2017
08.01

心とは何か?①/⑤

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 1 
  「21世紀は心の時代」と言われていますが、その実態に心許ないものを感じるのは私だけでしょうか。心の大切さ異論を挟む人は少ないと思いますが、ともするとそれが標榜だけに留まっているように見えるのはどうしてなのでしょう。私見ではありますが、それは心の持つ特性に由来するのではないかと思うのです。以下、その理由を述べてみたいと思います。
 「心が躍る」「心が弾む」「心が挫ける」「心が沈む」「心が洗われる」「心が通じる」「心が騒ぐ」「心が荒ぶ」など、心にかかわる慣用句を挙げれば枚挙にいとまはありません。また、「心苦しい」「心淋しい」など、わざわざ心をつけて表現する場合もあります。
 ただ、改まって「心とは何か?」と問われたら、どう答えるでしょうか?恐らくは、多くの人がその答えに窮するのではないでしょうか。コロコロ変わるからこころ(心)というとの説もあるように、とりつく島もないのが心の問題かと思います。
 『般若心経』に「受想行識」は『空』であるという文言があります。「受想行識」というのは精神活動のことです。『空』は「無」とほぼ同意ですから、『般若心経』によれば、精神活動、つまり心は「無い」ということになります。確かに、身体の中をどのように探しても、これが心だなどというものは見当たりません。
 慧可禅師(禅の法脈上で二祖とされる人物)は、達磨大師(禅の始祖)とのやり取りの中で、「心はどこにもない」と気づいたことで「悟り」を開いたとされます。また、慧能禅師(達磨から数えて六祖にあたる人物)は、「心を求めても、得ることは不可能である」と言っています。
 では、私たちがふだん心と思っているのは一体何なのでしょう?
 注目すべきことは、冒頭で挙げた「心が○○」「心が△△」という慣用句の主語がすべて「わたし」にあることです。それらは「わたし」を中心にして見たときに生まれた感情の動きです。したがって、そこには煩悩(貪・瞋・痴)が深く関与しています。私自身の実感ではありますが、日常生活の中で生起する心のほとんどは煩悩に起源を持つように思えます。その意味では、煩悩こそが心の正体と言えるのかも知れません。
 また、禅にあって「無い」とされる心ではありますが、モノや行動の中にそれが表れることがあります。例えば、手の込んだ料理を提供されたとき、それを賞味する人は作り手の心を感じるのではないでしょうか。愛しい人に心を込めてマフラーを編んだり、愛する人のために丹精込めてバラの花を育てる場合にも、受け取った側は、それらのモノに、送り主の熱い心を感じるはずです。
 また、心は言葉に表れることもあります。本ブログでよく紹介する『無財の七施』の中に「言辞施」がありますが、優しい言葉をかけられれば、その心は相手に通じると思います。優しい笑顔や柔らかい眼差しを送る「和顔施」や「眼施」もありますが、この場合にも送り主の心は相手に届くはずです。(以下、②/⑤につづく)

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2017
08.05

心とは何か?②/⑤

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2 
 では、『般若心経』が、心は「無い」と述べていることをどう理解すればよいのでしょうか。以下は、私見です。
  西村恵信氏(禅文化研究所所長・花園大学名誉教授)は、その著書『坐る』の中で次のように述べています。
 あえて言うならば、心というものは、肉体に開いている六個の窓、つまり眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの感覚器官(六根)が、色・声・香・味・触・法(六境)という対象と(出会って)「縁」を結ぶことによって起こる、一瞬一瞬の直接経験であります。
 私たちは、ときとして心が躍ったり、心が弾んだりすることがあります。また、逆に心がくじけたり、心が沈んだり、あるいは心が荒んだりすることもあります。しかし、いずれも一瞬にして起こる感情であり、時間が経てばやがては消えてしまいます。言うならば、そのときどきに生滅を繰り返す夢、幻のようなものが心です。
 『般若心経』で心が「無い」というのは、心に実体が「無い」ということを言ったものではないでしょうか。その経文の中に「無眼耳鼻舌身意」という文言もあるように、見ることも、聞くことも、嗅ぐことも、味わうことも、触れることもできないものが心の特質ではないかと思うのです。つまりは心に真の姿は「無い」ということです。私たちは、よくよくこのことを了解しておく必要があるのだろうと思うのです。
 ただ、こんなことを言うと、次のような反論があるかも知れません。先に例に挙げた料理やマフラー、バラの花には、実体があるではないか…、これらには形も、香りも、味も、肌触りもあるのだから、これこそが心の本体と言えるのではないか…と。
 しかし、よく考えなければなりません。これらのものも永遠にその姿、味、香り、肌触りなどを留めておくものではありません。時間の経過とともにその様相は変化し、いずれは消滅していきます。あらゆる有形物は、「諸行無常」という摂理から逃れることはできません。したがって、この場合にも実体と呼べるものは「無い」ことになります。これが釈迦の解き明かした冷徹な真理です。(以下、③/⑤につづく)
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2017
08.09

