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2017
10.04

『菜根譚』に触れる ③/④

Category: 未分類
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次は、多川氏から紹介されたもう一つの話です。
 人の小過(しょうか)を責(せ)めず 
 人の陰私(いんし)を発(あば)かず 
 人の旧悪(きゅうあく)を念(おも)わず
 三者(さんしゃ)をもって徳(とく)を養(やしな)うべく 
 また以(もっ)て害(がい)に遠(とお)ざかるべし  
[前書105]   
        
  その意味は、概ね次のようになります。
 他人のちょっとした間違いを責めたりしない…。人が隠しておきたいことはそっとしておく…。人の過去における間違いをいつまでも記憶しておかない…。この三つのことを日常的に実行していけば、徳が養われ、人に恨まれたり疎まれたりすることはない…。
 前段の三つの警句は極めて仏教的ですが、後段の「人に恨まれたり、疎まれたりすることはない」という件はいかにも現実的で、実利的な感じも受けます。これは儒教の影響によるものでしょうか。
 この文章に触れ、仏教で説かれる「十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)」を思い出しました。仏教徒の守るべきとされる十項目の禁止事項のことです。十項目の内の五つがいわゆる「五戒」です(不殺生(ふせっしょう)戒、不妄語(ふもうご)戒、不偸盗(ふちゅうとう)戒、不邪淫(ふじゃいん)戒、不飲酒(ふおんじゅ)戒)。私たちが比較的よく見聞きする戒律かと思います。
 そして、後の五つの中に「不説四衆過罪(ふせつししゅうかざい)戒」と「不自讃毀他(ふじさんきた)戒」という戒律があります(他に不慳(ふけん)戒、不瞋(ふしん)戒、不謗三宝(ふぼうさんぽう)戒)。
 要約すると次のようになります。
 「不説四衆過罪戒」…他人の過ちや罪を話し散らしてはならない。
 「不自讃毀他戒」…己を褒め、人を貶めてはならない。
 [前書105]は、この二つの戒に見事に重なります。著者が仏教思想に通じていたことをよく示すものだと思います。
 この番組の視聴後、遅ればせながら、改めて手元にあった加藤咄堂著「菜根譚を読む」を読み返してみました。全部で18の話が取り上げられていましたが、一つ一つの話が実に示唆に富むものであり、感銘を受けました。また『菜根譚』と仏教思想との深い関連性が感じられ、より親近感を覚えるところとなりました。
 最後に、この本の中から私が心に残った1話を紹介したいと思います。(以下、④/④につづく)
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2017
10.08

『菜根譚』に触れる ④/④

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 最後にこの本の中から私が心に残った1話を紹介したいと思います。


歳月(さいげつ)もと長(なが)くして忙(いそが)しき者 
自(みずか)ら促(せま)る。
天地(てんち)もと寬(ひろ)うして鄙(いや)しき者 
自らを隘(せま)くす
風花雪月(ふうかせつげつ)もと閒(かん)にして労攘者(ろうじょうしゃ)
自ら冗(むだ)にす                      
[後書4] 


