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2017
11.01

心の鏡R ④/⑦

Category: 未分類

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 動物たちのもつ意識は人間よりも遙かに微弱なものです。しかし、だからこそそのことが「幸い」であると受け止めるのが仏教の立場です。弱いから劣る、弱いからダメだというのではないのです。真逆です。弱いから優れている、弱いから素晴らしいと言います。なぜなのでしょう。
 先にも述べたように、人間は、「五官」(眼・耳・鼻・舌・身)を頼らずして対象を捉えられません、認識することもできません。好むと好まざるとにかかわらず、意識あるいはエゴ(自我、あるいは我欲・我執)の影響を受けながら、個々の認識を蓄積・拡大していきます。そして、その認識を統合したもの、つまりその集合体こそが、「私」という概念です。
 意識により認識がまとめられて「私」は作られていきます。すると、次に厄介なことが起きてきます。その「私」が「五官」に働きかけ、その好みや癖を押しつけながら情報の再収集を始めます。そのため「私」は、ますます偏り、歪み、ますます狭く、ゆとりのないものになっていきます。そして、それが相互の孤立化を生み、仲違いや争いのもとにもなります。
 「心こそ 心まどわす心なれ 心に心 心許すな」という沢庵禅師の有名な古歌もありますが、これはこのような特質をもつ「心」の危うさを詠ったものではないかと思います。
 人間にもいろいろなタイプがあり、比較的に自己主張の少ない人もいれば、穏やかで従順なタイプの人もあります。しかし、いくらそうであっても、動物たちにのそれとは、比較にならないほど、強力で、強烈であるのが人間の意識だと思います。 その意味では、動物たちの「心」の方が外界のものを映し出す能力に長けており、外界の世界の真実の姿をより正しく認識しているということになるのかも知れません。 (以下、⑤/⑦につづく)
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2017
11.05

心の鏡R ⑤/⑦

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 では、植物の場合はどうでしょう。植物にも「心」はあるでしょうか?
 ここでは、「ある」と答えたいと思います。なぜかでしょうか。
 サクラを例にしてみます。サクラは、季節が巡るたびに、芽吹き、花を開かせ、新緑の葉を輝かせ、そして紅葉させた後、その葉を落とします。この営みを、毎年、繰り返えさせるメカニズムはどのようになっているのでしょうか。
 当然のことながら、植物たちには、眼はありません。耳も、鼻も、舌もありません。しかし、「触覚(外界の変化を感じ取る力)」は、どうでしょうか。
 季節の移ろいは、気温の変化であり、それを含む風の変化によって知らされます。どの植物たちも、サクラのように、吹く風の温度の変化や風圧の変化などを感じ取り、季節の移り変わりを捉えながら、そのときどきに命を精一杯に輝かさせているはずです。その意味では、植物たちは、「触覚」を通して、常にその「心」に風の姿を映し出しているのではないでしょうか。
 では、植物に意識はあるのでしょうか。それは分かりません。「ある」かも知れないし、「ない」かも知れません。しかし、もし仮に「ある」とした場合でも、動物(まして人間)のそれと比較すれば、はるかに微弱なはずです。
 ところで、先に、意識の働きは弱い方が「幸い」であると書きました。その理由は、人間より動物たち、動物たちより植物たちの方が、外界を正確に認識する能力に長けていると思われるからです。
 ところが、このように論理を展開していくと、興味深い結論に行き着きくことになります。動物や植物よりも、さらに石や岩、土や砂など鉱物(太陽、月、星も含め)の在り方の方が「幸い」であるということです。これらのものには意識はありません。もちろん感覚もありません。そもそも「心」がありません。
 しかし、禅の世界では、そのような在り方がたいへん尊ばれます。これらのものたちが、ただ黙々と自らに与えられた役割を果たしている姿に理想を見るからです。禅寺の庭園で見られる枯山水にも、この考え方が表れているように思われます。 (以下、⑥/⑦につづく)
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2017
11.09