心とは何か?③/⑤

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4 
 ただ、そうは言っても、心を全て否定してしまったら、身も蓋もないことになってしまいます。フランスの思想家パスカルは、「人間は考える葦である」という有名な言葉を残しています。人間の尊厳の全ては、考えることの中にあり、考えることが、人間の偉大さをつくる…、こんな思想かと思います。
 心がなければ、考えることも、感じることもありません。それができないようなら、人間ではなくなるというのが、常識的な捉え方だと思います。
 結局、心は「有る」でもないが、「無い」でもない…、これが結論なのではないでしょうか。まるで禅問答のようではありますが、こうとしか言いようがないのが心なのだと思います。「心の時代」がなかなか定着しない理由の一つは、ここにあるのではないでしょうか。
 さて、唐突かもしれませんが、ここで江戸時代に活躍した二人の禅僧にまつわる興味深い逸話を紹介したいと思います。仙厓(せんがい)禅師良寛(りょうかん)禅師にまつわる逸話です。西部文浄氏の著である「禅の人」から紹介します。  
 最初に、仙厓禅師に残されている逸話です。
 仙厓禅師(以下、仙厓とします)が博多の聖福寺にいたときのことです。聖福寺の僧堂には仙厓を慕って多くの修行僧が集まっていました。
 ところがその中には、不心得な者たちがおり、夜分こっそりと塀を越えて、博多の花街へ遊びに行くことがありました。仙厓は、早くからそのことに気づいてはいましたが、自らの不徳のいたすところと恥じ、ある夜、人知れずその塀の下に行ってみました。
 するとそこには塀を乗り越えるための踏み台が置かれていました。仙厓は、僧たちの帰る時分を見計らって、その台を取りのけ、そこに坐禅して待ちました。
 そんなことは夢にも知らない僧たちは、外から塀をよじ登り、塀から内に降りようと、しきりに足で探りました。すると、生暖かい踏み台に触れました。少し妙な感じはありましたが、とにかくその上を踏んで降りました。
 降りてから驚きました。星明かりにすかしてみると、あろうことか、踏み台代わりにしたのは、何と仙厓の頭だったのです。さすがの悪僧たちも色を失い、おわびの言葉もなく、ただその場に平伏するのみでした。
「お前たち、体を大事にせにゃいかん。夜は寒いでのう。気をつけることじゃ。」 仙厓はそう言うと、そのまま自分の部屋へ帰ってしまいました。それ以後、夜遊びに出るものは一人もなくなったといいます。
 
次に良寛禅師にまつわる逸話です。(以下、④/⑤につづく)
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2017
08.13

