2017
09.02

バッハの音楽は「悟り」から?④/④

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 最後に話が飛躍するのですが、もうしばらくお付き合いいただければ幸いです。文部省唱歌「虫の声」をご存じでしょうか。


 あれ松虫が 鳴いている
 ちんちろ ちんちろ ちんちろりん
 あれ鈴虫も 鳴き出した
 りんりん りんりん りいんりん
 秋の夜長を 鳴き通す
 ああおもしろい 虫のこえ

 きりきりきりきり こおろぎや
 がちゃがちゃ がちゃがちゃ くつわ虫
 あとから馬おい おいついて
 ちょんちょん ちょんちょん すいっちょん
 秋の夜長を 鳴き通す
 ああおもしろい 虫のこえ


 日本には古くから(平安時代)から、虫の声を愛でる風習があったようです。文部省唱歌「虫の声」も、そんな日本人の豊かな感性を子どもたちに伝えることを狙って作られたのではないかと想像します。
 虫の声が聞こえ始めると、否が応でも秋の訪れを感じさせます。どの虫の声(正しくは虫が発する音)も美しく純粋で愛らしいものです。私たちは、そのことに心惹かれるのだと思います。
 考えてみれば、虫たちに「私心」はありません。ただただ「無心」で鳴いています。そして、虫の声も人間にはコントロール不可能です。
 こんなふうに考えると、虫たちの声は「悟り」の声だとも思えてこないでしょうか。山田無文老師は、「花を(見ているときは)即自己と見ていく。鐘の音を(聞いているときは)即自己と聞いていく。…この天地と我が本来は一つであると見ていく体験が禅である」と述べています(「臨済録」から)。
 無文老師に倣うなら、私たちが虫の音を聞いているとき、自分が虫になって聞いていくところに「悟り」があるということです。いわゆる「自他一如」の境地です。
 余談ですが、欧米の人たちは虫の声を“雑音”として聞くと言います。虫の声を聞くときにも「私心」を遮断し、“もう一つの心”で聞かなければ、それは単なる“雑音”になってしまうということなのかも知れません。
 私たちが虫たちの「悟り」の声に耳を澄まし、その音色を愛でているとき、自我(エゴ)はその動きを止め、代わりに天地と一体となった“もう一つの心”が動き出しているのではないでしょうか。そして、そんなとき、私たちは案外、「悟り」の境地に近いところにいるのかも知れません。

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 以上、長々と勝手な意見を述べてきましたが、バッハの音楽を聴くとき、そして虫の声を聞くときの不思議な共通点について、読者はどのように思われるでしょうか。ご意見をお待ちしています。(〆)

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2017
09.06

ギャラリー59

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◎これまで掲載した水をテーマにした写真をギャラリー59」としてまとめました。 

 
水は百面相 どれも水の顔には違いない 
 しかし どれも本当の顔ではない 
 心も同じこと
 
今回の写真は、いずれも自宅で撮影したものです。1~3は手すりに付着した水滴、4~7は、ペットボトルです。
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次回は、「本当の幸せとは」を掲載(3回配信)します。ぜひご訪問ください。

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2017
09.14

本当の“幸せ”とは ①/③

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p6G1yzN8vU3j3Q2XFrYLO7CwHDbuXlLS_20170916125723b6b.jpg   [玄侑宗久氏]
 以前、テレビを視聴(NHK Eテレ100分で名著「荘子」)を視聴していて、“幸せ”という言葉の語源について知る機会がありました。僧侶であり作家でもある玄侑宗久氏による荘子の思想についての解説の中でのことでした。
 それによると“幸せ”という言葉の起源は奈良時代にあり、当時は「為合わせ」と表記されていたとのことでした。そして、この場合の主語は「天」であると補足されました。つまり、「天」の「為すこと」に人間が「合わせる」ということが“幸せ”という言葉のもとになったということです。
 「天」が「為される」ことに人間は逆らうことができません。人間は「天」の「為さる」ことには「合わせ」ることしかないわけですから、それが最も自然で無理のない在り方であり、そこに“幸せ”があるということなのでしょう。
 ところが時代が下り、室町時代になると「為合わせ」は「仕合わせ」と表記されるようになったのだそうです。そして、それとともに主語は「天」から「人」に変化したとのことでした。
 主語が変われば、当然、その意味合いも変わります。この場合には、「人」が「人のすること」に「合わせる」ことになりますから、“幸せ”は、人間相互が相手の行いに合わせて生きていくことの中にあるということになります。
 このように見てくると、「為合わせ」も「仕合わせ」も、その語源は何とも主体性のない態度の中にあるように思えます。現代を生きる私たちにとって“幸せ”とは、自らの手でつかみ取るものというのが通常の理解ではないでしょうか。
 ところが玄侑氏からは、意外な話が聞かれました。氏によれば、これこそが荘子の考える「究極の主体性」であるというのです。いったいどのようなことなのでしょうか。
 このとき、荘子独自の思想として紹介されたのが、次の詩でした。

