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2018
04.07

鈴木大拙の思想 ①./④

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 鈴木大拙(すずきだいせつ)[明治3年(1870)~昭和41年(1966)]の思想に触れる機会がありました。「大拙先生とわたし」と題したNHK Eテレの番組“こころの時代”の視聴を通してでした。番組は、生前の鈴木大拙と親交の深かった岡本美穂子(おかもとみほこ)氏(金沢・鈴木大拙記念館名誉館長)が、ディレクターのインタビューに答える形で進行されました。
 鈴木大拙(以下、大拙とします)は、鎌倉・円覚寺で釈宗演(しゃくそうえん)のもとで禅を学び、禅の思想や東洋の思想を欧米に広めた仏教学者です。戦後はアメリカに滞在し、ハーバード大学やニューヨーク大学などで仏教や禅に関する講義を行った他、著作の多くを英語で執筆し、禅の思想を世界に普及する基盤づくりをしました。現在の禅(ZEN)の国際化は大拙の存在を抜きにしてあり得ないとされます。
 一方、岡本氏は、昭和27年(1952)にアメリカで大拙と出会い、昭和41年(1966年)に大拙が死去するまで、約15年にわたり秘書役として生活しました。最晩年の大拙を知る人物としてよく知られる女性です。
 番組では、アメリカ時代の大拙に関わるエピソードや、岡本氏自身が大拙と交わした対話の様子などが具体的に紹介され、大拙の人となりやその思想の一端を垣間見る上で、たいへん興味深いものでした。
 その中から、私が心に残った三つの場面について、思うところを述べてみたいと思います。
 先ず、一つ目の場面です。
 あるとき、目の前の机を叩いて、「どこで聞いた?」と尋ねられた。耳で聞いたなど答えるのは余りにも平凡なので、「全身です」と答えた。すると、「そんなけちくさいものじゃないぞ」と言われた。その後に、大拙は「全宇宙が聞いたから、あなたが聞いたのだ」と続けた。
  不思議なやり取りではあります。しかし、これが仏教(とりわけ禅)の世界観です。138億年前から続く宇宙の営みの延長線上に私たちは存在しています。私たちの心の働きも体の働きも宇宙に働く力から離れて存在しません。眼・耳・鼻・舌など、感覚器官の働きの全ては、宇宙に直結しています。私たちの「聞く」という行為も、単独で機能しているのではなく、宇宙を構成し、進化させているエネルギーを得てあるわけですから、「宇宙が聞いた」と言っても過言ではないということです。その意味では、私たちが歩いたり、止まったり、坐ったり、横になったりする行為、つまり「行・住・坐・臥」も宇宙の行為であると言えます。(以下、②/④につづく)

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2018
04.11

鈴木大拙の思想 ②/④

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 二つ目の場面です。
 大拙に「手を出しなさい」と言われた。手を出すと「きれいな手じゃないか。仏の手じゃないか」と言われた。そのときは「何で私の手が仏の手なのか?」と思ったが、その手が自由に動くことを指摘しながら、「これは、あなたが作った手か?あなたの親が作った手か?」と聞かれて、言葉が詰まった。
 手を出すように言われ、いきなり「これは誰の手ですか?」と問われたら、私たちは何の疑いもなく「わたしの手です」と答えると思います。それを「仏の手」と言われたらどうでしょう。岡村氏の戸惑いはよく理解できます。
 しかし、「あなたの手は誰がつくったか?」と問われたらどう答えるでしょうか。「わたしがつくった」と答える人はいないだろうと思います。また、「父と母がつくった」と答える人もいないでしょう。では、誰だと言ったらよいのでしょうか?
 先の話にも重なりますが、それは、宇宙に働く力(存在発現言力)としか言いようがないものです。英語ではSomething greatですが、仏教では、それを「仏(仏性)」「法(法性)」等と呼んでいます。「」あるいは「」という言い方もあります。
 したがって、「誰の手か?」と問われたとき、「仏の手だ」と答えても何の齟齬もありません。いえ、このように考えを進めれば、私たちの体そのものが「仏の体」ということになります。つまり、私たちは「仏の分身」であるということです。大拙は、そのことを伝えようとしたのだと思います。

 三つ目の場面です。
 キリスト教では天地創造の神が「光あれと言ったら夜が明けた」とされるが、大拙は次のように言った。「その前に神様はいったい何をしておられたのか?どこにおられて何をされていたのか?」と。
 また、楽園を追放されたアダムとイブについて問われると、「リンゴをもう一度かじればいい」と答えた。これは、本来を確認するということだ。
 仏教(禅)では、固定したものとして捉えない。ストーリーとして考えない。自由ということのもとがそこにあると言いたかったのだと思う。

