2017
05.01

「投機」について ①/③

Category: 未分類
84d4c318.jpg 
 突然ですが、「投機」という言葉から、読者はどんなことを連想されるでしょうか。辞書を引いてみると「①損失の危険を冒しながら大きな利益をねらってする行為。やま。②市価の変動を予想して、その差益を得るために行う売買取引。」とあります。現代の資本主義を「投機的資本主義」と呼ぶこともあると聞きました。日常生活に深く関わる様々な物資を、需要もないのに売り買いし、売値と買値の差額で大儲けしようとする、いわゆる投機マネーが横行する昨今の資本主義社会の有り様を指したものだと思います。
 ところが、ある本(玄侑宗久著『無功徳』)の中に、「投機」という言葉はもともとは禅語であるという記述がありました。にわかには信じられなかったのですが、改めて辞書を引くと、確かに「禅宗で、師家と弟子のはたらき(機)が一つになること」とありました。玄侑氏は、「投機」とは、「機に投ず」と読み、修行者が真理の世界に参入して、道と合一する体験を指す言葉だといいます。そして、そこでは「わたし」という輪郭は消滅し、同時にあらゆる概念もなくなるというのです。平たく言うなら、「悟り」に至ることなのでしょう。それが、どうしてこれと対極にあるとも思える言葉に転用されることになったのか不思議としか言いようがありません。
 玄侑氏は、人間はある年齢から「同じ」という概念で様々な物事を括るようになると言います。そして、そもそも普通名詞というのは人間のその性質の上に成立していると指摘しています。例えば「動物」という普通名詞がありますが、イヌとネコ、ウマとヒツジなど、その種類も姿も性質もまったく違うのに、それらを「同じもの」として「動物」という概念で括ってしまうということなのだと思われます。
 いくつもの個別の事物や事象を共通の言葉で括るのは、すべて私たちの脳の働きによるものです。それが概念化という行為です。概念化は、私たちが現実生活を送る上で必要なことではあります。しかし、それは私たちの脳が実体の中の極一部の性質や形状を取り出し、人間にだけ通用する共通の認識を作り上げているに過ぎないということを忘れてはならないと思います。概念化というのは実体からの遊離です。その意味では、美しい、醜い、美味しい、不味いなどの形容詞も、さらに概念度が高くなるのでしょう。(以下、②/③につづく)
56-5 養老の滝 
※クリックすると拡大して見られます。
スポンサーサイト
Comment:0  Trackback:0
2017
05.05

「投機」について ②/③

Category: 未分類
dc71b958b4247d6b6e741e58901a8ff9.jpg 
 玄侑氏は、概念の最たるものが“金(かね)であると指摘しています。“金”は、当初、それ自体が金や銀、貝、刀など、その共同体内部で共通に貴重だと思われるものが用いられていました。それらによって交換されるものが同等の価値をもつと見なされていたからです。それは、実体を持つものであり、さらに生活上の実感もあったはずです。
 しかし、紙幣の出現によってお金は一気に概念度を高めることになりました。ちなみに、現在の一万円札の製造費用、つまり原価は、一枚当たり二十二円ほどだと言います。それを一万円の価値があると見なすのは、人間だけが持つ概念の力によるものです。ネコに小判という諺もあるように、動物たちはそんなものに決して価値などを認めません。また、“金”は放っておいても利子を生み出します。ヘッジファンドなどのように投機的な使い方をすれば、労せずして大きな増益を生むという性質もあります。
 しかし、このように概念・妄想の世界だけで大儲けをしたり、高額な収入を得たりという在り方にどうしても違和感があるのはなぜでしょうか。
 以前、ネズミを使った動物実験で示された「コントラフリーローディング効果(contrafreeloading effect)」のことを紹介したことがあります。初めから餌を皿に入れてある場合と、レバーを押さないと餌が出ない仕掛けがある場合で実験してみると、ネズミはレバーを押す頻度の方が高いというあの興味深い実験です。
 ネズミは、労せずして手に入る餌よりも、レバーを押す作業によって得る餌の方に価値を感じていると推測されるこの実験ですが、さらに興味深いのは、これがイヌでもサルでも鳥類でも魚類でも、動物界全体に普遍的にみられる現象であるということです。もちろん人間も例外ではありません。「投機」による資産運用という、いわば不労所得に対して私たちが抱く違和感は、このような原初的な感覚に根ざしているのではないかと推測するのですが、読者はどう思われるでしょうか。(以下、③/③につづく)
56-6.jpg
※クリックすると拡大して見られます。