感じて而る後に応じ(かんじてしかるのちおうじ) 
迫られて而る後に動き(せまられてしかるのちにうごき)
已むを得ずして而る後に立ち(やむをえずしてしかるのちにたち)
知と故を去りて而る後に天の理に随う(ちとこをさりてしかるのちてんのりにしたがう)
(意訳)
 自分の考えで動いたり、変化したりするのではなく、周りに迫られて止むを得ずして行動し、小賢しい知恵や意志を捨てて、天道や自然の理に随っていくことが一番よい生き方である。

 見方によっては「究極の受け身」ですが、荘子はこれを「究極の主体性」とし、最高の行動原理であるとしたのです。(以下、②/③に続く)
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2017
09.18

本当の“幸せ”とは ②/③

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 私たちは常々夢や希望を持ち、目標を掲げ、計画を立てて進んでいくことを良しとする社会に生きています。それが私たちの生きるエネルギーになっています。
 しかし、その夢や希望も目標や計画も、いつも自分が思い通りに実現するとは限りません。私なども、これまでどれだけ「已むを得ず」の状況に陥り、その都度、「まあ、いいか…。」と自分を慰めてきたか分かりません。
 ところが荘子によればそんな受け身な態度の中にこそ「究極の主体性」があり、本当の“幸せ”があるというのです。その真意をどう理解したらよいのでしょう。このことについて玄侑氏から、たいへん興味深い指摘がありました。
 「究極の主体性」とは、どんな状況にあってもそれに「任せ切れる強さ」ではないかというのです。つまり、予測もしないことに遭遇したとしても、それを受け入れ、それに任せ切って生きていける心の強さだというのです。夢や希望、目標、計画が破綻しても、それを受け入れ、それに随いながら再出発する勇気ということもできるかと思います。いわゆる「現成受容(げんじょうじゅよう)の態度のことです。
 ただ、言うまでもなく、それは私たちにとって難題中の難題です。それまで拠りどころとし、大切に守ってきた自己の否定につながるからです。理屈では理解できたとしても、現実には極めて高いハードルがあります。
 しかし、だからこそ、荘子は「やむを得ず」の状況を受け入ることの殊勝さを強調的に説いたではないでしょうか。過去の自己を全否定するなどということは、よほど強力な主体性を発揮しなければできることではありません。荘子は、それこそが「究極の主体性」であると言いたいのだと思います。


                            
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 山田無文老師(昭和に活躍した臨済宗の高僧)の『維摩経』についての講義の中に次のような言葉がありました。
 幸福というものはこちらから求めるものでなく、向こうから与えられるものだ。西洋の諺に「求めて得られたものは快楽に過ぎず、求めずして得られたものが幸福である」とある。求めなくても、他から自然に与えられた幸福をいただくようにしなければならない。
 「こちらから幸福を求めない」ということは、「私心」を封印することを意味します。自分から求めるのではなく、他から自然に与えられた状況をそのままに受け入れることが本当の幸福であるということを述べたものだと思います。
 よくよく考えてみれば、運よく夢や希望を実現できたときはまだしも、実現できなかったときの失望や落胆はたいへん身に応えるものです。そして、そんなときには夢を抱いたことや希望に胸膨らませたことへの後悔の念さえ起こります。また、それが強い自責の念となって、自らを深刻な状況に追いやる場合さえあります。
 そもそも夢や希望、目標や計画などというのは、「私心」から生まれる「究極の自己都合」です。それが実現される保障などどこにもありません。すべての事柄は無限の関係性の中で、不可思議な「縁」を得て現成していきます。
 その意味では、どのような状況にあってもそれを「已むを得ない」ものとして受け入れ、それに任せ切って生きていける「究極の主体性」を発揮できたなら、どんなにか心安らかに、そして“幸せ”に生きていけるのではないかと思います。(以下、③/③に続く)
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2017
09.22

