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2018
09.01

仏飯の功徳 ③ /③

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 武帝の行為は、仏教にあって「布施」に当たるものと言えます。仏教では、「布施」には大切な要件がいくつかあるとされます。その一つが、見返りを求めてはならないということです。これだけの施しをしたのだから、それにふさわしい「功徳」があるはずだというのでは本当の布施にはなりません。「布施」に、欧米流の「ギブ・アンド・テイク」の原則は当てはまらないということです。その意味では、武帝の問いそのものが仏道に馴染みません。達磨はそのこともたしなめたのだと思います。
 しかし、別の見方もできるのではないでしょうか。長く寺を作り、経を写させ、多くの僧を育ててきたこと自体が「功徳」であるという見方です。つまり、「功徳」は先にあるのではなく、今そこにあるという考え方です。禅で求められる「因果一如」という考え方に重なるのかも知れません。原因と結果は、一瞬のうちに統合され、完結しているという考え方です。(第3集に「因果一如」)
 そもそも、見返りを求めて仏(以下、位牌も含む)に手を合わせたとしても、それが実現するかどうか定かではありません。思い通りにことが進む場合もあれば、全く期待外れの結果になることだってあります。その先は、正に神仏のみぞ知るです。前者の場合はまだしも、後者の場合には、負の感情がその後に尾を引くことがあります。落胆に伴う感情が仏への不信や反感、ひいては怨みに転じる場合もあるのかも知れません。
 こんな理解の上で、先の私の体験を当てはめるなら、「功徳」は仏飯を供えることの先にあるのでなく、仏飯を供え、手を合わせることそれ自体にあることになります。仏の前で、威儀を正し、静かに頭を垂れることことで、私たちの心は鎮まります。そして、同時に穏やかで、清々しい気持ちにもなります。そのときの“心の平安”が「功徳」ではないか思うのです。また、勝手な解釈かも知れませんが、仏は、そんな私たちの様子を目を細めて静かに見つめられているのではないでしょうか。
 考えすぎかも知れません。しかし、こんなふうに受け止めれば、私たちは、もっと気軽に仏に手を合わせることができるようになるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
 最後に蛇足になりますが、お盆を機に、こんな気持ちになれたのも「功徳」と言えるのかも知れません。(〆)

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2018
09.06

大きな木R ①/④

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 今回は、最近その存在を知った絵本「おおきな木」を紹介したいと思います。1964年に出版され、世界各地で翻訳されたロングセラーの作品ですので、ご存じの読者もあるかと思います。作者は、シェル・シルヴァスタインという、アメリカの絵本作家です。単なる子ども向けの絵本という範疇を超え、奥深く考えさせられる内容を含んでいますので、なかなか読み応えがあります。
 物語は次のような書き出しで始まります。
  
あるところに いっぽんの木がありました。
 その木はひとりの少年のことがだいすきでした。
 少年はまいにち その木の下にやってきました。
 そして はっぱを いっぱいあつめました。
 はっぱでかんむりをつくり 森の王さまになりました。
 木登りだってしました。
 えだにぶらさがってあそびました。
 そして りんごをたべました。
 いっしょに「かくれんぼ」をしてあそびました。
 くたびれると こかげで少年はねむりました。
 少年はその木がだいすきでした…
 だれよりもなによりも。木はしあわせでした。
 でもじかんがながれます。
 少年は だんだん大きくなっていきます。
 木がひとりぼっちになることがおおくなります(以下、省略)」。 
 ここからは展開が少しずつ変わってきます。以下は、その要点です。
 そしてある日、少年は木の下にやってきます。木は、以前のように、自分に登り、枝にぶら下がり、そのりんごを食べるように誘います。そして木陰で遊び、幸せになるように語りかけます。
 ところが、少年からは「物を買って楽しみたい」という、意外な言葉が聞かれます。ところが木にお金はありません。そこで、木はりんごを売ってそのお金で幸せになるように言います。言われたとおり、少年は、あるだけのりんごを集めて運んでいきます。それを見た木は、幸せになりました。(以下、②/④につづく)

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2018
09.11

大きな木R ②/④

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 長い時間が過ぎ、少年はまた木の下にやってきました。木は以前と同じように誘います。ところが、少年は温かく暮らせる家が欲しいと言います。木に家はありません。そこで木は、自分の枝を切って家を作り、幸せになるように言います。
 枝を集めて持ち帰り、家を作った少年を見て、木は幸せになりました。
 それから長い時間が過ぎ、少年はまた戻ってきました。木は同じように語りかけます。ところが、今度は、遠くにいくための船が欲しいと言います。木は即座に、自分の幹を切って船を作り、幸せになるように言います。少年は言われたように幹を切り倒し、船を作って遠くに旅立ちます。
 ずいぶん長い時間が流れ、少年はまた戻ってきました。ところが今度ばかりは、木はあげられるものがありません。切り株だけになった木は、少年にそのことを告げます。ところが、歳をとった少年は次のように言います。
 「ぼくはもう、とくになにもひつようはしない。こしをおろしてやすめる しずかなばしょがあればそれでいいんだ。ずいぶんつかれてしまった。」
 そして、木の誘いにしたがい、そこにこしを下ろします。それで木は幸せになるのでした。   〈村上春樹 訳 あすなろ書房〉