心の鏡R ⑥/⑦

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 先にも述べたように、仏教には「万物と我と一体」、「天地と我と同根」という固有の世界観があります。仏教、とりわけ禅では、意識が人間の世界を「自他」の二元に引き裂き、それが人間を苦しませる元凶になると説きます。対象の姿は、意識により歪められるため、実像から遊離した妄念・妄想だけが一人歩きすると見るからです。
 このため、意識の働きをできるだけ減衰させ、エゴ(我欲)をいかに抑えるかが仏教、とりわけ禅の最大眼目とされます。つまり、エゴ(我欲)をより小さくすることで「自」と「他」の壁を取り払い、一つのものとして捉えていこうとします。それは、全てのものを平等に観ていこう、また、選り好みや分け隔てなく尊重していこうとする思想でもあります。いわゆる「自他一如」という考え方です。
 禅には、「無情説法」と称して、動物や植物の生き方、あるいは山や川(水)、月などの在り方から多くを学び取ろうとする考え方があります。ここでの「無情」は、「心」をもたないものたちの総称です。この場合の「心」は、意識、あるいはエゴ(我欲)と同義と受け止めてよいかと思います。意識(エゴ)から離れてあることを「悟り」と定義するなら、これらのものたちは、すでに悟っている、故に、彼らは、そのまま(の姿)で仏であると見るのが禅の立場です。
 したがって、「無情」による「説法」を聴くといいうことは、これらのものたちの示す生き方、在り方の真実や真理から、私たちが積極的に学び取っていくことだと解釈できます。
 無情のものたちの生き様、在り様から学ぶことは、私たちのもつ「人間は万物の霊長である」という驕り(妄念・妄想)を正すことでもあると思います。そして、この事実をもとに事物・事象を眺めたとき、私たちの「心」の鏡には、今まで映らなかったものが映るようになる…、今まで歪んで映っていたものが正しく映るようになる…、こんなふうに言えるのではと思います。(以下、⑦/⑦につづく)
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2017
11.17

心の鏡R ⑦/⑦

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「自他」(わたしとあなた)は本来「一如(一つのもの)」です。エゴ(我欲)の影響を排した汚れのない「心」の鏡で外部の世界を見つめ直せば、そのことはすぐに分かるというのが禅の主張するところです。
 しかし、現実には、私たちは相対差別、比較分別の世界に生きていかなければなりません。私たちは、日々当たり前のようにして、動物(肉、魚など)や植物(野菜、果物など)、鉱物(石油、鉄など)を食料とし、あるいは様々な資材として取り入れながら生活しています。別な言い方をするなら、それらの命や価値をいただくことで、自らの命を繋いでいます。悪し様に言うならそれらを踏み台にして自らの命を保っています。
 ところが、ともするとそのことを忘れがちになるのが私たちではないでしょうか。
その意味では、常に大きな矛盾を抱えながら現実を生きているのが私たちです。
 そんな私たちにできることは何なのでしょうか?
 私は、これら無情のものたちの力を借りる(消費する、利用する、廃棄するなど)とき、心底から“両手を合わせる”ことではないかと思っています。それが、それらのものたちへの敬意を姿として表すものであることは言うまでもありませんが、同時にそれらのものと私たちとは本来は一つであるということを理性のレベルで再確認することだと受け止めています。
 「心」の鏡は、そのまま放っておくと汚れやすいものです。意識の影響を受けて、エゴ(我欲)の塵や埃で覆われてしまいます。“両手を合わせる”という行為には、意識や意識に付随するエゴ(我欲)の働きを一旦、停止させる意味があるのではないでしょうか。それが「心」の鏡を洗浄することに通じるのだと思うのです。 
 “両手を合わせる”ことは、日本文化の代表格の一つだと言ってよいと思います。また、合掌する姿は人間の最も美しい姿であるとも言われます。抹香臭いと思われるかも知れませんが、敢えてそう言いたいし、そうありたいと思っています。私も、ときあるごとに実践できるよう心がけたいと思っています。(〆)
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2017
11.19

脳だけがまとめ役か ①/④

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脳はすごい 
長年の友人が、インターネット上で定期的に公開している作詩日記に目が留まりました。
 昨日の寒気一転 / 今日はポカポカした小春日和
 庭の小菊が福々しく咲いた
 ヒトの体の仕組み /  役割を持った細胞が集まり
 五臓六腑とその働きをつくり / これらを骨格と筋肉が支えている
 さらに 血管と神経を張り巡らし 
   そこに養分や情報などを通して
 脳がまとめ役をしている
 はたして 脳だけがまとめ役なのか
 脳の受信と送信の信号は電気 / それで60兆もの細胞を
 制御し切れるだろうか / ここにも潜んでいる
 目に見えない「第二の自分」
 こんな小春日和には / つい身近に感じる
 「第二の自分」