 加藤氏の解説に頼りながら要約をします。年月は太陽や地球、月などの運行に関連づけられて計られますが、時間は、その太陽も地球も月も未だなかった昔から、またこれらがなくなったとしてもどこまでも続いてきます。時間は、この世界のできる前からあり、また、この世界が潰れてもあります。
 ところがこの永い永い時間の中で五十年か八十年か、せいぜい百年生きるに過ぎないのが私たち人間です。「石火光中(せっかこうちゅう)」という言葉があるそうですが、永遠の時間の中では、石と石とを打ち合わせたとき発する火の光の如く、束の間に消えてしまうのが私たちの命です。
 前段に「自ら促る」という表現がありますが、これはあくせくとこせつき回る様子を表すもので、永遠の時間の中でこせこせと忙しそうに騒ぎ回るのは、人生を自ら短くしているようなものだというわけです。
 また、時間が永遠であるように空間も無限です。大宇宙の中では、私たちの住んでいる世界など実に小さいものです。宇宙から地球を眺めるなら、狭い地上に境を作り、領域を定めて相争い、あまつさえ同じ領域の内でも、やれやイデオロギーだ、やれ党派だ、やれ宗教・宗派だなどといって優劣を競い、勝ち負けを論じ合っているのが私たちです。それが自ら世間を狭く、小さくしているということです。
 では、人生の時間を長く、また世間を広くする生き方とはいったいどのようなことなのでしょうか。逆説的な表現ではありますが、後段にヒントがあります。
 風や花、月、雪などは、常にゆったりとして動じません。したがって、それを静かに眺め、楽しむことができれば、私たちの心は安らぎ、豊かになって、本来の姿に回帰できるということです。反対に、いつも心が落ち着かず、せわしく駆け回っていると、せっかく自然の恩寵を無駄にしているばかりか、その生活を自ら煩わしいものにしてしまうということでしょう。
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    今さら言うまでもないことですが、人間は自然の中に生かされている存在です。ところが人間は、利便性や快適性の追求するあまり自然の姿を都合よく変更させ、自らを自然から遠ざけるに方向に歩みを進めてきました。[後書4]は、その現実を憂い、忙しく狭い生き方をしている人間に自省を求める一方、自然と同化し「自他一如」の境地の生きていくことの大切さを説いているのだと思います。

 『菜根譚』に収められた話の内、私が今回触れたのはその1割にも満たないものです。しかし、「菜根譚を読む」の著者である加藤氏は、著書の冒頭で「徒(いたずら)に外に求めず、これを内に求め、まず心を養ってこの心地の沈迷を救い、この性天(生まれつきの性質)の澄(す)徹(る)(澄んで透き通っていること)を期するのは菜根譚全体にわたっての教訓なのです」と述べられており、大いに共感するところがありました。
 『菜根譚』は、堅苦しい教訓を頑固に説いたものではありません。世相や人情に通じた、ある意味では実利的な教えも含まれています。これを機に、『菜根譚』の他の話についても少しずつ触れていけたらと思っているところです。(〆)

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2017
10.20

心の鏡R ①/⑦

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 「鏡を見たことはありますか?」…。こんなことを聞かれれば、だれもが「ある」と答えることでしょう。では、「鏡に姿がありますか?」と聞かれたら、何と答えるでしょうか。ある人は、その表面を指して「有る」と答えるかも知れませんし、また、ある人は裏面を指して、また、ある人は鏡の枠を指して「有る」と答えるかも知れません。
 何とも答えに窮する質問なのですが、鏡の裏面や枠を指して「有る」と答えた人は、鏡の本質をよく考えた人と言えるかも知れません。なぜなら鏡の表面は、自由自在に外界の物を写し出し、刻々と表情を変化させるからです。前に「顔」があれば「顔」を、「花」があれば「花」を、「山」があれば「山」を、「雲」があれば「雲」を映し出します。けれども、それは鏡本来の姿ではありません。映し出しているものは、全て虚像だからです
 では、鏡が何でも忠実に映し出すという性質を利用して、鏡の前にもう一枚別の鏡を置いてはどうでしょう。ところがご承知のとおり、鏡の中には絵画における遠近法の如く、無数の枠が映し出されるだけです。では、鏡に姿は「無いか?」と言えば、確かに有ります。
  禅では、よく鏡を「心」に重ね合わせて喩えます。「心」も鏡とよく似た性質をもっているというわけです。つまり、鏡と同じように、外界の対象物を何でも映し出すということです。月を見れば「心」は月を映し出し、海を見れば海を映し出し、花を見れば花を映し出す…といった具合です。
 しかし、言うまでもなく「心」にも姿がありません。したがって、見ることも、触れることもできません。もちろん、音も、匂いも、味もありません。全く、とりつく島もないものが「心」です。しかし、そうではあっても「心」は確かにあります。禅では、この辺りのことを捉えて、鏡と似ていると言っているのだと思います。
 しかし、「心」の全ての性質が鏡と同じだと言っているのではありません。「心」には、「心」がもつ固有の性質があります。以下、そのことについて述べてみたいと思います。 (以下、②/⑦につづく)