心とは何か?④/⑤

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3 

  良寛禅師(以下、良寛とします)、晩年のことです。出雲崎にある良寛の実家を継ぐべく甥が、酒に溺れ、老いた父母の嘆きは一通りではありませんでした。何とか意見をしてくれと懇願され、良寛は久しぶりに実家を訪れました。息子もその状況をよく理解していたようで、さすがに良寛の前では真面目な態度でした。そのこともあり良寛は、ただの一言も意見がましいことを口にしませんでした。
 そして、数日後、いつまでいても同じことだからと、良寛は庵に戻ると言い出しました。親たちは内心、何のために来てもらったかと、すこぶる不満でした。しかし、良寛は一向に無頓着でした。
 庵に戻る日、良寛は玄関でわら草履を履こうとしまします。ところが、歳をとったその手先は、紐を結ぶのに不自由していました。息子はそれを見るや、土間に降り、草履の紐を結びました。と、その手にポトリ、ポトリ、小さな滴の玉が落ちてきました。息子がひょいと顔を上げてみると、良寛の目にいっぱい涙がたまり、光っているのが見えました。
「どうなされましたか?」
「いや、何でもないわい。わしもこの歳だでな。これがお前との別れになるやも知れぬ。まあ、気をつけてな。」
 息子の目にも涙が光りました。そして、遠くまで見送って家に帰ってきた息子は、それ以来、フッツリと道楽を断ったといいいます。
 これらの逸話をどのように受け止められるでしょうか?
 二人の僧侶の行為の中に、心を感じない読者はいないと推測します。言葉はありませんが、その心はそれぞれの行為の中に見事に表れていると思います。その内容についての解説は不要でしょう。そんなことをしたら、興ざめになるのがオチです。
 これまでも紹介してきたことですが、禅には「不立文字(ふりゅうもんじという言葉があります。禅の始祖とされる達磨大師が残した言葉です。仏教の真理(あるいは「禅」の真理)は、文字や言葉では説明できないものであり、文字や言葉を使って理解できるものではない…。文字や言葉を使って説明したものは真理から離れていく…。 概ね、こんな意味かと理解しています。
 これを拡大解釈するなら、本当に伝えたい心は、言葉や文字に頼らないほうがよいとも受け止められます。私たちは、伝えたことがあると、往々にして言葉が過ぎるものです。
 思い返せば、私にもそんな傾向が色濃くあります。悪い癖だと思うのですが、なかなか改められません。そもそもこのブログ自体が、その悪癖の延長線上にあるものと言えるかも知れません。私自身が、先の二つの逸話から、心の伝え方について、大いに学ばなければならないのだと思います。(以下、⑤/⑤につづく)

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2017
08.17

心とは何か?⑤/⑤

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 ところで、以下、蛇足になるかと思いますが、最後にもう一つ私見を述べたいと思います。先に、「貪・瞋・痴」に代表される煩悩の働きは、心によるものだと述べました。そして、冒頭で挙げた「心が○○」「心が△△」というのは、この煩悩の働きによるものだとも書きました。
 その意味では、これらの感情の動きというのは、心の持つ負の側面ではないかということです。言い換えるなら、私たちが六道を輪廻する姿の具体的な現れではないかということです。「心が躍る」も「心が挫ける」も、煩悩に導かれて生じる一瞬の感情です。私たちは、ときに有頂天になることもあれば、挫折の中で地獄の責め苦を味わうことがあります。「極楽も 地獄も己が身にありて 鬼も仏も 心なりけり」という有名な道歌もあるように、心次第で、極楽にも地獄にもなるのが私たち有り様です。それは、まさに六道(天道、人道、阿修羅道、餓鬼道、畜生道、地獄道)を輪廻する姿そのものだと思うのです。
 思い込みが過ぎるかも知れませんが、私には、先にあげた二人の禅僧の行為に、六道を輪廻する姿をイメージすることができません。いずれの場合にも、通常なら、厳しい叱責の言葉を浴びせてもおかしくないところです。手荒い僧侶であったら、一撃を見舞ったかも知れません。
 それをしなかったのは、仙厓も良寛も、「悟り」の境地に到達した高僧であったからでしょう。その心は六道を輪廻する心の外にあったはずです。そして、その心により、言葉や文字の不完全さをしっかり見極めていたからこそ、あのような方法をとったのではないでしょうか。
 仙厓や良寛の在り方に学ぶなら、私たちは心という言葉をあまり軽々に使わない方がよいのかも知れません。いとも簡単に「躍ったり」「荒んだり」、あるいは「弾んだり」「挫けたり」するのが心です。まさに、心こそ 心惑わす心なれ 心に心 心許すな」です。心が心を惑わしている…、人間の心はとかくあっちこっちとぶれるから、しっかりと管理しておきなさい…。これが沢庵禅師からの警告です。私たちは、そんな心にもっと注意を傾け、ときに警戒心を持つ必要があるのだと思います。
 仙厓や良寛が会得したような高度な心は簡単には手に入るものではありません。私ができることは言えば、せいぜい心という言葉を軽々しく口にしないようすることくらいですが、それでは甘いでしょうか。(〆)

