2014
06.07

「Bad news is good news!」①/⑦

Category: 未分類
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 新聞を見てもテレビを観ても、暗いニュースが多いのに閉口しているのは、私だけではないと思います。なぜ、こんなに暗いニュースが多いのでしょう。日本は(世界にも共通するかも知れませんが)いつのころからこんな住みにくい国になってしまったのでしょう。こうも暗いニュースばかり流れると、日本の国が、ますます暗く、住みにくい国になるのではとの思いが募ります。いえ、わたしのような古い人間は、昨今の日本は、ずいぶん暗く、住みにくい国なったようにも思うのです。
 ただし、マスコミ関係者の中では、次のような格言があると聞いたことがあります。曰く“Bad  news  is  good  news”(バッド ニュース イズ グッド ニュース)と。
 まるで禅問答のような言葉ですが、主語を補えばすぐに理解できると思います。つまり、「一般の人」にとって悪いニュースも、「マスコミ関係者」にとっては、いいニュースであるということです。言うまでもないことですが、マスコミにとっていいニュースとは、視聴者の関心が集まり、よく売れるニュースであるということです。悪いニュースほど、視聴者の関心が高く、よく売れるから、いいニュースであるというわけです。そこで、“Bad  news  is  good  news”ということになるわけです。
 では、いいニュースはどのように喩えられているのでしょう。読者の皆さんは、どのような喩えを想像されるでしょうか。
 “Good  news  is  ? (以下②/⑦へつづく) 
 
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コメント
「悪いニュースは良いニュース」、悪く言えば、「他人の不幸は蜜の味」こういうことでしょう。

また、物事は常に陰陽相対的なので、増えるものがあれば、その裏で減るものもあります。

そして、その逆も。

そして、世の中には誰かが不幸になること(減ること)で、増える立場になる人が、案外大勢います。

例えば、消防署は火災が無ければ、その必要はありませんし、警察は社会が安定して、犯罪が無くなれば無用の長物です。

そして、誰もかれもが健康になれば医者も病院も要りません。また、人が死を克服したら、お坊さんもいならいでしょう(失礼)。

そういう立場の人たちは、悪い言い方をすると、他人の不幸に依存して、その立場が成立しているわけです。

そして、メディアの役割は、「情報の伝達」ですが、現在では、そのなかで「不幸」の占める割合の方が圧倒的に、高くなっているのでしょう。

問題は、他人の不幸に依存する人がいることよりも、社会全体の中で、「足りない」という思ひが、支配的である、そういうことだと思います。

足りないという「思ひ」が圧迫感や閉塞感を生みだして、挙句の果ては「足りている」人に対する、ねたみや憎悪をひきおこし、その足りているものを奪うこと、踏みにじることで溜飲を下げようとする。

そういう状況にいるのでしょう。

「足ることを知る」ことで、極楽になるのなら、「足りない」という思ひで導かれるものは、結局は「地獄」なのでしょう。

極楽も地獄も死んでからいくものではなく、生きている人間が、自分たちの思ひの結果として生み出すものであることに、そろそろ気が付いた方がいい。そういうことなのでしょうね。

取り返しがつかなくなる前に。
我無駄無dot 2014.06.07 12:51 | 編集
「足るを知る」ということを、内臓感覚と脳の関係から考えてみたいと思います。

文字通り「内臓感覚」という本では、「バロスタット」という医療器具を使って、腸の中にある神経の働きと脳が相互に影響を与えあっていることを報告しています。

その中でのポイントは、内臓感覚が大元になって、情動が生み出されているということです。

では、その情動の大元は何かというと、「空腹か」、「満腹か」になるでしょう。腸が消化器官であるだけに。

それが、脳に入力された段階で、「快」、「不快」に変換されて、そこからさらに「喜怒哀楽」が生み出されるメカニズムがあるようです。

そして、「快」、「不快」は扁桃体という脳内の小器官で処理されて、記憶の中枢である海馬に影響を与えて記憶を左右します。つまり、扁桃体が記憶のフィルタリングをしているわけです。

また、脳外科医の林成之さんは、脳の中心にある脳幹から扁桃体及び海馬を経て大脳に到る、A10神経系の働きを「勝負脳」と呼んで意欲ややる気、学習等の源として重視しています。

