2017
07.04

消えたキーホルダー ④/④

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人間の知覚能力は不完全なものです。また、身体能力にも限界があります。そして、それらは歳とともに衰えてもきます。加えて、記憶違いやそれに端を発した妄念・妄想、妄動は、誰にでも起こり得ることです。今回の私の所行がその実例です。いつも引用する道歌の一つに「極楽も地獄も己が身にありて 鬼も仏も心なりけり」がありますが、今回、私は痛いほどそのこと思い知らされるところとなりました。
 ただ、弁解がましく聞こえるかも知れませんが、私たちは案外こんなふうにして、日々「地獄」を味わったり「極楽」を味わったりしているのかも知れません。不適切な喩えかも知れませんが、キーホルダーは私を「地獄」に突き落としましたが、同時に「極楽」にも導いてくれたのです。
 私たちの心は、避けがたく「地獄」と「極楽」の間を経巡っています。この二つの心から離脱する術などありません。問題は心の揺れ幅をいかに小さく収めるかということではないでしょうか。
 その意味では、予期せぬことや思い通りにならないことに遭遇し、心が乱れたとしても、その心を冷静に眺められる“もう一つの心”があるなら、受け止め方はずいぶん違ってくるのかも知れません。
 山田無文老師の言葉の中に、次のようなものがありました。


 自己反省をしてみると自分の心の中に無量の衆生がいる(ことが分かってくる)。客観的な衆生ではなく、自分の心の中に無量の悩める衆生がいる。それを救わなければならない。…自分の心の中の衆生が本当に救われたら、外の衆生はどうせんでも救えるようになる。


 「心の中の衆生」というのは、自我(エゴ)、つまり「地獄」や「極楽」など六道輪廻する心のことだと思われます。常に「自己反省」を忘れず、「心の衆生」の動きを冷静に見つめられる“もう一つの心”を持つことの大切さを述べたものだと思います。


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 今回の不祥事は、すべて私の不徳の致すところでありました。読者は、くれぐれも私のような失敗はされませんように。(〆)

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2017
07.08

ギャラリー57

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これまで掲載した水をテーマにした写真をギャラリー57」としてまとめました。 

 
水は百面相 どれも水の顔には違いない 
 しかし どれも本当の顔ではない 
 心も同じこと
 
今回の写真は、1・2は大府市(星名池)で、3~7は豊田市(西山公園)で撮影したものです

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 次回は「光のない光で照らす」掲載(4回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。
 



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2017
07.16

「光のない光」で見る!①/④

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 仏教における苦の分類としてよく知られるものに四苦八苦があります。 苦とは、「苦しみ」のことではなく「思うようにならない」ことを意味します。その中の四苦は最も根本的な苦とされ、「生・老・病・死」がそれにあたります。他の四つ苦がありますが、紙面の関係で、ここでは割愛します。
 「生・老・病・死」はいずれも「思うようにならない」ものであり、その意味では仏教がこれらを根本苦としていることはよく理解できるものです。
 ただ、それらを並列に捉えられないのが私たちです。とりわけ「死」の問題は深刻です。「死」は、誰も避けることはできません。しかし、避けられないとは分かっていても、少しでも先延ばししたいというのが私たちの偽らざる願いではあり、「死」を恐れ、怯(おび)えつつも、普段それを忘れたことにしているというのが私たちの実態ではないでしょうか。ここに私たちの最大の「苦」があるのだと思います。私たちは、この人生の大問題にどのように対処したらよいのでしょうか?
 ところで先日、ラジオ放送(NHK「宗教の時間」)でたいへん興味深い話を聞くことができました。「生死一如を生きる」と題された話でした。死ねば終わりと考える人が多い現代ではありますが、「生と死は一つの世界である」と実感して生きた平井謙次氏(14歳のころリュウマチ熱に罹患し、重度の臓弁膜症を併発。3度の心臓手術を行なうも、生涯を心臓病とともに暮らす。30歳ごろより断食、坐禅、ヨガ、食養など東洋的な思想を学び、太陽保育園創設、「もとはこちら会」などを主宰)の人生観について、その愛弟子である北原ゆり氏が語ったものでした。
 その中で「虹の話」が心に残りました。要点は次のようなものでした。
 太陽光は、無色・透明であり、私たちはそれを見ることができない―。ところが、今そこにプリズムを置くことで、太陽光は、七色の虹となって私たちに見えるようになる―。この七色の虹が、私たちの肉体である―。これが、「生」を得るということである―。プリズムという「縁」をいただくことによって、私たちはこの世に現れてくる―。したがって、「縁」(プリズム)がなくなれば、私たちの肉体はなくなり、見えなくなる―。これが「死」である―。しかし、見えなくはなっても、無色・透明の太陽光は変わることなくそこに存在し続ける―。
 たいへん説得力のあるお話だと受け止めました。「人間は、どこからやって来て、どこに行くのか?」…。これは人類が抱える最大の問題ではありますが、それは、そのまま私たち一人一人が抱える「生・死」の問題でもあります。太陽光、プリズム、七色の虹という具体物をもとに、この問題の本質を見事に解き明かした北原氏のお話は、心に深く響くものでした。(以下、②/④へつづく)

