボワール戦」の本当の「勝者」はゴミ拾いをした、日本人サポーターかもしれません。

また、日本の「敗戦」も本当は「試合に負けて勝負に勝つ」ことが目的かもしれません。

日本の戦争目的の一つに、アジアアフリカ地域の植民地支配を終わらせるというものがあったはずですが、戦後、欧米に植民地支配されていた国々は、次々と「独立」していきました。そういう意味では、日本の戦争目的は、「達成」されたわけです。

これは、ある意味立派な「勝利」でしょう。
目先の勝ち負けに拘泥するのではなく、「戦争目的の達成」を持って「勝利」とし、「勝つことを乞う」ことによる、これ以上の犠牲を防いでいくこと。これが「無条件降伏」の理由ではないでしょうか?

また、「荘子」に「木鶏」という話があります。
闘鶏好きの王様が、闘鶏師に自分の鶏を預けて、調教を依頼して、10日ごとに進捗を聞いたところ、10日目は「むやみやたらと自己主張ばかりして全然だめです」、20日目は「空威張りばかりして敵を見た途端に興奮するのでまだまだ駄目です」、それから数十日後、「今ではすっかり落ち着いていて、さながら木でできた鶏の置物のようです、ここまでくれば戦わずして対戦相手の鶏が、自分から逃げるでしょう」と。

この「木鶏」も「自他一如」の世界における「本当の勝利」のことを物語っているのかもしれません。

また、天下の大横綱双葉山は、「平成」の元号の生みの親とも言われている安岡正篤先生に師事していて、連勝が69で止まった時、「未だ木鶏たりえず」と電報を打ったそうです。

ちなみに、自分はその安岡正篤先生由来の勉強会で、論語や東洋思想を学んでいました。

ただ、その勉強会そのものが昨年、諸般の事情で解散したのですが、論語の勉強は、安岡正篤先生のお孫さんの安岡定子先生の、「銀座寺子屋こども論語塾」に今も参加して続けています。
我無駄無dot 2014.06.18 12:22 | 編集
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