林さんは、水泳の北島康介選手を指導して、金メダルに導いた方です。

これらの関係から考えると、「満腹感」を持つことが、「勝負脳」のスイッチを入れる役割を果たすようです。

ただ、林さんは脳の専門家なので、脳腸関係にまでは考察が及んでいないようですが。

そして、「満腹感」はそのまま「幸福感」に繋がります。

人間の場合には、脳と「こころ」が発達したおかげで、食物が無い状況でも精神的な満腹感を得ることが出来るようなり、それが「足りる」という感覚を生み出して、それが勝負脳のスイッチを入れて、記憶や行動の最適化をもたらして、長期的な好循環を生み出すようです。これが「足るを知る」ということでしょう。

また、東洋の呼吸法では、一定の「腹圧」をかける呼吸をしますが、その腹圧を腸が「満腹感」と誤認するともあるようです。

逆に、精神的な飢餓感である、「足りない」という感覚が、勝負脳の委縮をもたらしそこから、不安感と閉塞感、劣等感を生み、また「何をやってもうまくいかない」、という悪循環を生みだしていくと。

そういう関係性があるようです。
我無駄無dot 2014.06.08 10:15 | 編集
我無駄無様
いつもありがとうございます。
以前、ブログ「どれだけ消費すれば満足か?」で引用した言葉がありました(すでにお読みいただいているかも知れませんが)。」一つは、近くの寺院(浄土真宗)で行われた法話の中の言葉でした。
 「人間は、どうしたら満足になるかが分からない。そもそも満足というものが何であるかが分からない。だから、どうなったとしてもそれに満足できない。常に、深い渇(うえ)があり、不安がある…。」
 もう一つは、山田無文老師の「維摩経」の提唱の中にあった言葉でした。
 「いくら百まで生きても、死にたくないといって死んでいく人は若死にである。たとえ二十歳で死んでも、いつ死んでもよいという境地で死んでいく人は長生きである。…お金というものも、足らんこともないが、余りもせん、これが一番金持ちである。いくらたくさんお金を持っていても、もっと欲しい、まだ足らんという人は一番貧乏人である…。」
「貪瞋痴」の中の「貪」について述べたものだと思いますが、これが本当にくせ者ですね。現代人が「『わたし』という病」に罹っているとするなら、その筆頭格の症状が、この「貪欲」の暴走だと思います。
 「貪欲」も含め、「貪瞋痴」に象徴される煩悩の暴走を止めるにはどうしたらいいのでしょうか?
 仏教では、「四弘誓願文」の中で「煩悩無尽誓願断」と、煩悩が無尽であることを認めています。これが大切なことのように思います。まず、それを認めることからスタートするということなのだと思います。いわゆる俯瞰です。その先に「知足」があると思うのです。今回のブログのテーマでもあります。また、ご意見、ご感想などお寄せください。
(追伸)
 前回、私事について誤解を招くような自己紹介をしてしまったかも知れませんが、私は、僧籍に身を置くものではありません。純粋な在家者です(笑)。我が家の旦那寺が臨済宗妙心寺派に属しているということです。念のために・・・。
じ・た・る dot 2014.06.08 11:58 | 編集
それと、精神的な「満腹感」の中心になるのが、なんといっても、「言語で表現出来て五感で認識できるものが、すべてではない」という「空」に対する認識でしょう。

例えば、良く言われる例に「コップに水が半分入っている場合にどう思うか」ということがありますが、「もう半分しかない」そう思う場合は「足りない」という思ひを生み出して、そこから不安感や悪循環が始ます。

逆に、「まだ半分ある」こう思う場合には、「足りている」という思ひが生まれて、好循環が生まれるわけです。

では、コップが空っぽになってしまったどうなのか。

この場合、「もう無くなった」こう思うと、「悲嘆」や「嘆き」しか生まれないでしょう。

でも、無くなったのはあくまでも、「水」という、目で見ることのできる物質だけです。

ですが、水かなくなった代わりにコップの中は、「空気」という目に見えない物質に満たされました。

そして、コップの中の空気は地球全体の空気と一体化しています。

つまり、「コップが空気で一杯になった」こう思うことが出来れば、そこから、精神的な満腹感が生まれ、
好循環に繋げることが出来るわけです。

それも、「空」という認識を持つことが出来なければ、成立しない話でしょう。
我無駄無dot 2014.06.08 12:07 | 編集
「「貪欲」も含め、「貪瞋痴」に象徴される煩悩の暴走を止めるにはどうしたらいいのでしょうか?」