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2017
10.24

心の鏡R ②/⑦

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 一度、眼を閉じてみてください。こうすると、「心」には何も映し出されないでしょうか…?いえ、決して、そんなことはありません。眼を閉じたとしても、他の感覚器官を通して様々な情報が入ってきます。台所からカレーのいい匂いがすれば、「今晩は、カレーライスだな」と分かるし、散歩をしていて、ウメの花やキンモクセイの花の匂いがしてくれば、「ああ、ウメの花が咲いているな」「キンモクセイの花が咲いているな」と分かります。このような場面を捉え、禅では次のように言います。「その時、心はカレーやウメ、キンモクセイになっているのだ」…と。
 ずいぶん突飛なことを言っているように思われるかも知れませんが、これが禅の説く「自他一如」という考え方です(「自他不二」という言い方もあります)。「自」というのは、自分のことですが、「他」というのは、他の人を指すものではありません。自分以外の全ての事物を含むものとしての「他」です。自分と自分以外の全てのものは、根源的に一つのものであるというのが禅の基本思想です。
 では、眼を閉じた上に、鼻に鼻栓をしてみましょう。これで鼻からの情報も遮断されました。しかし、この場合でも、「心」には、外界の情報は入ってきます。言うまでもなく耳を通してです。音として捉えられる情報は、実に豊かです。ふだんは眼からの情報に頼ることが多い私たちですが、一端、眼を閉じると、身の回りには様々な音が溢れていることに気づかされます。
 禅では、むしろ音こそが尊重されます。鐘の音が聞こえてくれば、そのとき「心」は鐘になっている…、スズメやカラスの声が聞こえてくれば、「心」はスズメやカラスになっている…、波の音も、風の音もしかりというわけです。
 同様に、舌(味覚)からも、そして触覚からも情報は入ってきます。美味しいお菓子を食べているとき、私たちの「心」はお菓子になっている…、天日で干した温かい布団にくるまっているときには、「心」は布団になっている…、また、春暖の心地よい風に吹かれているときには、春風になっている…、こんな具合です。
(以下、③/⑦につづく)
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2017
10.28

心の鏡R ③/⑦

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 このように、「心」には、複数のツールを通して外界のものが映し出されます。ここまでは、鏡とよく似ています。
 ところが、「心」は、その後、映し出されたものに現実的な意味づけや価値づけなどをしていきます。 また、鏡が目の前の対象物を忠実に映し出すのに対して、「心」が映し出すものは必ずしもそうでない場合があります。ここのところは鏡と大きく異なります。

 『般若心経』では、感覚器官ことを「眼・耳・鼻・舌・身・意」と詠まれています。「六根(ろっこん)」とも呼ばれます。そして「心」は、この「六根」を通して形成されるとされます。
 ところが「六根」の中でも「意」、つまり意識の働き方には気をつけなければなりません。ここでいう意識というのは、エゴ(自我、あるいは我欲・我執)のことです。分かりやすく言えば、自己愛からくる身勝手な感情の働きです。
 「眼・耳・鼻・舌・身」の「五根」は、意識の影響を受けながら観たり、聴いたり、嗅いだり、味わったり、触れたりして、外界の世界を認識していきます。しかし、その過程で、意識から“好み”や“都合”などの形で横やりを入れられ、正常な働きを妨害されてしまいます。そのために「心」は、真実の姿を正しく映し出せないこともあります。
 このように考えると、外界からの情報をより正しく映し出す能力においては、「心」は、鏡よりも劣っていると言えるかも知れません。

 ところで、動物にも「心」はあるのでしょうか?
 これまでの論理に立てば、動物にも当然「心」があると言わざるを得ません。動物たちには、眼もあれば、鼻もあるし、耳もあります。舌もあるし皮膚感覚もあります。動物たちも、これらのツール(感覚器官)を通して、外界の対象物から情報を取り入れ、対象物を「心」に映し出しているはずです。そして、その過程では、それなりに意識の影響もあるだろうと思われます。
 とは言え、動物の意識は人間のそれに比べれば微弱なものでしょう。いえ比較すること自体が無意味なのかも知れません。それほどに人間のもつ意識は、強力であるということです。 (以下、④/⑦につづく)

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