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2018
12.02

「電車」か?「飛行機」か? ③/③

Category: 未分類

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 そこで思い起こされるのは、エルサレムのことです。エルサレムの旧市街は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にとって聖地とされます。街の中にはユダヤ人の統合のシンボルとされる「嘆きの壁」(ユダヤ教の管理下)があり、イエスの墓などがあると伝えられる「聖墳墓教会」(キリスト教の管理下)があり、また、預言者ムハンマドが天に昇ったとされる「岩のドーム」(イスラム教の管理下)があります。エルサレムは、それぞれの教徒にとってかけがえのない土地であるということです。
 したがって、特定の勢力がその独占を図ろうすれば、軋轢が生まれ、反目が始まり、やがては対立や抗争に発展するだろうことは想像に難くありません。いえ、今まさにその真っ只中にあるのだと思います。 
 この問題が、ものの名前をどう呼ぶかなどという単純な問題でないことはよく理解しています。長く複雑な歴史的な経緯の中で、それぞれの立場や考え方、主張などに大きな隔たりがあることは事実です。今さら、互いの溝を埋めるのは不可能なのかも知れなません。

 ただ、そうであっても“互いに違いを認め合う”という視座を持つことは大切ではないでしょうか。立場や考え方、主張が違うからといって、それを無視したり、排除しようとしたりする方向からは、決して共生の道はないと思います。
 「柳は緑 花は紅」という有名な禅語があります。これは、「柳は緑色」であることが真理があり、「花(この場合は桃の花)は紅色」であることが真理であるということを述べたものです。柳は花にはなれません。花も柳にはなれません。共にそのままで最高の在り方であり、違いをそのままに認め合うこと”が最も理にかなっているということを述べたものです。
 私見ではありますが、金子みすゞの詩「私と小鳥と鈴と」で最後に綴られている一節「みんなちがって、みんないい」も、このような思想に足場を置くものではないでしょうか。

 話が横道の逸れました。孫と楽しい時間を過ごすために、これからも、孫が自分の組み上げた玩具ブロックを何と呼ぼうと、祖父らしく、広く大きな心で認め、褒めてやろうと思っているところです。(〆)
                                                                        
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2018
12.06

ギャラリー67

Category: 未分類


◎これまで掲載した水をテーマにした写真をギャラリー67」としてまとめました。 

 水は百面相 どれも水の顔には違いない 
 しかし どれも本当の顔ではない 
 心も同じこと
 
今回の写真は、岡崎東公園と高浜市の瓦工場で撮影したものです。
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次回は「二つの円R」を掲載(4回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。

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2018
12.14

二つの円 R ①/④

Category: 未分類

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 友人と会話をしていたとき、デカルトの説いた「我」と禅における「我」とはどのように違うのかという問題が投げかけられました。デカルトの「我」というのは、有名な「我思う故に我あり」という言葉に込められた「我」のことです。これに対し、禅が追求する「我」というのは、臨済禅師が説いた「真人(しんにん)」という概念に象徴されるものです。この二つの「我」には、自ずから大きな質的な違いがあります。その違いを説明するように求められたのです。
 少し横道にそれますが、デカルトの思想について調べてみるとは、次のような説明がありました。
 「『我思う故に我あり』…という命題は、保守的な「信仰」による真理の獲得ではなく、信仰のうちに限定してではあれ、人間の持つ「自然の光(理性)」を用いて真理を探求していこうとする近代哲学の出発点を簡潔に表現している。デカルトが「近代哲学の父」といわれる所以である…」
 浅薄な知識をもとに補足したいと思います。現代であればごく当たり前である「我(私)」という概念こそは、デカルトによって確立されたものです。ただし、デカルトは、神そのものを否定してはいません。神の存在を認めながらも、疑う余地のないものとして「我」があることに目覚め、それを「近代的自我」として宣言したのです。その意味では、キリスト教の思想の中に楔を打ち込んだことになります。
 近代以降の文明の発展は、この「近代的自我」の確立と深い関係にあるというのが定説です。「我」のもつ人間の根源的なエネルギーが、近代文明を牽引し、発展に導いてきたということです。近代文明の発展とデカルトの説いた「近代的自我」とは、まさに車の両輪の関係あるというわけです。
 最初から、たいへん理屈っぽい話になってしまったことをお詫びします。話を元に戻したいと思います。(以下、②/④につづく)

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2018
12.18

二つの円 R ②/④

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座禅姿~1 
 そこで、デカルトの「我」と禅が説く「我」との違いです。このとき、とっさに「禅とは心の異名なり 心は禅の身体なり」という一文が思い浮かびました。そして、これを足がかりにして、説明を試みました。ただし、このとき、「我」と「心」は、同意語としました。
 ただ、この一文そのものがたいへん難解です。一般に「禅」というと、通常「坐禅」が連想されるのではないでしょうか。脚を組み、眼を半眼に閉じて瞑想することのが「坐禅」です。ところが、禅では、「行住坐臥」に禅があるとも言います。「歩く」「止まる」「坐る」「横になる」ことにも禅があるということです。また、服を着ること、食事をすること、トイレに行くことにも禅があると言います。
 それが「心」とどのような関係にあるのか。「心」の異名と言うことではありますが、ここで述べられる「心」と「禅」とは、その本質は同じものなのか、それとも別のものなのか。また、「心は禅の身体である」というのは、何のことを述べたものなのか。うまく説明できず、かえって混乱させてしまうのではないか。そんな思いも抱きながらも説明を初めました。      
 先ず、机の上に円を描き、これをデカルトの説いた「我」に喩えました。人間の理性に基づく、いわゆる「近代的自我」に当たる部分です。したがって、その外側は、キリスト教の思想に彩られた世界ということになります。
 次に、その内側にそれより小さな、二つ目の円を描きました。そして、この円を「禅」に喩えました。
 二つ目の小円は、「我」に内包されますが、「我」そのものではありません。特異な存在としての、もう一人の「我」です。いつも引用している、山田無文老師の言葉を借りれば、「顔もない、目玉も鼻もない、ずんべら坊のような化け物のような奴だが、こいつを一目見れば、もう病みつきで、もう一日も忘れることができない…」、こう喩えられる自分です。これが「禅とは心の異名なり」という表現になるのだと思います。(以下、③/④につづく)