本当の“幸せ”とは ③/③

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岩崎恭子1 [岩崎恭子選手]
 最後に、ある倫理団体の会報(「倫風」)から知った興味深い話を一つ紹介させていただきます。バルセロナ五輪で大活躍した岩崎恭子選手にまつわるものです。
 岩崎恭子選手は、バルセロナ五輪の平泳ぎで、日本代表としてレースに出場しました。このとき14歳でした。しかし、大会前には自由形の千葉すず選手に注目が集まり、彼女への期待は必ずしも高いものではありませんでした。
 ところがいざふたを開けてみると、岩崎選手の活躍は目覚ましく、世界の強豪選手を制して見事金メダルを獲得しました。しかもオリンピック新記録での優勝でした。
 ご記憶の読者も多いと思いますが、レース直後のインタビューに答えた彼女の口から飛び出したのが、「今まで生きてきた中でいちばん番幸せです」という言葉でした。
 ところが、この大会以降、岩崎選手は大きなスランプに陥りました。いくら練習しても記録が伸びず、マスコミなどからのバッシングも始まりました。窮地に追い込まれた彼女でしたが、ひたすら練習に打ち込む一方、周りの人にも支えられて次のアトランタ五輪の出場権を得ました。しかし、結果は200メートルのレースでは10位、100メートルのレースでは予選落ちとなりました。
 後日、インタビューに答えた彼女は「アトランタの結果は、私の人生の中でバルセロナの金メダルに等しいものだった」と振り返りました。ところが意地の悪い記者から、次のような質問が浴びせかけられました。「バルセロナのときとどっちが幸せですか」と。すると彼女は次のように返しました。
 「幸せに順位をつけることはできません。今はふだんの生活の中で、周りの人に恵まれて楽しく暮らしていることが幸せです」と。

 オリンピックで金メダルを獲得したときの“幸せ”周りの人に恵まれて楽しく暮らしていることの“幸せ”、岩崎選手はそのどちらも“幸せ”と言っています。しかし、その中身は明らかに異なります。無文老師の言葉を借りるなら前者は「こちらから求めたもの」であり、後者は「他から自然に与えられたもの」です。また、前者が一過性の“幸せ”であるのに対して、後者は持続する“幸せ”です。相手に合わせて生きていくことで得られる“幸せ”が、後者に当たることは言うまでもありません。
 岩崎選手は、アトランタ五輪で負けました。しかし、そのことを心の中に引きずることはありませんでした。「私心」から生じる「求める心」を封印したのだと思います。そして、代わりに今の自分が周りのたくさんの人たちに支えられ、守られて存在しているという事実に心静かに目を向け、金メダルを獲得したときの“幸せ”とは異なる“幸せ”に気づいたのだと思います。これが「究極の主体性」、つまり「任せきれる強さ」ではないでないかと思うのです。
 私もいい歳になってきました。いつ如何なるときにも「究極の主体性」を発揮できるように心の準備が整っていなければならないのですが、未だに心許ないないのが現状です。悲しいかな、私には永遠の課題だろうと思っているところです。(〆)

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2017
09.26

『菜根譚』に触れる ①/④

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 テレビの視聴(NHK Eテレ「心の時代」)を通して、『菜根譚(さいこんたん)』に触れる機会がありました。出演された多川俊英(たがわしゅんえい)氏(奈良・興福寺貫首)が同書を解説した番組の中でした。
 私事ではありますが、『菜根譚』については、10数年ほど前に、加藤咄堂(かとうとつどう)著「菜根譚を読む」を購読していたのですが、そのときはあまり共感的に受け止めることができず、一度読んだきりで本棚の片隅に追いやっていた一冊でした。恥ずかしながら、当時の私には、この書物の価値を見抜く力がなかったのだと思います。そんな経緯から今回、多川氏のお話を聞くことで、実に多くのことを学ぶことができ有意義でした。
 『菜根譚』は、今から約400年ほど前、中国の宋代に洪自誠(こうじせい)という人物が著した書物です。日本へは江戸時代の後期に刊行されたといいます。
 署名の『菜根譚』ですが、これには次のような意味があるようです。『菜根譚』の「菜」は野菜の葉、「根」は野菜の根を意味するものですが、この場合の野菜も大根や蕪など、粗末で淡泊なものが想定されているようです。ちなみに「譚」には、話という意味があるようですから、全体としては、大根や蕪などの葉や根といった粗末な食べ物に倣い、華やかさを避け、淡泊で質実な生き方をするための訓話ということになるのでしょうか。ちなみに『菜根譚』には、前編225話、後編134話、合計359話が収められているようです。
 その内容は、君子としての在り方、身の処し方を記したものとされます。しかし、君子といっても、決して高い身分の人ということではありません。古の中国では、道徳的に人間を比較するとき、君子と小人という言い方をしたようです。道徳的に値打ちの高い人が君子、つまり立派な人というわけです。
 したがって『菜根譚』は、日常生活の中で、私たちがどのような生き方をしていくことが道徳的に価値が高いかを著した書物ということができるかと思います。
 多川氏の解説の中で、私が特に興味を引かれたことがありました。それは『菜根譚』が東洋の思想を集約した聖典であるということでした。つまり、『菜根譚』は、儒教、道教、仏教の思想をベースにして編まれた書物であるということです。この点について、多川氏から次のような見解が示されました。
 ―儒教は、生きていく上で、人とのつきあいの仕方、社会の中での人間の在り方はどうあるべきかを教えたものであり、道教は、大宇宙、大自然の中で人間はどうあるべきかを教えたものである。そして、仏教は、大自然の中、大宇宙の中で社会を構成している人間の心はどうあるべきかを教えたものだが、それらのエッセンスを同時に学べるのが『菜根譚』である―。
 たいへん興味深く、明快な見識だと受け止めました。(以下、②/④につづく)
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2017
09.30