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次回は、「バッハの音楽は悟りから?」を掲載( 4回配信)します。ぜひご訪問ください。
                                                                       

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2017
08.21

バッハの音楽は「悟り」から?①/④

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 ご存じの読者もあるかと思いますが、NHK Eテレの音楽番組の中に「クラッシック音楽館」があります。NHK交響楽団の演奏を中心に、本格的なクラッシック音楽がじっくり視聴できる機会ということで、私が毎週、楽しみしている番組の一つです。
 音楽好きだった母親の影響もあり、幼いころから音楽には関心があったのですが、思春期に入ってからは、クラシック音楽を聴く機会が多くなりました。蛇足ではありますが、我が家ではテレビよりも先にステレオが家に入ったのです。私が中学校1年のときでした。 
 母が一番最初に買ってくれたのは、ベートーベンの交響曲第5番「運命」でした。初めて聴く“ステレオ録音”による重厚なオーケストラの響きに惹きつけられ、学校から帰るとそのレコードに針を落とすのが日課でした。また、その後も、ベートーベンをはじめ、ドボルザークやチャイコフスキー、ショスタコーヴィチなどのレコードを次々に購入しては楽しみました。また、青年期には、金管楽器(とりわけトランペット)の音色に魅せられ、バロック時代の音楽もよく聴きました。
 前置きが長くなってしまったことをお許しください。本題に戻りたいと思います。
 先日放送された、NHKの「クラッシック音楽館」は、いつもと異なる番組構成でたいへん興味を引かれるものでした。前半では、NHK交響楽団により、映画やドラマにまつわる音楽が演奏されたのですが、後半では、「学校では教えてくれないクラッシック」と題した、指揮者の広上純一氏とコンサートマスターである篠崎史紀氏(主席バイオリン奏者)の対談でした。そこには、「モーツアルトのスゴさ!」「楽聖ってなんなの?」「バッハはなぜ父なの?」といった、いかにも興味を引きそうな副題がつけられていました。
  メインであるNHK交響楽団の演奏も終わったため、初めは何気なく視聴していたのですが、篠崎氏の語りに思わず引き込まれました。モーツアルトやベートーベンの音楽についての豊かな見識もさることながら、バッハの音楽についてのそれには、心の目を開かせられる思いでした。
 以下、そのときの広上氏とのやり取りを再構成して紹介します。
(以下、②/④につづく)

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2017
08.25

バッハの音楽は「悟り」から?② /④

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b0bfb2bc496a2c1c763b71c3b2380c95.jpg[J・S・バッハ]
【篠崎】
 バッハ(の音楽)は人前では弾きたくない。いちばん単純な答えはそこだ。
 バッハ(の音楽)というのは、弾き終わった後、観客から「ブラボーッ!」と言って欲しくない曲だと思っている。弾き終わった後、“シーン”としているのが好きだし、終わった後、側まで寄って来て「ありがとう」と言ってもらえたら、たぶん最高のバッハが弾けたんだろうと思う。
 人間はしゃべっているとき、それは脳を通じて自分の経験といろいろなものを足し合わせてしゃべっている。思考とか言語とか行動とかはコントロールできる。しかし、心臓が動いたり、血液が流れていたりするのをコントロールすることはできない。そのコントロールできないところを全て持っているのがバッハ(の音楽)だと思う。バッハの音楽というのは自然の営みになっているから、コントロールできないところまで行っている。だから、それを演奏するには自分が宇宙にならないと無理。かといって宇宙になれるわけではないが、生命力を感じるから、凄い魅力を感じる。
【広上】
 どんな下手な子どもの(弾く)バッハ(の音楽)でも、どんな名手の大家の(弾く)バッハの音楽でも、ぼくはみんな聴ける。
【篠崎】
  さっき言った生命力というのは(子どもが弾いても名手が弾いても)重みが同じだということだと思う。同じ価値があるのだと思う。バッハは、どんな初心者であろうが大家であろうが、万人に音楽の贈り物をくれたとのだと思う。偉大な作曲家のもと、万人が平等であるということだと思う。
【広上】
 だからバッハが音楽の父というのは、たぶん宗教で言うとVater=父でしょう。
Vaterは神でしょう。