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2018
12.22

二つの円 R ③/④

Category: 未分類

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 では、その小円に喩えた、異名とされる「禅」とはいったい何か?
 これに対しては、「三昧(ざんまい)」という言葉がキーワードになるだろうと思います。つまり、その「もの」や「こと」と一つになり切るということです。そこに、「我」が入り込む余地はありません。少しでも入り込むようなら、「三昧」とは言えません。毀誉褒貶(きよほうへん)を顧みない在り方です。  
 「三昧」に徹し、異名とされる「禅」の世界に浸ると、劇的な変化が起きます。最初に描かれた外側の円の枠は消滅し、小さな円が無限に広がっていることに気づくことになります。小さな円で表した、もう一人の「我」こそが、本来の自分であったということです。いえ、もともと外側の円はなかったのです。あるのは時空を超え、大宇宙の中に溶け込み、大宇宙と一体となった、どこまでも純粋な「我」だけです。
  「近代的自我」を確立し、キリスト教の思想の中に楔を打ち込んむことになったデカルトの業績は、称えられるべきものです。しかし、仏教ではその「我」も否定します。そして、それを否定したところにある「もう一人の我」こそが尊いと主張します。 
 全くの私見ではありますが、仏教の考え方によれば、キリスト教の思想も、結局は「我」という範疇に含まれるということなのだと思います。その成り立ちや歴史への影響力、思想的な広がりなど、デカルトの示した「我」とはスケールこそは異なります。しかし、そこで説かれているのはキリスト教の世界観に裏打ちされた「我」です。批判を恐れずに言うなら、主イエス、あるいは創造主に対して跪く「我」ということになるのかと思います。
 仏教を説いた釈迦は、紀元前4世紀の人です。17世紀に登場するデカルトの存在やその思想を知るよしもありません。しかし、このように見てくると、仏教の思想は、その発生の時点からすでに、キリスト教の思想も、またそれに対峙する形で登場したデカルトの思想をも否定する形で成立していたと言えるのではないでしょうか。いわゆる「否定の否定」です。 (以下、④/④につづく)

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2018
12.26

二つの円 R ④/④

Category: 未分類

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 では、「我」を否定した先にはどのような「我」があるのでしょうか?これについては、先にも書いたとおりです。テーブルの上に描いた最初の円は、消滅します。同時に、その内側にあった小さな円が無限に広がっています。その意味では、その上に円が描かれた「テーブル」そのものが「我」ということになります。
 これを別の言葉で置き換えるなら「大宇宙」です。そこは「我」に満たされ、「我」でないものはありません。「我」という呼び名さえも不要です。そもそも「我」などというものは、本来なかったのですから…。
 こんなことを言うと、何もないものを追求することに意味があるのかという声が聞こえてきそうです。
 私が、なぜこれまでにして「心の異名」とされる禅にこだわるかということですが、禅を通して世界を見たとき、そこに広がっている「自他一如」の世界、つまり「絶対平等」の世界に大きな魅力を感じるからです。禅の眼から見れば、全てのものは一元に帰します。何の差別もありません。“Something great”により営まれる世界です。
 先にも書いたように、デカルトの説いた「我」は、近代文明の発展に大きな役割を果たしました(あくまでも私見ではありますが)。しかし、今回の原発事故にも象徴されるように、今、文明そのもの意味を問い直さねばならない時代に入ったと言えます。文明の持つ「光の部分」と「陰の部分」をしっかりと見極める必要があります。文明の「陰の部分」への警戒を疎かにした先にあるのは、果てしない欲望の暴走だけです。無人兵器やロボット兵器の開発、あるいは化学兵器の開発は、絶対に許してはならないと思います。 また、様々な形で行われている遺伝子操作も本来は避けるべきでしょう。 
  デカルトの説いた「我」を蔑ろにして、私たちの社会生活は成立し得ません。しかし、その「我」も、「絶対平等の世界」から生まれ、やがては「絶対平等の世界」に還っていきます。つまり、“Something great”の一部であるということです。この事実は、私たちが、何時、何処にいようと、永遠に揺らぐことはありません。問題は、私たちがそれをいかに実感し、どう生活の中に生かしていくかだと思います。
 この揺らぎない事実に照らして、私たちの生活を見直したとき、その先に見えてくるのが、「吾唯足知(われただたるをしる)」という生活スタイルになるのではないでしょうか。私が目標としている、自らの奥底に潜む「貪欲(とんよく)」に向き合い、これを少しでも抑えながら生活していくことです。
 図らずも、私のニックネームである「じ・た・る」の語源にたどり着くこととなりました。この辺りで、今回のブログを閉じたいと思います。(〆)

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