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2017
07.20

「光のない光」で見る!②/④

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 北原氏の話を聴いた後、私にも一つのアイデアが思い浮かびました。それは、暗い部屋の中でライトを点灯したときに起きる現象でした。
 暗い部屋の中で、強力な光を放つ懐中電灯のスイッチを入れた場合を思い浮かべてください。そこには、室内に浮遊する塵の姿が光に照射され見えるはずです.
当然のことながらスイッチを切れば塵は見えなくなります。
 通常、室内に浮遊している塵は、私たちの目には見えません。私たちが普段それを認識できるのは、雑巾や箒、掃除機などを使って掃除をしたときくらいでしょう。集められた塵の姿を目の当たりにし、ようやくそれが室内に浮遊していたことに気づくのだと思います。しかし、暗い部屋の中では、懐中電灯が強い光を放った途端、その光が及ぶ空間にだけ無数の塵が浮遊しているのが分かります。
 これを「生・死」の問題に当てはめて考えてみます。この場合に懐中電灯の光とは何でしょう?私は、それは人間の「知性」ではないかと思うのです。その「知性」という光に照らされ、塵が見える状態が「生」という概念ではないかと思うのです。つまり、「生」というのは、私たちの精神活動の産物であるということです。
 荒唐無稽な喩えであり、この先を読み進むことを躊躇される読者があるかも知れませんが、しばらくお付き合いいただければ幸いです。
 この喩えの中で大切なことは、次のことではないでしょうか。暗闇の中、私たちは懐中電灯の光を得て、塵の存在を知ることになります。ところが、懐中電灯の電池の能力には限界があります。電圧の低下に伴い、懐中電灯は、次第に光量を弱め、やがて光を失います。そして、その結果、照射されていた塵も見えなくなり、再び暗闇の世界となります。
 ただ、塵は見えなくなっても、なくなったわけではありません。光に照らされている間も、また照らされる前も後も、変わることなく室内に浮遊しています。密閉された室内を想定するなら、その中にある塵は増えもしなければ減りもしません。『般若心経』で詠まれる「不増不減」の状態です。
 つまり、塵は私たちが懐中電灯の光を照射したときにだけ、たまたま目に映るのであり、「生・死」が問題になるのは、その光があるときだけということです。したがって、その光がなければ、「生」も「死」もないことになります。(③/④につづく)