 言うまでもなく旧約聖書にある「天地創造」の話は人間がつくったものです。当然、アダムとイブの話も創作です。
 一方、仏教では、あらゆるものごとは刻々と変化し続け、何ものにも依存しないで存在しているものはないと説きます。いわゆる「諸行無常」「諸法無我」です。そして、存在には実体はないとして、あらゆる妄念・妄想を否定します。(以下、③/④につづく)

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2018
04.15

鈴木大拙の思想 ③/④

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 妄念というのは、実体がないのにあるように勘違いして起こる意識であり、妄想とはそれをもとに膨らむ根拠のない思考のことです。その意味では、私たちが抱く妄念・妄想の最たるものが神という概念であるとも言えます。
  「その前に神様は、いったいどこで何をしておられたのか?」というのは、大拙のいわばブラックユーモアでしょう。仏教(とりわけ禅)には、神(この場合は創造主)などという絶対者は存在しません。仮に存在していたとしても、神でさえ「諸行無常」「諸法無我」という宇宙の摂理の下にあり、時間や空間の影響から逃れることができないということです。
 では、アダムとイブの話はどうでしょうか。「リンゴをもう一度かじればいい」という大拙の深意はどこにあるのでしょうか。
 大拙の言うように、もしアダムとイブがリンゴをもう一度かじったとしたら、果たして神はどうしたでしょうか?自らが造り出した人間がその命令を無視するなど、全く想定外の行為のはずです。乱暴な想像ではありますが、神はパニックを起こし、恐らくは何もできなかったのではないでしょうか。
 ここで大拙の言いたかったことは、何だったのでしょう?
 それは、もう一度リンゴをかじり、そのおいしさを十分に味わえばいいということではないでしょうか。
 仏教(とりわけ禅)では、人間は、常に自(おの)ずからに由(よ)という在り方が尊重されます。外界の何ものからも、騙されたり束縛されたりすることのない在り方です。これが「自由」についての仏教の考え方です。アダムとイブは、思う存分にリンゴを味わい、今ここに楽園があることをしっかりと噛み締めればいいということです。「昨日」は記憶の世界であり、「明日」は想像の世界です。常にあるのは「今」です。そして「今」の連続です。大切にすべきは「即今只今(そっこんただいま)」であるということなのだと思います。
 この二つの話は、つまるところ「神はいない」ということを言っているのではないでしょうか。大拙は、「禅とは自己の存在の本性を見抜く術であって、それは束縛からの自由への道を指し示す」と述べています。想像ではありますが、自己の存在の本性を見抜いた先には、神などという妄念・妄想は跡形もなく消滅するということなのでしょう。大拙の思想の核心は、まさにこの二つの話の中に示されているように思われます。(以下、④/④につづく)
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2018
04.19

鈴木大拙の思想 ④/④

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 ところで、先に神というのは、妄念・妄想の産物であるといいましたが、仏もこれと同じではないかと思われる読者があるかも知れません。そして「神がいない」のであれば「仏もいない」のではないかと詰問したくなるかも知れません。そこで、以下、私見を述べたいと思います。
 仏はいない。しかし、仏は充ち満ちている。これがその答えです。仏教特有の「空」と考え方です。腑に落ちないという声が聞こえてきそうですが、残念ながら、それ以外に言いようがありません。「有るようで無い」「無いようで有る」、これが仏です。
 旧約聖書における神と仏教における仏には、もう一つ大きな違いがあります。神と人間の間にあるのは上下関係(縦のつながり)ですが、仏と人間(正確には生きとし生ける物)との間にあるのは、あくまでも水平関係(横のつながり)です。つまり、すべての人間は絶対的な平等関係にあり、一人一人が自由で、完璧な存在であるということです。換言すればすべての人間が仏である」ということです。互いを肯定し合い、尊重し合っていこうとする高邁な精神は、ここから生まれてくるのだと思います。
 番組の最後の場面で、岡村氏から次のような言葉がありました。大拙の思想を端的に表すものとして心に残りました。要約して紹介します。


 大拙にとっては、宗教も宗派もない。人間は単に、「二本足で立っているもの」ということであり、大拙は、そのような人間の本来の働きを実感として持っていたのだと思う。(中略)私たちは、二つの次元が同時に動いている。その一つが「生きている」ということであり、その一つが「生かされている」ということである。そのことを忘れてはならないと思う。


 以上、テレビの視聴を通して印象に残った三つの場面について綴ってきましたが、最後に、昭和37年(大拙92歳)、NHKのテレビインタビューに出演したときの映像に残る大拙自身の言葉を紹介して結びにしたいと思います。「西洋人が禅に感じる魅力とは何だと思うか?」という問いに対する大拙の答えです。 


 今は何にでも束縛されてしまう。時間に束縛され、組織に束縛され、いろいろな点で束縛され、本当の自由の働きができない。人間は元来自由がなかったらもう人間ではないから、人間に帰ろうという動きがどこからか出てくると思う。それに対して、禅は最も適切な訓練であり、修行だということに気づいたのだろうと思う。
 東洋の自由の意味は、自ずからなる、自ずからに由るということ、ものに束縛が何もない、そのものになって、本体になって働くというのが自由だ。西洋のリバティ[liberty]やフリーダム[freedom]には、そういう意味はない。


