2018
01.01

両手を合わせる ①/①

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新年、明けましておめでとうございます。
 つたない内容ではありますが、今年も、本ブログをどうぞよろしくお願いいたします。 

 昨年末にNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」が終了しましたが、その中で重要な舞台の一つになったのが龍潭寺(浜松市引佐町)でした。ご存じの方も多いと思いますが、龍譚寺は井伊家が浜松に在していた当時の菩提寺としてもよく知られる古刹です(井伊家は、関ヶ原の合戦の後、彦根に藩替えになりました。したがって、彦根にも龍譚寺があります)。また、小堀遠州が手がけた庭園でも有名な禅寺(臨済宗妙心寺派)です
 さて、その龍譚寺ですが、以前、訪問したとき、玄関の壁面に掲げられていた詩に目が止まりました。お寺の方に写真撮影の可否を問い合わせたところ、「どうぞ…」という答えとともに、その詩をプリントアウトしたものを手渡してくださいました。たいへん親切な対応に、感激すると同時に、不謹慎ながら、お寺への好感度も一気に上がりました。
 その詩は、仏教詩人、坂村真民のものでした。
  両手を合わせる/両手でにぎる
  両手で支える/両手で受ける
  両手の愛/両手の情け
  両手を合わしたら/喧嘩もできまい
  両手に持ったら/壊れもしまい

  一切衆生を/両手に抱け    ※本文では改行されています。
 本ブログでよく登場する禅語「自他一如」には、「わたし」と「あなた」は本来一つのものという意味があります。禅は、エゴ(我欲)の色に着色され、歪められたレンズを取り払って外部の世界を見つれば、そのことはすぐに分かると主張します。 
 しかし、以前にも述べたように、現実には、私たちは、相対差別、比較分別の世界の中にあります。動物や植物など、いわゆる無情のものたちの力を借りなければ、「命」を保つことはできません。また、たくさんの人の力を抜きにして、日々の「暮らし」はありません。
 したがって、「両手を合わせる」ことは、私たちの毎日が大きな矛盾を抱えていることへの自覚、そして多くの人やものたちに支えられていることへの感謝を、姿として表すものだと受け止めることができると思います。
 「両手を合わせる」ことこそは、日本文化の代表格の一つだと言ってよいと思います。初詣には「両手を合わせる」機会が多くなります。その姿と意味を、私たち大人から、未来の主人公である子どもたちへ、ぜひ伝えていきたいと思っている一人です。 (〆)
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2018
01.05

「苦」にしない生き方 ①/③

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 釈迦が説いた真理の一つに「一切皆苦(いっさいかいくがあります。人生は「苦」で成り立っているという仏教特有の世界観を表現したものです。この世の一切の現象や存在に実体はなく、作られたものは滅び、生まれたものは死ぬという運命にあります。ところが、私たちは実体のないものをあるように錯覚し、変滅するものを永遠にあるように勘違いしているために、苦しみ、悩むことになるということです。
 仏教の開祖である釈迦は、シャーキ族の皇太子という恵まれた環境に生まれ育ちました。しかし、幼い頃から人生の「苦」を見つめてきたと伝えられています。「苦」こそは、釈迦自身の求道の原点となるテーマだったわけです。
 「苦」といえば「四苦八苦(しくはっく」を思い出される読者も多いことでしょう。以前、本ブログでも紹介しましたが、仏教では、大きな四つの苦しみとこれとは別の四つの苦しみがあると説かれます。大きな四つの苦しみとは、「生老病死」です。
 」…生まれる苦しみ
 「」…老いる苦しみ
 「」…病む苦しみ
 「」…死ぬという苦しみ
 次に、これとは別の四つの苦しみです。
 愛別離苦(あいべつりく)」
      …
愛するものと別れなければならない苦しみ
 「怨憎会苦(おんぞうえく)」
      …
憎いと思う者と出会わなければならない苦しみ
 「求不得苦(ぐふとっく)」
      …
欲しいものが手に入らないという苦しみ
 「
五蘊成苦(ごうんじょうく)」
      …
生を受けていることそのものの苦しみ 

 前の四つの苦しみと後の四つの苦しみと合わせて、「四苦八苦」といいいます。仏教特有の面白い数え方です。
 このような偏ったものの見方、考え方をするから、仏教には暗いイメージが付きまとう、との見方もあるかと思いますが、そうかと言って看過できないのがこの教義ではあります。

 ところが、先日、宗教に関するあるテレビ番組(NHK Eテレ「心の時代」)を視聴していて、思いがけないところにも「苦」があることに気づかされました。次のような内容でした。
 朝、こちらが機嫌よくあいさつをしても、相手から返事が返ってこないことがある…。そんなときは不快になる…。しかし、それは相手のせいかというとそうではない…。それは、きっかけではあるが、原因ではない…。原因は自分自身の方にある…。そして、その原因は、自分の煩悩にある…。
以下②/③につづく)
 
