
車の運転をしながらラジオ放送(NHKカルチャーラジオ)を聞いていたとき、興味深い話に耳を傾けるところとなりました。「詩と出会う 詩と生きる」と題した講話でした。“詩がこの世界と永遠なる世界と橋渡しをする”という趣旨の話でした。番組の中で、講師(若松英輔氏)は、次のように語っていました。
我々の中にあって、過ぎ去らないもの、永遠なるものをまざまざと見せてくれるものが詩の役割である…。人間というのは死んでしまったら終わりか、目の前から姿がなくなったら終わりなのか、いやそうではない。我々のこの世界では姿は見えないが、何とも言えないような存在が側にいるような気がする…。そういうことを歌い上げた詩人はたくさんいる…。むしろ詩というのはそういうところから生まれてきた…。言葉というものがこの世界と永遠なる世界と橋渡しをしてくれる。
この世は「諸行無常」であり、全てのものは移ろい、形を変えていきます。その現実を直視した古今東西の多くの詩人は、永遠なるものと縁を結ぶことを目指して詩文を作ってきたということです。大いに共感するところがありました。
詩を含め、文化や芸術などは、永遠なるもの、つまり人知の及ばぬものに対する憧れや畏れを表現したものではないかと思うのです。それが詩や文学となり、あるいは絵画や音楽になったのではないでしょうか。乱暴な見方かも知れませんが、永遠なるものと縁を結ぼう、あるいは縁を保とうとする営みこそは、人が人であることの証に他ならないと言えるのではないでしょうか。
ところで、放送を聴いた後、独り言のようにこんな感想を口にしていると、助手席にいた妻から、思いがけない反応がありました。曰く「自分はまだ人間になっていないような気がする」と。
妻の真意がどこにあるか定かではなかったのですが、そのとき、「人になる」とは、果たしてどのようなことか、改めて自問するところとなりました。それは人が生きる意味や目的に対する大きな問いでもあると思いました。
以下、またぞろ抹香臭い話しかと思われるかも知れませんが、仏教(とりわけ禅)の考え方を足場にして考えてみました。(以下、②/②つづく)

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仏教では、永遠なるもの、無限なるものは「仏(あるいは仏性)」と呼ばれますが、禅にあっては、自らの中にそれを見出すこと、正確には自らに内在する「仏」を見届けることが最終目標とされます。自分と「仏」が一つになるということですが、言い換えるなら、それは「新たな自分(もう一人の自分)」になることでもあります。禅宗寺院の僧堂などで行われる厳しい修行は、そのために行われるのだと聞きます。禅宗にあっては、「新たな自分」になることが「仏になる」ことであり、それが「人になる」ことであるという理解です。
ただ、私たち在家の者が「仏」となることなど容易なことではなありません。煩悩まみれの我が身を省みたとき、そんな願いを抱くこと自体、おこがましいことです。
そんな折、ひろさちや氏の言葉に出会いました。それは、「そもそも私たちが何のために仏教を学ぶかと言えば-仏らしく生きるため-」という言葉でした。
「仏になる」ことは簡単ではないが、「仏らしく」生きることならできるかも知れない…。それが「人になる」ことに通じるのでは…。勝手な解釈ではありますが、こんな受け止めをしました。そして、何か救われるような思いにもなりました。
では「仏らしく生きる」(言い換えるなら「人となる」)とはどのようなことなのでしょうか。
大きなテーマだけに軽々な見解は許されません。また、浅学な我が身にその回答を披瀝する力はありません。ここは、謙虚に仏教の開祖、釈迦の言葉に耳を傾けたいと思います。「経集(スッタニパータ)」の中にある「慈しみ」と題された言葉です。
「慈しみ」
一切の生きとし生けるものは
幸福であれ 安穏であれ 安楽であれ
何人も他人を欺いてはならない
たといどこにあっても
他人を軽んじてはならない
互いに他人に苦痛を与えることを
望んではならない
この慈しみの心づかいをしっかりと保て (中村 元訳)
永遠、無限の世界と一体となり、「悟り」を開いた覚者(仏)からの、永遠、無限の世界に二元対立はないという説諭です。私たちには、誠に高いハードルではあります。しかし相対差別の世界を生きる私たちも、常にこのような視座を失ってはならないのだと思います。
恥ずかしながら、私には作詩の力はありません。他者に対して少しでも「慈しみ」の心を持つこと、それが「仏らしく生きる」ことに通じるとしたら、私も実践努力目標としていきたい思うのですが、ご都合主義が過ぎるでしょうか。読者はどのように思われるでしょうか。(〆)

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水は百面相 どれも水の顔には違いない
しかし どれも本当の顔ではない
心も同じこと
今回の写真は、すべて阿知波池(豊田市)で撮影したものです。
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ドライブレコーダーを購入しました。高齢者による交通事故が増えている現状もさることながら、我が身にあっても、交通事故は人ごとではなくなったからです。高齢者の仲間に入り、視力、運動能力、判断力の衰えなど、若い頃と同じような運転はできない状況になりました。正直、運転が怖くなったと感じることもあります。
事故の原因を特定する上で、ドライブレコーダは大きな役割を果たします。それは客観的な目撃者であり、動かぬ証拠の保有者でもあります。交通事故に遭遇した場合、自らに非がないことを証明する手立ては乏しいものです。こちらに非がなくても、相手に悪意があれば、こちらが不利な状況に追い込まれることも考えられます。その意味では、ドライブレコーダーは、頼もしい味方でしょう。
購入後、早速、車にセットし、電源を入れて走ってみました。そして、走行後、パソコンで再生すると、鮮明なその画像には驚かされました。広角レンズによる高画素の録画は、想像以上の美しさでした。これで、一安心だと思いました。
しかし、少しして別の考えが浮かびました。ドライブレコーダーは、自らに非がないことを証明してくれるものではありますが、同時に、逆の場合もあり得るということです。つまり、ドライブレコーダーは自分自身の非を証明するツールにもなり得るということです。
その時、これからの運転は、今まで以上に慎重にしなければならないとの思いが湧いてきました。そして、同時に次ような疑問が頭を過ぎりました。
-ドライブレコーダーを装着する前の自分と装着してからの自分は、果たして、どちらが本当の自分なのだろうか-。(以下、②/③につづく)