 自由についての東洋と西洋の受け止め方の相違が、そのまま仏教(とりわけ禅)とキリスト教の教義の違いに反映しているという、たいへん興味深い指摘だと思います。
(〆)    
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次回は「ゼロにならない心 R」を掲載します。ぜひご訪問ください。 


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2018
04.23

「ゼロ」にならない心 R ①/③

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 これから紹介するのは、ある購読本に、東京の新宿で活動しているAさんの談話として掲載されていたものです。十数年ほど前の話ですので、現在とは状況が異なっているかもしれません。しかし、そのことを超えて、心打たれ、考えさせられるものがあるように思われ、敢えて紹介しようと思います。
  
Aさんは、ホームレスの人たちを世話しています。様々な事情から、家がない、仕事がない、お金がない、家族もない人たち。新宿だけで800人いるとも1000人いるとも言われ、20代、30代の人も増えているとのことでした。Aさんは、「ゼロの人たち」と言っています。
 Aさんは、10年ほど前、ホームレスの人たちのことを知りました。そして、このままではいけないと考え、炊き出しをはじめます。
 しかし、それを見た周囲の人たちは、Aさんに、「やめてほしい。」と迫ります。また、「甘やかすから、ホームレスの人がどんどん集まってくる。」「新宿はホームレスの街になってしまう。」などの言葉を投げつけます。
 しかし、Aさんは続けました。最初は20人くらいだったホームレスの人たちは、1年後には300人くらいに増えたと言います。
 そこで、Aさんはあることを思いつきます。ホームレスの人たちに「ゴミ拾い」をはじめようと呼びかけたのです。新宿の街に落ちているごみを拾うための掃除です。
 さて、ホームレスの人たちの反応はどのようだったのでしょう?食べ物がほしいから嫌々やるのか、それとも断るのか。
 ところが、ホームレスの人たちは、すごく喜んで掃除をするのだそうです。
 Aさんはこう言っています。
 「おっちゃんたちは、いつも食べ物を探しています。拾ったり、もらったり、食べられる物を探していないと生きていかれないのです。だから、食べていくということについて聞くと『つらい』と言います。でも、掃除をすることをすごく喜ぶんです。ただの掃除ボランティアじゃない気迫や凄みを感じます。その様子を目にすると、感動して涙があふれてきます。」(以下、②/③につづく)
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2018
04.27

「ゼロ」にならない心 R ②/③

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 最初は(週3回)20人くらいから始めた町の掃除は、だんだん増えて、50人以上が参加するようにもなります。
 その中のある男性は、こんな話をします。  
「ゴミ拾いに参加しなくても、どこかで食事をもらうことはできるよ。役所の人たちも食事を用意してくれる。でもその整理券をもらうために並んだことはないんだ。だって、並んでいたら掃除ができなくなっちゃうからな。」 
 ホームレスの人たちは、お金がほしいと言っていない、家がほしいとも言っていない、食事がほしいとも言っていない。それなのに、いったいどうしてこんなに一所懸命に掃除をするのか?
 Aさんは次のように語っています。  
 「何がなくなったとしても人間は、『社会の中で役立ちたい』『他者のために役立つことをしたい』というと言う気持ちは『ゼロ』にならない。結局、自分だけのことじゃなくて、周りがどれだけ幸せになるかを考えていた方がいいんだろうな。」

 禅では、「無心になる」ことが追求されます。これは、我欲を棄て、我執を消し去ることが、一番良い人間形成の道であるという信念に基づいた考え方です。
 山田無文老師(昭和に活躍した臨済宗の禅僧)は、『六祖壇経(ろくそだんきょう)』という経典を解説した本の中で次のように述べています。
 そこに純粋な人間性が自覚されれば、道徳は自然に具わってくる。だから、我々は常にいかに無心になるかということを工夫さえしていればいいのだ。
 様々な事情から、家も仕事もお金も家族もなく「ゼロの人たち」と呼ばれるホームレスの人たちではあります。ところが、それらのものが「ゼロ」になっても「ゼロ」にならないものがある…。それが「社会の役に立ちたい」「あなたのために役に立つことをしたい」という一念である…。無文老師が言う「自然に具わってくる道徳」とは、このことではないでしょうか。
 もちろん、ホームレスの人たちの置かれている状況と禅の修行僧らが「修行」として取り組んでいる状況とは、本質的に異なります。修行僧らが、自ら決意し、選択してその状況の中にあるわけですが、ホームレスの人たちは、「様々な事情」により、やむなくその状況にあるのだと思います。
 しかし、私には「ゼロ」の状態にあるということと、禅で求められる「無心になる」ということが、どうしても重なって見えてしまうのです。(以下、③/③につづ
く)

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