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2018
01.09

「苦」にしない生き方 ②/③

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 仏教では、欲望の根源として「貪・瞋・痴」の三種類の煩悩があるとされます。この話は、さしずめ「瞋」、つまり“怒りの心”に当たるものでしょうか、それとも「痴」、つまり“愚かな心”に当たるものでしょうか?
 いずれにしても、この話を聴きながら、身につまされるところがありました。私にも、これに似たような体験があるからです。
 車の運転中、信号待ちや渋滞などで停車しているとき、駐車場や狭い道などから車が進入してくることがあります。そんなとき、その車のためにスペースを空けることがあるのですが、多くの場合、相手の車から謝意を伝えるサイン(以下、サインとします)があります。ハザードランプの点滅がそれです。もちろん、立場が逆の場合には、私もそうするように努めています。
 ところが、ときどきサインをしない車に出会うことがあります。恥ずかしいことなのですが、そんなとき不快な気分になることがあるのです。
「せっかく進入スペースつくったのに、サインも出さないとは無礼な車だなァ…」
子どもじみているのですが、これがそんなときの心境です。
 しかし、あいさつの話を聴きながら、これも煩悩のなせる愚行なのだということに気づかされました。

 ところで、釈迦の説いた最も基本的な真理の一つに「四諦(したいがあります。冒頭でも記したように、「苦」の究明こそは、釈迦自身の求道の原点となるテーマでした。「一切皆苦」の世の中にあって、いかにして苦しみを和らげ、遠ざけていくか。この大問題に対して釈迦がたどり着き、解き明かした結論が「四諦」でした。ちなみに、迦が悟りを開いた後、最初に行った説法も「四諦」についてであったと伝えられています。
 「四諦」というのは「苦・集・滅・道」の四つの真理のことで、苦諦(くたい)、集諦(じったい)、滅諦(めったい)、道諦(どうたい)と呼ばれます。それぞれの真理は次のように説明されています。


 苦諦…この世は苦に満たされているという真理
 集諦…この世が苦である原因は、人間の執着心にあるという真理
 滅諦…執着心を断ち切ることで苦は滅するという真理
 道諦…執着心を断ち切るための方法があるという真理


 「道諦」では、執着心を断ち切るための方法があると説かれています。それはどのようなことなのでしょうか。以下は、いつものように私見です。(以下③/③につづく)

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2018
01.13

「苦」にしない生き方 ③/③

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 釈迦が述べたように、人生は、さまざまな苦しみに満ちています。冒頭では、「四苦八苦」を例に挙げましたが、これら人間としての本源的な苦しみの他にも、あいさつの話や車のサインの例のように、私たちが「苦」を感じる場面はいくらでもあります。
 煩悩というのは、自分の都合を最優先させた究極の私的な欲求だと言えます。そして、それが叶わないところに「苦」が生じます。その意味では、煩悩の裏返しが「苦」とも言えます。煩悩は無尽です。私たちの「苦」は、尽きることのない煩悩の数と同数にあると言ってもいいのだと思います。
 そこで、執着心を断ち切るための方法です。先にも述べたように、煩悩と「苦」は、表裏一体にあるものです。人生が「苦」に満ちているのは、私たちの心の中に無数の私的な要求が渦巻いているからに他なりません。つまりは、「苦」の種は自らの心の内にあり、そこに外的な要因は存在しないということです。あいさつの話や車のサインの例で言うなら、決して、原因を相手に求めてはならないということでしょう。
 結局、執着心を断つということは、自分ではどうすることもできない事柄を、自分の都合に合わせて変えようとすることをやめということではないでしょうか。私たちは「四苦八苦」から逃れることはできません。また、あいさつや車のサインをしない相手の心を変えることもできません。執着心を断つということは、自分ではどうするこもできない事柄はそのまま放っておくということではないかと思うのです。
 車のサインのように相手がある場合、仮に不満をぶつけるような言動に出たとしたら、間違いなくそこは修羅場になることでしょう。さしずめ次のようなシーンが繰り広げられるのではないでしょうか。
 「あなたのその態度は何だ?わたしが厚意でしたことに対して、お礼もしないとは失礼ではないか?その態度を改めなさい!」
 「それは言いがかりだ。あなたが勝手にしたことに対して、なぜお礼など言わなければならないのか?私には関係ないことだ。」
 「その言葉は聞き捨てならない!外に出なさい!」
 「よろしい、望むところだ!」
 こんなやりとりが高じれば、暴力沙汰になる場合もあるかも知れません。そうすれば、ますます「苦」は増大していきます。「苦」の種は、もともと自分自身の内にあるのですから、その中で処理しなければ「苦」は和らぐことも遠ざけることも、まして滅することもできないということでしょう。
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 いずれにしても、“自分の勝手や都合だけではどうにもならないことがある”そして、“すべては時間が解決してくれる”ということを心底から納得することではないかと思うのです。「一切皆苦」とともに釈迦が説いた真理に「諸法無我(無限の関係性)」と「諸行無常(永遠の変転性)」がありますが、この二つの真理から導き出される真実について高度な認識さえあれば、執着心を断ち切ることができ、「苦」を克服できるということなのでしょう。
                  