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一般にドライブレコーダーなどなければ、少々の交通違反には無頓着なのが私たちの実態ではないでしょうか。誰も見ていないから…、監視機器もないようだから…等、その運転態度は不遜になり勝ちです。法定速度以上のスピードで走行する車や、交差点内の注意信号を無視して進入する車など、日常茶飯に目にする光景です。と言うよりも、恥ずかしながら、このようないわば自我(エゴ)に引きずられた野放図な運転マナーは、私自身のものでもありました。
ところがドライブレコーダーを装着してからは、道路交通法を遵守し、安全運転を確実に実践しなければなりません。否応なしに襟を正した運転を求められることになります。
このように、ドライブレコーダー装着前と装着後の自分は明らかに異なります。前者が、自我(エゴ)の赴くままの野放図な自分であるとするなら、後者は、ドライブレコーダーという外的なツールによって制御された自分です。
見方によれば、後者の有り様は主体性が欠如しているようにも映ります。しかし、よくよく考えてみれば、それは、いわば「良心(あるいは良識)」に導かれた自分であることに気づかされます。言い換えるなら、自我(エゴ)に任せた行動の危うさに気づき、より望ましい行動をとろうとする自分です。
先に、ドライブレコーダー装着前と装着後では、どちらが本当の自分かと書きましたが、その分別にどのような意味があるか、いぶかしく思われるかも知れません。しかし、禅の思想に随うなら、それがたいへん大きな問題です。(以下、③/③につづく)

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山田無文老師の言葉に次のようなものがあります。
自分が罪の深い者だと分かる。(中略)その罪な自分を悪いやつだと分かるその心は、形のない天地に通じる心である。神仏に通じる心である。そいつが仏だ。それが本当の自分ではないか。その本当の自分を発見することが禅ということである。(「和顔」より)
「良心」とは、自己の奧裏に潜む、善を命じ悪を退ける道徳的意識のことです。
私見ではありますが、「良心」というのは、「仏」あるは「仏心」と同意のものだと思います。老師によれば、自己の至らなさを顧みる心は、天地や神仏に通じる心、つまり「良心」であり、それにより導かれる自分こそが、本当の自分であり、「仏」でもあるということです。
交通事故に遭遇したとき、自分に非があった場合、ドライブレコーダーの記録は自らに不利に働くこともあります。しかし、そのために法令遵守や安全運転を励行するとしたら、大人として恥ずかしいことでしょう。「良心」に沿った行動というのは、私たちが、常々、罪深い生き方をしていることの深い自省が前提になるのだと思います。
煩悩にまみれ、ともすると自我(エゴ)が暴走しがちな我が身ではあります。しかし、今回、ドライブレコーダーを購入したことにより、思いがけなくも己事究明(自己とは何かを追究すること)のきっかけができたことは、ありがたいことでした。
ただ、よくよく考えてみれば、私たちは、車を運転するときだけでなく、日常の生活の中にドライブレコーダーを装着した生き方をしなければならないのかも知れません。日常生活の中に装着されるべきドライブレコーダー…。
読者は、それは何だと思われるでしょうか。ご意見をお待ちしています。(〆)

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少し前のことになりますが、奈良を訪れた際に、興福寺所蔵の阿修羅像を拝観してきました。約10年ぶり、2度目の拝観でした。
阿修羅像は、我が国の国宝になっている仏像群の中でも、もっとも有名なものの一つではないでしょうか。また、仏教への興味は薄くても、この仏像に惹かれる人も多いのではないかと思います。
その魅力は何でしょう。均整の取れたスタイルで、いかにも身が軽そうです。そして、その表情は、美少年の様相です。やや眉目を寄せ、憂いを含んでいるようにも見えますが、それがその内面にあるものをものを想像させ、より魅力を高めているのかも知れません。
こんなところから、この阿修羅像に一目惚れして仏像に興味を持ったり、仏教に興味を持ったりする人がいるほどだと聞きます。
しかし、この阿修羅像も、本来はこの像から想像するような優美な神ではなかったようです。阿修羅は、もともと仏教の世界の神ではなかったといいます。それは、西アジアで信仰されていたゾロアスター教(拝火教)の最高神であるアフラマズアにあたるもので、その中では、天界を暴れ廻る鬼神という位置づけだったと言います。
では、その戦闘相手は誰だったのでしょう。調べてみると、それは古代インド神話のバラモン教のインドラという神だったとありました。阿修羅は、このインドラと渡り合って、荒々しい合戦を繰り返す悪神で、容貌醜怪な札付きの外道とされているのです。
このような阿修羅ではありましたが、言い伝えによれば、釈迦の教化(きょうけ)によって護法神(守護神)となったとされています。こんなところから、阿修羅の神秘な表情は、仏の説法によって迷いから目ざめ、愁眉を開きつつある顔付きだとも言われているようです。この像は見る人の心を捕える理由の一つはここにあるのではないでしょうか。(以下、②/③につづく)

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