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2018
03.02

二人のイリーサ R ①/④

Category: 未分類
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 いつもの子ども向けの「仏教説話」の中から、インドに残されているという話を紹介します。
 ある町に、イリーサという大金持ちの男がいました。御殿のような大きな家に住み、蔵には金や銀や宝石がびっしりと入っていました。でもイリーサは、いつも貧しい身なりをして、食べ物も粗末なものを少しだけ食べ、着るものも古びて、よれよれになったものを着ていました。ひどいけちで、ものがあり余っていても、人に与えるどころか、自分が使うことも惜しくてたまらないのです。だからイリーサは、妻や子どもからも、そして、町の人からも嫌われていました。
 ある日のことです。イリーサが家に帰ってくると、家の中がざわざわしています。ふくろを担いだ町の人たちが、イリーサの家を出たり入ったりしているのです。何事が起こったのかと中に入ってみると、蔵という蔵は、扉が開いていて、人々が金や銀や宝石などを、ふくろに詰めて持ち帰ろうとしているではありませんか。イリーサは、かっとして、大声で怒鳴りました。
 「こら、おまえたち、何をしているのだ!わしの大事な宝物をどうするというのだ!このどろぼうめ。返せ!返せ!」
 そして、あわてて、ふくろを奪い返しにかかりました。
 するとその時、家の中から声がしました。
 「みんな、かまわん。かまわん。好きなだけ持って行け。わしは、今まで、けちけちとお金や宝をためてきたが、もう飽きた。それに、けちだということでみんなに嫌われるのが嫌になった。好きなだけ持って行け。早く持って行け。」
 「何だと、おまえはいったい誰だ!」 
 イリーサが怒鳴りました。すると家の中から男が出てきました。 
 「わしか、わしは、この家の主人のイリーサだ。」 
 それは、イリーサと顔も姿も声もすっかり同じ男でした。
 イリーサは、驚くやら、あきれるやらで、いっそう大きな声で怒鳴りました。
 「何を偽物め。わしがこの家の主人のイリーサだ。だれの許しを得て、こんなことをしているのだ!」
 「何、わしが偽物だって?おまえこそ偽物ではないか。」 
男は、ニコニコ笑って言いました。
 人々は、ぽかんとして、見比べました。でも、二人は、どこからどこまで、すっかり同じで、どちらがどちらかは、全く見分けがつきません。
(以下、②/④につづく)
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2018
03.06

二人のイリーサ R ②/④

Category: 未分類
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するとニコニコ笑っていた男が言いました。
 「そいつは偽物だ。さっさと外へ放り出せ!」 
それを聞いた、町の人々は、イリーサを門の外へ放り出してしまいました。 
「ああ、何ということだ。本物のわしが、偽物に追い出されるとは…。」イリーサは、あまりのショックで、そのまま気を失って倒れてしまいました。  
 気がつくと、イリーサは、ベッドの中でした。心配そうに妻がのぞき込んでいました。
 イリーサは、聞きました。
 「わしは、どうしてここにいるのだ?蔵の宝物はどうなった?」 
 「ええ、あなたが、みんなにあげてしまえとおっしゃったので、その通りにしました。町の人たちは、みんなとても喜んでいます。」
 「ああ、やっぱり。わしは、もう、おしまいだ…。ところで、わしとそっくりの男はどうした?」
イリーサが、そう尋ねると、妻は、意外そうな顔をして答えました。
 「そっくりの男ですって?そんな男は知りませんよ。」
 「知らない?その男が町の人たちに、宝物をあげたんだぞ。」
 驚いたイリーサは、声を荒らげました。しかし、妻は、落ち着いた様子で言葉を続けました。
 「いいえ、あなたですよ。あなた以外に誰もいません。…いいことをなさいましたね。あなたは、今では、すっかり町の人気者です。あなたの中にも、わかちあう心があったのですね。子どもたちも、とても喜んでいます。」
 イリーサは、何がなんだか分からなくなりました。
 でも、それからしばらくして、心が落ち着いてくると
 (あの男は、ひょっとしたら、本当の自分だったのでは)
と思えてきました。そして、何だか気持ちが「すーっ」と楽になって、心が温かくなってくるのでした。

  二人のイリーサの「むさぼる心」と「わかちあう心」、このような二つの心は、私たちは誰でも持っている心だと思います。果たして、どちらが本当の自分の心なのでしょうか?前者でしょうか…?後者でしょうか…?それとも…?
 ところが、「禅」では、「どちらが本当の自分か?」などという問いそのものが意味を持たないようです。(以下、③ /④につづく)
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2018
03.10