 文中の「脳がまとめ役をしている」という言葉に接して、考えたことがありました。まとめ役をしている“脳の働き”とはいったい何かということです。偏見が過ぎるかも知れませんが、そのときの私の受け止めは、それは「煩悩」に直結するものではないかというものでした。
 「煩悩」と言えば、「貪・瞋・痴」の人間の持つ三種類の悪い癖のことですが、それが脳の働きとどう関係しているのか、以下はいつものように独りよがりな思索です。
 私たちは感覚器官を通して、外部から様々な情報を収集していますが、それらの情報を処理するの働きを持つのは脳です。脳は、個々の情報を一つ一つ意味づけながら、分類したり、統合したりしながら、認識活動を進めていきます。
 ところが、これまでも繰り返し述べてきたように、これらプロセスには、自我(エゴ)が深く関与しています。自我(エゴ)というのは、自分が一番可愛いという厄介な感情のことです。そのため、私たちは自分にとって好ましい情報は受け入れますが、好ましくない情報は避ける傾向があります。また、取り入れた情報を自分に都合のよいように解釈し、色づけをしてしまうこともあります。
 このようにして、自我(エゴ)は、取り込まれた情報によって次第に補強されていきます。補強された自我(エゴ)は、他者との差異を鮮明化し、自己主張も先鋭化するため、ときに他者との間に軋轢を生み、対立したり、排斥したりするようにもなります。これが「貪・瞋・痴」の具体的な有り様ではないでしょうか。このように脳の働きには、抜き難く「煩悩」の関与があることを私たちは忘れてはならないのだと思います。(以下、②/④につづく)
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2017
11.22

脳だけがまとめ役か ②/④

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五臓六腑
 「脳だけがまとめ役なのか」という投げかけは、まとめ役としての脳の限界に言及したものだと受け止めました。
 私たちの肉体の中にあって、脳の力が及ばない部分とは何でしょうか。脳の働きを「意識」ということに読み替えて考えてみました。
 詩の中の言葉を引用するなら、「五臓六腑とその働き」であり「骨格と筋肉」「血管と神経」のことだろうと思いますが、ここでは、便宜上、それらを代表するものとして「五臓六腑」を例にして話を進めたいと思います。
 辞書を引くと、五臓とは「心・肝・脾・肺・腎」、六腑とは「大腸・小腸・胆・胃・三焦・膀胱」とありましたが、平易に言うなら内臓のことです。言うまでもなく、これらのものはすべて、私たちの「意識」を超えて機能しています。唯一、肺だけは例外だと思われるかも知れませんが、私たちが息を止めたままで保てる時間は限られています。基本的に「意識」によってコントロールできる臓器はありません。
 では、五臓六腑の働きを制御している力とは何でしょうか?それに、そもそも脳の働きを司る力とは何でしょうか?友人が「第二の自分」と呼んでいるものです。軽々な回答を許さない大問題ですが、以下、身の程知らずな見解を述べてみたいと思います。 
 以前にも紹介したように、毎朝、我が家の仏壇の前で、10分間ほど読経をしています。開経偈に始まり『般若心経』『観音経』などを読み、『四弘誓願文』で締めくくります。
 その折、読経の前に仏壇に供える仏花の水やりも日課になっているのですが、先日、供えた仏花の束の中にユリが3本ほどありました。その内の2本はすでに開花していましたが、残りの1本は蕾の状態でした。そのとき、私はこの1本が、他の2本と同じように開花するとは思えませんでした。これらは切り花であり、切り取られる前と後では環境に大きな違いがあるはずです。この1本には、新しい環境に順応する力はないと思ったからです。
 ところが、それから3日もすると、私の予測が誤りであったことに気づかされました。蕾は見事に薄桃色の花びらとなって開き、甘い香りを漂わせたのです。その姿は、先行して開花した2本とまったく遜色のないものでした。(以下、③/④につづく)