  ただ、私のような凡人には、それが難しいのです。理屈では分かっていても、実践となると甚だ心許ないのが実態です。運転中に進入路を譲ったとき、相手の車のハザードランプ(ストップランプ)を意図的に見ないようにすることだけはするまいと思うのですが、こんなレベルだから、いつまで経っても「苦」から逃れられないのだと思います。情けないことです。(〆)

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次回は「清々しい顔 R」を掲載(3回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。

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2018
01.25

清々しい顔 R ①/③

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 今回は、いつもの仏教説話から、動物と人間との交流を描いたお話を紹介します。


 狩人は、泉の近くの雑木林に網を張って、獲物がかかるのを待っていました。しばらくすると、一頭の鹿が草原の中から姿を現しました。そして、ゆっくり泉に近づいた瞬間、網がくるむように、鹿の体にからみつきました。
 「しめた、かかったぞ!」
 狩人は、鹿のもとに駆け出しました。鹿は、悲しそうな声を上げ、もがいていました。
 「もう諦めるんだな。その網からは、決して逃げられない。」
 狩人がそう言うと、鹿は急にもがくのを止めました。そして、頭を下げて言いました。
 「わたしは、もうどうなっても構いません。ただ、わたしには生まれたばかりの二匹の子どもがいます。まだ目もよく見えず、えさも探せません。わたしがいなくなれば死んでしまいます。どうか7日間だけ、わたしを子どもの元に帰してください。自分で生きていけるように教えて、必ずここへ戻ってきます。」
 狩人は、迷いました。急に、けさ家を出るとき、身重な妻が言った言葉を思い出したからです。それは、次のようなものでした。
 「もうすぐ、私たちの赤ちゃんが産まれます。しばらくの間は、生き物の命を取るのは止めてくれませんか。」
 狩人はしばらく考えていました。そして言いました。
  「よし、おまえの言葉を信じよう。逃がしてやるから子鹿のもとへ帰るがいい。」 そう言うと絡まった網をほどいてやりました。
 鹿は、喜んで雑木林の奥に走っていきました。
 
 それから7日経った昼過ぎ、狩人は、約束した泉のほとりにやってきました。やがて、草を踏む音とともに、あのときの母鹿が姿を現しました。後ろからは、可愛い二匹の子鹿も出てきました。
 「ついてきては、だめ!帰りなさい!」
 母鹿が、厳しい声で言いました。でも子鹿は母鹿にまとわりついて離れません。  それを見た狩人は、急に鹿に向かってこう怒鳴りました。
 「おまえとの約束など、忘れた。さっさとわしの目の前から消え失せろ。」…「早く逃げないか!…逃げろと言ったら逃げろ!」
 鹿の親子は、何がなんだかわからないまま、雑木林の中を逃げ帰っていきました。じつは、狩人には、三日前、元気のよい男の赤ちゃんが生まれたのです。狩人には、自分の赤ちゃんと2匹の子鹿が、別の命のように思えなくなっていたのです。
 狩人は、鹿の親子を見送ると、空に向かって大きく伸びをし、清々しい顔をして、家に帰っていきました。
(以下②/③につづく)



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2018
01.29

清々しい顔 R ②/③

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 人間の命、動物の命、植物の命、魚の命、虫の命、そして微生物の命など、様々な生き物には命があります。命があるという点では、すべては平等です。それぞれが、懸命に生きています。
 チベット仏教の指導者、ダライ・ラマ14世が述べた「命あるものは、人間だけでなく、小さな虫けらに至るまで、苦しみから逃れ、幸せを得たいと望んでいる」という言葉に心を揺さぶられます。
 しかし、いつも言うように、人間は、他者から命をいただかなければ、生き長らえることはことはできません。物語の中で、狩人は、鹿の親子を逃がします。けれども、彼が生きていくための術は、鹿を含めた野生の動物たちを捕らえることにあります。それは、妻を養うため、また何より生まれたばかりの我が子を育てるため、避けては通れない宿命でもあります。
 狩人が物語の最後に見せた「清々しい顔」も、結局は、つかの間のことなのだと思います。時間は、その流れを止めません。狩人に課せられている現実も同じだと思います。
 この狩人がその後、どのように生きていったかは、知るよしもありません。けれども、そのことを生業にして生きていく限り、狩人は、次の日からまた、動物を追い、捕らえ続けることになるのだと思います。たいへん意地の悪い言い方だと思いますが、その意味では、このときの「清々しい顔」も、狩人が「自己矛盾」に陥っている姿と見ることも可能です。また、せっかく捕らえた獲物をみすみす逃するなど、馬鹿げているという批判もあるでしょう。
 しかし、その一方で、人間の命と鹿の命を一つのものと見た狩人に対して、尊崇の念も沸き上がってきます。狩人の心に宿ったと思われる心こそ「自他一如」の心、言葉を換えるなら「仏心」です。これが、この物語が伝えようとしている主要テーマだと思います。(以下、③/③につづく)


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