二人のイリーサ R ③/④

Category: 未分類
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 いつも例に出す中国の禅問答集『無門関』に、「倩女離魂せんじょりこん)」という面白い則(問題)があります。中国の昔話が元になっているようです。
 王宙という青年には、倩女という美しい女性との結婚の約束がありました。ところが、倩女の父は、娘を他の人に嫁がせることを決めてしまいます。落胆した王宙は、他国へ移り住むことを決心します。ところが、王宙が他国へ向けて船を出そうとすると、倩女は後を追いかけてきます。王宙は喜んでこれを受け入れます。いわゆる駆け落ちです。
 その後、二人は他国に入り、蜜月の日々を始めます。二人の子供ももうけ、幸せな暮らしを続けます。
 それからしばらくたつと、倩女は王宙に、一旦帰郷して両親に謝りたいと申し出ます。王宙は同意し、二人は故郷に戻ります。
 ところが、故郷に戻った王宙が、両親を訪れると意外な言葉を聞きます。倩女は、王宙を待ちこがれ、ずっと奥の部屋で寝ているというのです。驚いた王宙は、倩女をつれて家に駆けつけます。するともう一人の倩女が家の奥から出てきます。
 王宙があっけにとられていると、その目の前で、二人の倩女は、にっこり笑うと、ぴったり一つになってしまいます。

 先の仏教説話に重なる不思議な話です。「無門関」では、この話をもとにして、どちらの倩女が本物の倩女かが雲水(修行僧)に問われています。読者には、どのように答えられるでしょうか?
   そこで、以下、私見を述べてみたいと思います。
 「どちらの倩女が本物の倩女か?」…。私は、このような問いかけそのものに意味がないのだと思います。王宙の後を追い、子どもまでつくった倩女が本物なら、長い間、家の奥で寝ていた倩女も本物ということです。いえ、もともと倩女は一人だったのです。
 言うまでもなく、この物語の主人公は王宙です。王宙の心の変容こそが問題なのだと思います。王宙は、故郷へ帰ることで、自分をずっと待ち続けてくれていた倩女に出会います。それは、王宙にとって晴天の霹靂であったことでしょう。けれども、倩女の純真な愛情に気づきます。
 王宙は、追ってきた倩女と共に欲望の赴くままに行動しました。しかし、だからこそ、倩女の心に深く抱かれていた純愛に気づくことができたのだと思います。欲望が契機となって人間らしい高い自覚が得られたのです。それが「もう一人の王宙」ということです。(以下、④/④につづく)
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2018
03.14

二人のイリーサ R ④/④

Category: 未分類
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 仏教には「煩悩即菩提ぼんのうそくぼだい)」という言葉があります。「煩悩」と「菩提(悟り)」は同じものだという考え方です。しかし、だからといって、すべてを欲望(煩悩)にまかせてで生きていけばいいというわけではありません。欲望のみに身と心をゆだねた生き方に、どんな末路が待ち構えているか、説明の必要はないと思います。
 山田無文老師は、「無門関」の講義の中で、次のように述べています。
 欲望の満足のために生活していると、満たされない、救われないものがある。そういう淋しいものがいわゆる自我ではないだろうか。…何か不満がある。生き甲斐がないというのは、眠ったまま物言わない、もう一人の自分を求めているからではないだろうか。…それが宗教心の芽生えというものであろう。
 白隠禅師は、その『坐禅和讃(ざぜんわさん)』の冒頭と末尾で、「衆生本来仏なり(しゅじょうほんらいほとけなり)」「衆生の他に仏なし(しゅじょうのほかにほとけなし)」と述べています。「仏心」「仏性」は、外から与えられたり、教えられたりしてあるのではなく、だれもが生まれながらにして持っているという確信を述べたものと受け止めています。
 一方で、「煩悩無尽誓願断ぼんのうむじんせいがんだん)」という言葉もあります。煩悩は尽きない…、だからからこそこれを断つことを願い、誓うという訳です。煩悩に限りはありません。問題は、煩悩を持ちながらそれをいかに正しい方向に向けてコントロールしていくかだと思います。
 仏教(とりわけ「禅」)は、人間には誰でも、その制御機能がもともと具わっていると強調します。制御機能ということを具体的に言うなら、自分の心の中に深く沈降している「仏心」あるいは「仏性」に気づき、それに沿って行動していくことだと思います。
 冒頭の「二人のイリーサ」に話を戻します。物語の最後の部分には、蔵の宝物を町の人に与えた後のイリーサの心情が、「気持ちが『すーっ』と楽になって、心が温かくなるのでした」と描かれています。
 これこそ、まさに無文老師の言う「宗教心」の芽生えと言えるものなのでしょう。イリーサは、自分自身の中にある「宗教心」、いえ「仏心」、「仏性」に気づいたのです。欲望を恣にした末にたどりつた安楽と言えるのではないでしょうか。この場合も「煩悩即菩提」と言えます。
 繰り返しになりますが、結局「禅女離魂」の話と同じように、イリーサは一人なのだということだと思います。「禅」の思想に二元論はありません。
 最後に、再び山田無文老師の言葉を引用して、今回のブログの締めとしたいと思います。『六祖壇経』についての講義の中にある言葉です。
  善人も悪人も、賢い人も愚かな人も、人間も動物も、その本性は同じ仏の仏性に帰する。…凡夫と仏は同じものである。迷うときにはこれを凡夫と名付け、悟るときにはこれを仏と名付ける。そこに仏教の本質がある。
〆)
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2018
03.18