 篠崎氏の「コントロールできないところを全て持っているのがバッハ(の音楽)であり、それを演奏するのは自分が宇宙にならないと無理」という言葉が妙に心に残りました。
 「演奏家がコントロールできない音楽」とは、どのようなことなのでしょう。通常、演奏家というのは作曲家の意図を汲みつつも、そこに自らの想いを重ねながら、自分らしい表現を目指すのだと思います。
 同じ作曲家のピアノ曲であっても、A氏の弾く曲とB氏の弾く曲とではずいぶん雰囲気が違うものです。同様に、同じ作曲家の交響曲であっても、演奏するオーケストラ、そして何よりも指揮者によってその曲の印象は大きく変わります。そこには演奏家(オーケストラであれば指揮者)の音楽観や人生観に基づく解釈や主張などが反映されるものです。篠崎氏の言葉を借りるなら、それが演奏家のがコントロールできる“マインド”ということだろうと思います。クラッシック音楽を鑑賞するときの面白さ、まさにその違いを聴き味わうことにあるのだと思います。ところが篠崎氏によれば、バッハの音楽だけは別だというわけです。
 あいにく私はこれまであまりバッハの音楽に馴染んできた方ではなかったので、すぐさま合点はできませんでした。しかし、たいへん新鮮なものを感じました。そして、番組を見終えた後、次のように勝手な思いを巡らせました。(以下、③/④につづく)

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2017
08.29

バッハの音楽は「悟り」から?③/④

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 先ず思ったことは、篠崎氏の言う「演奏家がコントロールできない音楽」というのは、演奏家の喜怒哀楽を寄せ付けない音楽ではないかということです。それは、「私心」の介入を完全に遮断する音楽と言うこともできるかも知れません。つまり、バッハの音楽は、演奏家が一切の自我(エゴ)を排除し、「無心」にならないとよい演奏にならないということです。
 今更言うまでもないことですが「無心」というのは、心が全く無くなった状態を指すものではありません。一切の「私心」を遮断することで新たに現れる“もう一つの心”に充たされた状態、それが「無心」です。「私心」が無くなれば、自他の区別は無くなり、全ては一つになります。その意味では“もう一つの心”というのは、「万物と我は一体」「天地と我は同根」という実感ではないか思います。
 勝手な推量ですが、「私心」の介入の痕跡を留めないバッハの音楽というのは、自他を超越した、いわば異次元の音楽であるということなのかも知れません。篠崎氏は、それを「バッハの音楽を演奏するには自分が宇宙にならないと無理」と表現したのではないかと思うのです。
  突然、抹香臭い話になって恐縮ですが、盛永宗興老師(元花園大学の学長、元大珠院住職)は、釈迦の「悟り」に触れ、「悟りを開くということは、自分をゼロにしてしまって、すべてのものと一体になるということ、それが悟りを開くということだ」と述べています(「禅・空っぽに生きる」から)。この言葉に倣うなら、バッハは「悟り」を開いていたということになるのかも知れません。
 バッハは、17世紀から18世紀に活躍したドイツの音楽家ですが、敬虔なプロテスタントであったといいます。そして、数多くの宗教曲を残しました。キリスト教には「神の前では万人が平等」という根本教理があると聞きますが、彼の音楽の底流にも当然この思想があったと思います。
 直裁な言い方をするなら、作曲者が「悟り」を開いていたのだから、演奏者も「悟り」を開かなければいい演奏ができないということなのではないでしょうか。それが、篠崎氏の「バッハ(の音楽)は人前では弾きたくない」という言葉に集約されているのではないかと思うのです。
 
 今後も音楽は私にとって大切な人生を豊かにするツールであり続けると思います。これを機に、数は少ないのですが手元にあるバッハのCDをじっくり聴き味わってみようと思っているところです。そうすれば、こんな私でも、いつもの「禅」の教えとは別ルートで「悟り」に少しでも近づくことができるかも知れません。
(以下、④/④につづく)

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