『菜根譚』に触れる ②/④

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 番組の中で4つの話が紹介されましたが、次は私が特に共感的に受け止めた話の一つです。
 悪を為(な)して人の知らんことを畏(おそ)るるは 
 悪中(あくちゅう)にもなお善路(ぜんろ)あり
 善を為して人の知らんことを急(きゅう)するは 
 善処(ぜんしょ)即(すな)ちこれ悪根(あくこん)なり         
[前書57]

 前段は、悪いことをして、他人にそれを知られたりすることは不都合なことだが、それを隠そうとすることの中に善い方向性が芽生えている-。悪いことをしたとしても、そのことを本人が自覚し、反省する気持ちさえあれば、その心の中に善に向けた芽生えがある-。概ね、こんな意味になるようです。
 一方、後段は、善いことをして、それを他人に早く知ってもらいたいと思うようなら、そこに悪への種が隠れている-。善いことをしても、これ見よがしにするような態度には、悪の根が芽ある-。こんな意味のようです。

 前段の「悪中にもなお善路あり」という言葉には救われるところがあります。山田無文老師(昭和に活躍した臨済宗の禅僧)の言葉に次のようなものがあります。「維摩経(ゆいまきょう)」の講義の中にあったものです。
  たとえ罪を犯しても、その人の本性までは汚れない。その汚れないきれいな心があればこそ「私は罪を犯した」と悩む。自分の悪が分かるということは、自分の中に仏がいるからだ。自分を厳しく裁いていく心は、神の心だ。仏の心だ。罪を犯したのは一時の出来心であり、それを裁くのが本当の自分だ。その本当の自分を自覚することが悟りである。
  無文老師の言葉を借りるなら『菜根譚』にある「悪を為して人の知らんことを畏るる」自分こそは仏であり、その心は神の心仏の心であるということです。
 一方、後段の「善処即ちこれ悪根なり」という言葉には、身につまされるところがあります。一般に私たちは善いことをすると、それを早く人に知ってもらいという気持ちが起こるものです。そして、よい評価が得られれば満足します。
 ところがいつも自分の思い通りになるわけではありません。ときには評価されなかったり、無視されることもあります。そして、そのことへの不満や怒りが元になって、逆恨みに発展するようなこともあります。それを「善処即これ悪根なり」と言っているのだと思います。「善を為して人の知らんことを急する」ような行為は、自らの器量の小ささを示すようなものであり、仏の心や神の心、さらには「悟り」の境地とは対極にあるということなのでしょう。私などには、誠に耳の痛い指摘です。
   [全書57]については、多川氏から次のような補足説明もありました。それは、「善悪の線引きははっきりとしたものとしてあるのでなく、いわば点線のようなものである」というものでした。つまり、善悪の境界はグラデーションをなしているということです。 
 悪を犯しても悔い改めれば救われ、善を実践しても謙虚に生きていく…。仏教で説かれる「懺悔(ざんげ)」と「陰徳(いんとく)」のことを述べたものだと思われます。つまりは善悪に境界はないということです。善も悪も、私たちの捉え方や受け止め方によって流動し、固定的な実体はないということだと思います。私は、仏教思想のこの柔軟性に魅力を感じるのです。(以下、③/④につづく)
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