「蜘蛛の糸」を考える ①/③

Category: 未分類
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   友人たちと定期的に集まる会合で、あるテーマについて論議しているとき、「性善説」をとるか「性悪説」をとるかが話題になりました。
 これまでも述べてきたように、仏教は「性善説」の立場をとります。「性善説」というのは、ある条件の下での善の存在を説くものではありません。誰もが例外なく、生まれながらにして善心を宿しているという考え方です。
 “経中の王”とされる『法華経(ほけきょう)』の中には「諸法実相(しょほうじつそう)」という言葉がありますが、これはあらゆる存在も現象も、それを生み出す根源は仏にあり、全てのものに仏性が宿っているという思想です。また、繰り返し紹介しているように、白隠禅師は『座禅和讃』の中で「衆生本来仏(しゅじょうほんらいほとけ)なり」と詠っています。それに、そもそも仏教の宗祖釈迦が悟りを開いたときに発した言葉は「山川国土悉皆成仏(さんせんこくどしつかいじょうぶつ)」だったと伝わります。ちなみに、今回は「仏」、「仏性」と「善」は、同意のものと受け止めてください。また、蛇足ですが、私は「性善説」に惹かれる一人です。
 そんな折、芥川龍之介の名作「蜘蛛の糸」という話を思い出しました。そのあらすじをから確認したいと思います(ウィキペディアの記事より)。
 釈迦はある日の朝、極楽を散歩中に蓮池を通して下の地獄を覗き見た。罪人どもが苦しんでいる中にカンダタ(犍陀多)という男を見つけた。カンダタは殺人や放火もした泥棒であったが、過去に一度だけ善行を成したことがあった。それは林で小さな蜘蛛を踏み殺しかけて止め、命を助けたことだ。それを思い出した釈迦は、彼を地獄から救い出してやろうと、一本の蜘蛛の糸をカンダタめがけて下ろした。
 暗い地獄で天から垂れて来た蜘蛛の糸を見たカンダタは「この糸を登れば地獄から出られる」と考え、糸につかまって昇り始めた。ところが途中で疲れてふと下を見下ろすと、数多の罪人達が自分の下から続いてくる。このままでは重みで糸が切れてしまうと思ったカンダタは、下に向かって
 「この糸は俺のものだ。下りろ。」
と喚いた。すると蜘蛛の糸がカンダタの真上の部分で切れ、カンダタは再び地獄の底に堕ちてしまった。
 無慈悲に自分だけ助かろうとし、結局元の地獄へ堕ちてしまったカンダタを浅ましく思ったのか、それを見ていた釈迦は悲しそうな顔をして蓮池から立ち去った。

 「性善説」が「性悪説」に敗北した話と読むこともできるかと思われますが、私の見解は少し違います。以下、思うところを述べてみたいと思います。(以下、②/③につづう)
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2018
03.22

「蜘蛛の糸」を考える ②/③

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 カンダタは、一匹の小さな蜘蛛に出会ったとき、一度は踏み殺そうとします。しかし、次のように思い返してそれを止めます。原文で紹介します。


 「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗(むやみ)にとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」


 一匹の蜘蛛の命を助けたところで、他者から称えられるわけでもなければ、褒められるわけでもありません。何の見返りもありません。しかし、カンダタは蜘蛛の命を助けました。釈迦がカンダタを救うためにクモの糸を差し伸べたのは、その内に宿る善心を垣間見たからだと思います。
 このとき、極悪人であったカンダタに芽生えた善心は、「仏心」とも呼べるものだと思います。「慈悲心」と言ってもいいでしょう。自らの命と蜘蛛の命とを同等のものと見なしたのだ思います。カンダタも、常にこのような心を持って行動していれば、地獄に落ちることはなかったはずです。
 この場面を「性善説」に沿って解釈するなら、彼が蜘蛛に対して示した心情は、ふだん悪心に覆い隠されていた善心(仏心)が顕わになったものと言えるのではないでしょうか。そのとき、カンダタの内には、悪心の源となる煩悩(我欲・我執)は消えていたのだと思います。極端かも知れませんが、その時点でカンダタは仏になっていたのだと思います。