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2017
07.24

「光のない光」で見る!③/④

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 このことをもう少し詳しく説明したいと思います。幼児の場合を考えてみます。生まれたばかりの幼児(嬰児)に「生」や「死」という意識や概念はあるでしょうか。とてもあるとは思えません。
 俗に「物心がつく」という諺がありますが、幼児にあって「生」と「死」の認識ができるようになるのは、通常、人の心の動きや世の中の様子などが理解できるようになってからだと聞きます。様々な体験の蓄積やそれに基づく精神活動が活発になるにしたがって、「生」や「死」が問題として意識されたり、認識されたりしてくるということなのでしょう。
 ところで、こんなふうに見てくると、私たちは「自縄自縛(じじょうじばく)」に陥っているようにも思えてきます。光に照らされているときも、照らされていないときも、室内に浮遊する塵は何一つ変化していません。したがって、そこには「生」もなければ「死」もありません。これも『般若心経』で詠まれる、いわゆる「不生不滅」の状態です。
 ところが、「生」も「死」も精神活動を通して作り上げられる概念であり、それ自体に実体はありません。しかも、概念化のプロセスでは「自我(エゴ)」の働きが深く関与するため、私たち一人一人の死生観は、より複雑なものになります。
 結局、私たちは、自分の頭の中で作り上げた「生」や「死」によって、自らを縛り、悩み、苦しんでいるということになります。これが「自縄自縛」の状態です。自分の作った縄で自らを縛り、自由がきかない状態に陥っているのに、それに気づいていないということです。
 ただ、だからといって生まれたばかりの幼児(嬰児)や動物や植物の真似をしようと言うのではありません。私たちには高い「知性」があります。それを放棄したり、無視してしまっては人間生活を営むことはできません。そこで、提案です。
(以下、④/④につづく)

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2017
07.28

「光のない光」で見る!④/④

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 私が喩えた室内の塵というのは、人間の生理機能を成り立たせている様々な要素のことです。仏教では、古来よりこれを四大(地・水・火・風)と呼びましたが、現代にあっては、分子、原子、素粒子、そしてそれらの運動と位置を支配する未知なる力を含むものとでも言ったらよいのでしょうか。いわば「生の種」とも言えるものです。もちろん、それは同時に「死の種」でもあります。
 「生・死」の種は、ライトに照らされようと照らされまいと、変わることなくそこに存在しています。そこで、この「生・死」の種を、光がなくても見えるように、「二つ目の知性」の光で照射させてはどうかということです。
 具体的には、従来の「知性」を超える、さらに高い「知性」、言い換えるなら、自我(エゴ)に影響されない清浄無垢な「知性」によって、この世界を捉え直すということになるのでしょうか。そして、そのことを通して「生・死」の種は本来一つであることに気づき、この世界を「一元の世界」、つまり「生死一如」の世界として認識するということになるのだと思うのです。
 ただ、そこに至るには高いハードルがあることは言うまでもありません。それは、従来の「知性」の否定であり、同時に従来の自己(自我)の否定でもあります。また「二つ目の知性」の放つ光は、極めて特殊な光です。言うなれば「光のない光」です。その光で塵を見ることなど、常人には不可能です。
 しかし、仏教の教祖、釈迦をはじめ、達磨、慧能、馬祖、百丈、臨済、白隠など、古今東西のとりわけ禅僧の中には、その領域(境地)まで到達した思われる傑人が数多くあります。そのことに想いを致すだけで、単純な私などは、勇気づけられるのです。
 牛歩のようではあっても、「光のない光」で塵を見る努力を続けていれば いつか「これだ!」と了解できるときが来るかも知れません。あまりにも楽観的過ぎるのかも知れませんが、この先も、これら先人の言葉や行動に触れる機会を持ち続けたいと思っているところです。
 北原氏の「虹の話」と私の「光と塵」の喩えは、共に「生命の永遠性」をテーマにしたものです。互いに似て非なるところもありますが、この二つの話の中に「生・死」にまつわる問題を解く鍵を感じられた読者はあるでしょうか?ご意見をお待ちしています。(〆)
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次回は「心とは何か?」を掲載(5回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。


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