 「おおきな木」を母性の象徴と感じる読者が多いのではないでしょうか。少年に対して無私・無償の愛を与え続ける「おおきな木」は、母親の有り様そのものとも言えるものです。「おおきな木」の慈愛は、眩しいほどに迫ってきます。
 一方で、この話から連想されるのが、仏の一つである「観音菩薩」です。般若心経では、冒頭で「観自在菩(かんじざいぼさつ)」とも読まれます。「観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)」と呼ばれることもあります。

 仏教では、仏を「如来」と「菩薩」という概念で区別しています。「如来」は、悟りを開き、真理の世界(彼岸)から教えを広めている仏です。釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来などの仏がそれです。
 これに対して「菩薩」というのは「菩提薩捶(ぼだいさった)」、つまり、悟りを求める者という意味です。「如来」に限りなく近い位置にありながら、現世に留まり、私たち凡夫を救うことを務めとする仏です。宝冠、胸飾りなど豪華な装飾品を身につけた姿にその特徴があります。釈迦が出家する前の姿を表しているとされます。
 そこで「観世音菩薩」ですが、この仏は、その名前を称えるとその音を観じて願いを成就させてくれるという仏です。現世利益の成就に霊験があるとされることから今日まで、最も広く民衆の信仰を集めている仏の一つです。(以下、③/④につづく)

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2018
09.16

大きな木R ③/④

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 観音菩薩は、正式名を「聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)」と言います。一面二臂(顔が一つ腕が二つ)の観音菩薩です。「聖観音」は、救うべき相手に応じて、その姿を三十三に変身させていきます。ある時は、聖者、ある時は天界の神々、またある時は人間界にいる者、さらには修行者、女性、子供などのように自由自在にその姿を変えながら、衆生(人間を含む全ての生きとし生けるもの)を救済していきます。これが全国に広がる三十三観音霊場巡りの起こりのようです。
 ちなみに、「十一面観音」「不空羂索観音」「馬頭観音」「千手観音」などがありますが、これらは「聖観音」とは区別して「変化観音(へんげかんのん)」と呼ばれています。それぞれが固有の観音菩薩として、衆生を済度していくとされます。 
  そこで、私見ではありますが、絵本「おおきな木」に描かれている木は、まさに「聖観音菩薩」の在り方そのものではないでしょうか。

 「おおきな木」は、成長する少年に寄り添いながら、一つ一つの願いを受け止め、自らの姿を変えながら、次々に叶えていきます。しかもどの場合にも、そのことに常に「幸せ」を感じています。
 そんな「おおきな木(以下「木」とします)」の在り方を、甘すぎるという指摘もあるかも知れません。また、それぞれの場面で、「木」に対する少年の謝意も謝罪の姿も描かれておらず、その態度に不快を感じる向きもあるかも知れません。
 しかし、私たちがこの物語から読み味わいたいことは、ここまでして少年(他者)に尽くそうとした「木」の在り方にあると思うのです。仏教には「忘己利他(もうこりた)」という言葉があります。自己の利益を顧みることなく、他者の利益を優先させることこそ尊いというのが、その意味です。先ず、私利私欲を離れるということです。いつも例に挙げる「自未得度先度他(じみとくどせんどた)」もこれに近い思想です。
 外国人の作者が、仏教における仏(とりわけ「菩薩」)という概念に対して、どれほどの知識や理解があったか定かではありません。しかし、この話に込められている深いメッセージと、仏(とりわけ「菩薩」)が信仰の上で果たしている役割とには、明らかに接点があります。
 言うまでもなく、これはフィクションです。単なる空想話だと切り捨てる人もあるかも知れません。また、「菩薩」にしても、信仰の上での架空のキャラクターです。そのことを否定するつもりはありません。(以下、④/④につづく)