  ところがカンダタは、蜘蛛の糸に掴まり、眼下に大勢の罪人の姿を見たとき、次のように喚(わめ)きます。


 「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだぞ。お前たちは一体誰に尋(き)いてのぼって来た。下りろ。下りろ。」


 蜘蛛に示したカンダタの善心(仏心)は、儚くも悪心によって遮られてしまったわけです。それは瞋恚(しんい)の炎でした。

 相対差別の世界にいる私たちは、いつも善心だけで生きられるわけではありません。ときには悪心が湧き上がることもあります。貪り、憎しみ、怒り、怨み、嫉みなどの感情がそれです。そして、それを行動に移せば、犯罪にもなるでしょう。
 しかし、ここで大切なことは、いくら瞋恚の炎が燃え上がったとしても、善心(仏心)が消滅したのではないということです。どのような状況下でも、善心(仏心)は存在しているというのが「性善説」の主張です。(以下、③/③につづく)

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2018
03.26

「蜘蛛の糸」を考える ③/③

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 カンダタが再び地獄の底に落ちていく場面の後には、次のような一文があります。
 御釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがて犍陀多が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。
 釈迦の悲しそうな顔というのは、何を意味するのでしょうか。それは、自らの内に善心(仏心)を宿しながら、そのことに気づけないカンダタに対する失意の表情であったかも知れません。あるいは、絶対的な救済者として、自らの力が及ばなかったことへの無念の表情だったのかも知れません。
 ただ、これは決して「性善説」の敗北を意味するものではないと思います。悪心は様々な条件により明滅しますが、善心(仏心)は不変です
 一匹の小さな命に出会うことで「自他一如」に目覚め、「慈悲心」を発露したカンダタが、眼下に大勢の罪人たちを目にしたとき豹変したのは、なぜだったのでしょう?以下、私見を述べてみたいと思います。
 現代は正にペットブームです。平成27年度の統計によると、犬、猫の飼育頭数は、それぞれ1,000万匹に迫るようです。鳥や魚もペットの定番ですが、中には昆虫や爬虫類を飼育している人もあります。
 生き物たちは、決して嘘をつきません。また裏切ることもありません。ただそこにいるだけで、飼い主の心を癒やし、温めてくれます。その意味では、彼らは常に善心(仏心)を生きているとも言えます。
 我が家でも猫を飼っていますが、私などはその姿を見るだけで、心がほっこりとし、穏やかな気持ちになります。これは、私たちが彼らの内に善心(仏心)を感じるからではないでしょうか。彼らの命が、私たちの命と深いところで響き合っているのかも知れません。思えば、カンダタの善心(仏心)も、一匹の小さな命と出会うことで表出したものです。
 こんなふうに考えると、私たちが善心(仏心)を涵養するには“仏道の先達”とも言うべき動物たちとの時間を共有することも一つの方法ではないかとも思えてきます。                                        
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 私たちが名作「蜘蛛の糸」から知らされること、それは望ましい人間関係を結ぶことの難しさではないかと思います。憎しみ、怒り、怨み、嫉みなどの感情は、相対世界にあって尽きることがありません。私たちは、よほど用心していないと、本来の善心(仏心)が悪心によって覆われてしまう恐れがあるということです。そのためには、常に悪心を振り払う努力をし続けなければならないのだと思います。
 蜘蛛の糸が切れた原因は、カンダタ自身の心の在り方にあったことは自明です。カンダタが、途中で癇癪を起こすことなく、ひたすら糸をよじ登ることに専念していたら、おそらくは地獄から脱出できたことでしょう。
 名作「蜘蛛の糸」は、いついかなるに時も、忘我・無我の境地で「即今只今(そっこんただいま)」を懸命に生きることの大切さを説いているのではないでしょうか。そして、そのとき善心(仏心)は顕わになり、“自他を救済する力”となって最高の働きをするということではないでしょうか。
 勝手な解釈かも知れませんが、今はこんな受け止め方をしています。読者からのご意見をお待ちしています。(〆)

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2018
03.30

ぎゃらりー64

Category: 未分類
◎これまで掲載した水をテーマにした写真をギャラリー64」としてまとめました。 

 
水は百面相 どれも水の顔には違いない 
 しかし どれも本当の顔ではない 
 心も同じこと
 
今回の写真は、1~5が豊田市の「阿知波池」、6~7が岡崎市の「岡崎市美術博物館」、8が春日井市の「落合公園」で撮影したものです。

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次回は「鈴木大拙の思想」を掲載(4回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。

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