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2017
11.27

脳だけがまとめ役か ③/④

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 そのとき浮かんだのは、ユリのを開花させる力が、どこに由来しているかという子供じみた疑問でした。ユリは、仏花として生けられたものです。その環境が、ユリにとって最適な状態にあるとはとても思えません。固い蕾のまま枯れてしまったとしても、それまでのことです。ところが、見事に開花したのです。
 自然の中でユリの花が開花することに何の不思議もありません。そこには、光、水、温度など開花に必要な条件はすべて整っているはずです。栽培されたものなら適度な肥料も提供されていたはずです。ところが、仏壇の花立てにはそれらがありません。ユリに具わる固有の力は、何に由来するのか、改めて考えてみるとたいへん不思議なことです。
 そのとき私の脳裏に浮かんだのは次のような発想でした。それは、光、水、気温、肥料などとは別に存在する壮大な力ではないか…、私たちが認知や認識も理解もできないような絶対的な力ではないか…。
 そして、こんな感慨に浸っていると、その力は、私たちの五臓六腑を制御している力と同一のものではないかとの思いが頭を過ぎりました。友人の言葉を借りるなら「ここにも潜んでいる 目に見えない」もの、いわゆる“サムシンググレート[something great]“に源を持つ力です。

 ところで、このような私たちの「意識」を遙かに超えたところにある力を、何と呼んだらいいのでしょうか?言葉にも文字にもできないようなものに名前など付けようがないし、そもそも名前を付けることに意味があるのかとの声もあろうかと思います。しかし、古人は、敢えてそれを試み、そのことの意味を掘り下げ、味わおうとしたのではないでしょうか。
 誠に勝手な推測ではありますが、仏教にあっては、それを「仏」と呼び、信仰の対象として位置づけたのではないかと思います。またぞろ抹香臭い話が始まるのかと思われるかも知れませんが、しばらくお付き合いいただければ幸いです。(以下、④/④につづく)

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2017
11.29

脳だけがまとめ役か ④/④

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 仏教には「一切衆生 悉有仏性」という言葉があります。生きとし生けるものは全てが「仏」であるという意味です。『涅槃経』で説かれる根本思想で、釈迦が悟りを開いたときに発した言葉「山川国土悉皆成仏」にその起源を持つ思想とされる、仏教固有の壮大な世界観です。
 五臓六腑を働かせる力もユリを開花させる力も、人知の遠く及ばぬ絶対的な力によるものです。言うまでもなく、私たち人間もユリも、生きとし生けるものの一部です。「一切衆生 悉有仏性」という世界観に立つなら、生きとし生けるものを生みだし、成り立たせている力を「仏の力」と呼んでも、何の齟齬もないのだと思います。
 友人は詩の中で「第二の自分」としていますが、これが仏教思想における「仏」という概念と同じ範疇にあるもであることは明白です。“煩悩の炎”に身を焦がし、日々右往左往している自分を「第一の自分」とするなら、「第二の自分」は、“宇宙大の大きさを持つ自分”と言えるかも知れません。
 水や空気、鉱物など無機物を現成させるのもこの力によるものです。138億年前に起こったとされるビッグバンも、その後の宇宙の生成・進化も、同じ力によって引き起こされたものと考えてよいと思います。
 その意味では、今、私たちの五臓六腑、そして骨格筋肉、血管や神経を働かせる力も、宇宙を生み出し、成り立たせている力も、同じものであることになります。誤解を恐れずに言うなら、私たちは宇宙の「申し子」であり、「仏」の分身であるということです。
 ところで、このように考えを巡らせることにどのような意味があるのでしょうか?
 単純で小心な私などは、今、自分の中に、宇宙の営みに連なる力が働いているなどと考えると、言い難い心強さ、頼もしさを感じてしまいます。しかも、その力は、脳にミスリードされ「貪・瞋・痴」の真っ只中にあるときでも、私たちの身体の中で確かに働いています。その力に想いを馳せることで、私たちは「我に還る」チャンスを与えられるようにも思えるのです。
 私見ですが、結局、「仏」にしても“サムシンググレート“にしても、私たちにとって、人知の遠く及ばぬものが存在しているということが大きな意味を持つのでないでしょうか。そして、その力に想いを致すことで、私たちは謙虚になれるし、その一点で誰もが共通の感情を分かち合えるような気がするのです。
 それにしても、言葉を吟味し、巧みな表現で端的に想いを綴る友人の才能にはいつも感心させられます。常々、私もこうありたいとは思っているのですが、長々と文章を書き連ねる癖は、なかなか改めることができません。これからも、これでいくことになるのだろうと思います。(〆)

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