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2018
09.21

大きな木R ④/④

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 しかし、このような話に接したとき、私たちの心に響くものがあるのはなぜなのでしょうか。ここからは、いつものように独りよがりな解釈です。
 私たちがこの物語に感動する所以は、そこに描かれている深い精神世界と私たちの心の奥底で眠っている心とが響き合っていることにあるのではないでしょうか。
 その心とは、私たちの内面の奥深いところで、自然に芽生え、静かに響き出す心です。「慈悲の心」、あるいは「菩薩の心」と言ってもよいのかも知れません。自我(エゴ)の世界にある心とは全く別次元にある心です。その心が、物語の発している深いメッセーを受け止めているとき、私たち自身が「おおきな木」になっているのかも知れません。
 そして、もう一つ忘れてはならないのは、その心は、私たち誰もが、生まれながらにして持ち合わせている心であるということです。
 臨済宗中興の祖として、江戸時代に活躍した白隠禅師は、「坐禅和讃」という経本の冒頭で、「衆生本来仏なり(しゅじょうほんらいほとけなり)」と詠っています。人間も含む生きとし生けるもの全てが、仏として存在しているということです。そして、私たちがそのことに気づいていない様子を「水の中にいて水が欲しいと叫んでいるようなもの」と喩えています。禅の思想によれば、自己以外に仏はなく、同時に、自己を含むあらゆるものが仏であるということです。
 ところで、ある本を読んでいたら、仏教には、「菩薩」の修行段階を喩えたものとして、「満清浄者(まんしょうじょうしゃ)」と「分清浄者(ぶんしょうじょうしゃ)」という考え方あると聞きました。「満清浄者」というのは、修行の段階が満に近い状態、つまり「如来」に近い段階にある「菩薩」であるということです。これに対して、「分清浄者」というのは、修行がまだ不十分な段階にある菩薩です。当然、今歩き出したばかりの、いわば駆け出しの菩薩もあるわけです。
 このような考え方によれば、私たち誰にでも「菩薩」になるためのスタートラインが用意されていることになります。その意味では、このような絵本に接することが、「慈悲の心(あるいは「菩薩の心」)に気づき、「菩薩」に近づくことの一つの契機になると言えるのかも知れません。
 絵本「おおきな木」の解釈として、浅薄で偏ったものであることはよく承知しています。読者の皆さんには、ぜひご自分の手に取られ、読み味わわれることをお勧めします。きっと、また別の思いが湧き上がってくるかと思います。(〆)

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2018
09.25

一枚の皿から ①/②

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 ロイヤル・コペンハーゲン(北欧デンマークを代表する名窯、1775年王室御用達窯 として設立、1779年に王立磁器製作所となった後、1868年に民間に売却)の磁器の展覧会を鑑賞する機会がありました。アールヌーボーの特色を色濃く映し出した作品群でした。それぞれの作品には、草花や鳥、昆虫など小動物などをモチーフにした精細な飾りが施されており、一つ一つがたいへん優美で、魅力的なものでした。
 ところが、その中に異色の作品がありました。それは長径が30㎝程の楕円状の皿だったのですが、その縁にはヘビのフィギュアが施されていたのです。しかも、さらに驚かされたのは、ヘビはその身にカエルを捕らえ、渾身の力で締め上げていたのです。言うまでもないことですが、カエルは瀕死の様子に見えました。まさに命のやり取りの場面を表現したものです。そのリアルさは本物と見紛うばかりで、思わず息を飲むほどでした。
 選りに選って食べ物を供する皿にこのような場面を飾りとして施すなど、なんと悪い趣味か…。そもそもこんな皿に食べ物を盛り付けられたら、それがどんなご馳走でも食欲は湧かないだろうし、それどころか気分が悪くなるのではないか…。ブラックユーモアも度を超しているのではないか…。これが大方の見方ではないでしょうか。

 しかし、少しして考えたことがありました。皿に盛り付けられるものが何であるにしても、私たちが食事を摂るとき(その前の調理も含む)というのは、すべからく命のやり取りです。それが穀物であれ野菜であれ、あるいは肉類であれ魚介類であれ、私たちがそれらを口にするときは、例外なくその命をいただいています(直裁に言うなら、命を奪っている)。ヘビがカエルにしているのと全く同じ行為です。
 うがった見方かも知れませんが、この皿の作者は、その冷徹な事実を、食事を摂る人に伝えようとしたのではないでしょうか。曰く「あなた方は、この皿の上で、目の前のヘビがカエルにしていることと同じことをしているのですよ…」と。(
以下②/②につづく)
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2018
09.29

一枚の皿から ②/②

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 仏教の根本思想の一つに「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)があります。この世の生きとし生けるものは、例外なく仏性があるということを述べたものですが、「仏性」はそのまま「命」と置換えられます。この世に存在するものは、すべからく「命」の実物とも言えるものです。そして、私たち人間は、動物や植物など、いわゆる無情のものたちからその「命」をいただくことによって、自らの「命」を保っています。
 「生死一如(しょうじいちにょ)という言葉があります。私たちの体内で行われている新陳代謝が連想させられますが、これとは別の意味もあると思います。自分が命をつなぐ(生)ということは、他者の命をいただく(死)ことでもあるということです。その事実を踏まえ、仏教徒は、食事の前には「いただきます」、食事の後には「ごちそうさまでした」と、両手を合わせ、懺悔(ざんげ)と感謝の念を表明するのだと思います。
 
 ヨーロッパ(デンマーク)で造られた一枚の飾り皿との出会によって、思いがけなくも「命の循環」について考えさせられるところとなりました。人間は自然の一部であり、自然界で営まれる無限・無常の「命の循環」の内に身を置くことで命脈を保っています。
 
私見ではありますが、これは人間誰もが有している本源的な自覚でもあるのだと思います。この飾り皿は、それが洋の東西はもちろん、時代をも超えて息づいていることをよく示しているのではないでしょうか。
 読者の皆さんは、どのように感じられるでしょうか。(〆)

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