これを考えるのは難しいと思いますが、多分「恐れ」を持つことが必要なのだと思います。

前に書いた「勝負脳」のはたらきは、そのままアクセルであると言えるでしょう、もちろんアクセルを踏めば車は速く走れます。

その一方で、勝負脳がうまく働かない状態は、アクセルとブレーキを同時に踏んでいるようなものでしょう。

ですが、車は速く走れば走るほどコントロールを失ものです。F1ドライバーのセナですら命を失うほどに。

だから、そういう事態を未然に防ぐために、ブレーキとして「恐れ」という感情が生まれるのではないでしょうか? 問題は、その恐れが過剰になりすぎて、必要な範囲のアクセルすら踏めなくなることが、あることなのですが。

それと、以前の「お坊さんがいらなくなる(失礼)」というのは、仏教の関係者の方に失礼かなと思ったからで、じたる様に対して他意があるわけではありません。
我無駄無dot 2014.06.08 12:22 | 編集
それと、これまで書いてきたのは、いわば「足るを知る」の積極的な側面であって、消極的な意味での「足るを知る」ということもあると思います。

例えば、ロックフェラーなど大富豪は、ある時期を境にして、これまでの貪欲な利益追求から慈善事業を行ったり、多額の寄付をするようになります。

また、中村天風もインドから帰国した後は、複数の企業で経営者として辣腕をふるい巨万の富を得ますが、ある時期を境にして、目で見える利益や欲を追求することに嫌気がさして、そこから辻説法を始めた経緯があるそうです。ここから「天風哲学」が始まるわけですが。

この、欲を追求する企業家が篤志家に転身したり、ある種の宗教家に転身したりするのも、消極的な意味での「足るを知る」ではないでしょうか?

つまり、「もう要らない」、「もう十分だ」。そういう「思ひ」がブレーキになって、煩悩の暴走に歯止めをかけると。

そうやって考えてみると、これまで不遇な人生を送ってきた人間は、「足るを知る」ことで、人生のアクセルを踏むようになり、逆に欲に任せて順風な人生を送ってきた人間は、「足るを知る」ことで、人生のブレーキをかけていくと言えそうです。
我無駄無dot 2014.06.08 16:22 | 編集
我無駄無様
ご覧になったかも知れませんが、先日テレビで山下良道氏(曹洞宗の僧侶)が、面白い話をされていました。自分を雲に喩えたとき、「悟り」が開けるまでは(「悟り」という言葉は使ってみえなかったかも知れませんが)、黒い雲を白い雲にしようとしていたが、自分は本来、青空だったと分かったとき、そこに黒い雲があろうと白い雲があろうと気にならなくなった…、概ねこんな話だったかと思いますが。
 これが「知足」ということなのかと思います。すべてを受け入れていけるということでしょうね。これが、雲門禅師の「日々是好日」ということに通じていくのだと思います。 以前、ブログで松原哲明氏の言葉として、「天候の良し悪し、人生の幸運や悲運、順境や逆境などの様々なこだわりを離れ、自分を中心にした物事の対比を捨てなさい。今日という一日は二度とやってこない。どんなに耐えがたい出来事があったとしても、今日というかけがいのない一日を全身全霊で生きなさい…。」を掲載しましたが、私たちは、生まれながらに完璧な存在として、今、そこにあるという確信が持てれば、それが「悟り」=「極楽」ではないでしょうか。
 「あるがまま」、それ以上のことはないのだと思います。「思ひ」こそは、幻影泡影の極みです。その意味では、行住坐臥、著衣喫飯、屙屎送尿こそ、真理の中の真理であるということなのでしょう。「隻手の音声」は、いつでも聞こえているのです。私たち凡夫には、それがなかなか気づけないのですね。
 ありがとうございました。
じ・た・る dot 2014.06.10 16:37 | 編集
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