Comment:0  Trackback:0
2017
05.09

「投機」について ③/③

Category: 未分類
無題  

 概念の織りなす世界を禅では妄想(もうぞう)といいます。実体や根拠のない主観的な想像や信念、思い込みのことです。「莫妄想(まくもうぞう)」(妄想すること莫(なか)れ)」という禅語もありますが、禅的に見るなら“金”こそは、概念・妄想の権化ということになるのでしょう。
 玄侑氏は、禅でいう本来の「投機」というのは、からだ一つに戻る勇気であるとも言っています。“金”はなくとも、また地位や名誉や学歴などなくとも、からだを通して「いのち」は営々と営まれ続けています。この世の中に「いのち」と等価なものなど存在しません。私たちがその「いのち」に目覚め、一切の概念・妄想を捨てることができるなら、からだは自然と一体化し、最高の力を発揮する、それこそが真の「投機」であり、「悟り」であるということです。
 何やら現実味のない話になってしまったことをお詫びしなければなりません。ただ、「投機的資本主義」という言葉に象徴されるような、“金”に根拠を置いた生き方を見直す時期に来ていることだけは確かだと思うのです。確かに人が生きていく上でどうしても必要な概念・妄想はあるでしょう。“金”もその一つには違いありません。そうでなければ信用経済は成り立ちません。
 しかし、今、概念化が必要以上に進みすぎているのではないでしょうか。また、人間には概念・妄想を実感として織り込み、その中で右往左往する悪い癖があることが忘れられているのではないでしょうか。概念・妄想はあくまでも“幻想”であり、現実ではありません。“幻想”を“幻想”として理解・認識することが“リアル”に生きるとことの第一歩なのだと思います。
 私たちが禅で言う「投機」、つまり「悟り」に到達することなどは至難の業ではあります。しかし、通常の意味での「投機」を含め“金”を取り扱う際には、概念・妄想の持つ危うさをよくよく自覚する必要があるのだと思うのですが、読者はどのように思われるでしょうか。(〆)
56-7.jpg
※クリックすると拡大して見られます。
Comment:0  Trackback:0
2017
05.13

「恥ずかしい話」の考察 ①/④

Category: 未分類

c0077395_635947.jpg
 以前、本ブログで「恥ずかしい話」と題して、私の体験談を紹介したことがありました。思い起こせば、かれこれ40年ほど前のことではあるのですが、私の中でどうしても忘れられない体験であり、今でも記憶から消えることがありません。最初に、以前、掲載したブログの内容を再掲させていただきます。


 かなり前のことではありますが、忘れられない、恥ずかしい思い出について話したいと思います。
 それは、6月の末の夕方、川沿いの山道を車で走っているときのことでした。百メートルほど先の信号が赤だったので、スピードをゆるめ、ゆっくり車を止めました。
 すると、どこからか、薄い透明の羽根をヒラヒラとさせながら一匹の小さな虫が飛んできて、車のワイパーにとまりました。その虫は、体の長さが三センチほどで、体も足も細くて、見るからに弱々しい感じのする虫でした(今思い返してみるとウスバカゲロウだったかも知れません)。
 とまってからは、じっとして動かなかったので、運転するのに邪魔になるほどではありませんでした。しかし、ちょうど目の前に見えるのでとても気になりました。
 「早くどこかへ行ってくれないかな。」
と心の中でつぶやく声が聞こえました。でも、すぐにこうも考えました。
 「小さくて、弱々しい虫だから、車が走り始めれば、きっと風に吹き飛ばされてしまうに違いない。そのままにしておこう。」
 信号が青になったので、ゆっくりと車をスタートさせました。すぐに飛ばされてしまうだろうと虫の様子を見ていたのですが、その考えが甘かったことにすぐ気づかされました。
 車のスピードはだんだん速くなっていくのに、虫はそのままなのです。それどころかスピードが速くなるにつれて、細い足をしっかりとワイパーに絡ませ、薄い羽根を激しくなびかせながら、全身の力を集めるようにして、しがみついているのです。 
 そんな様子を見て、次の方法を考えました。
 「ワイパーを動かせば、ひとたまりもなく、飛ばされるだろう。」
 ワイパーのスイッチを高速にして入れました。ワイパーの腕は激しく左右に動き始めました。
 けれども、結果は同じでした。虫は、その細い足に一層力を入れるようにして、ワイパーの動きと風の勢いにじっと耐えているのでした。
 そんな状態がしばらく続いた後、次の信号が迫ってきました。赤信号だったため、速度をゆるめました。虫をどける方法はもう一つしかありませんでした。車を止め、外へ出て虫を捕まえようと決心しました。
 ところが、そう思って、交差点の前で車を止めたとき、予想もしないことがことが起きました。その虫は、車が止まるのを待っていたかのように、ひらひらと飛び立っていったのです。私は、口を「ぽかん」と開けたまま、ただ見ているだけでした。


 そのころの私には、仏教についての関心も知見も全くなかったのですが、今この話を仏教的な視点から眺めてみると、興味深い事実があることに気づかされます。そこで、以下、思うところを綴ってみようと思います。(以下、②/④につづく)
56-8.jpg 
※クリックすると拡大して見られます。
 


Comment:0  Trackback:0
2017
05.17

「恥ずかしい話」の考察 ② /④

Category: 未分類

Clicccar_217589_1.jpg 

 まず、最初に虫に出会ったときの私の反応です。私は、とっさに邪魔なものだと感じました。運転するのに支障があるほどのことはなかったのですが、単に目障りだったのだと思います。
 しかし、今、冷静になって考えてみれば、虫を排除したいというのは私の身勝手な思いです。虫にしてみれば、私の車に止まることには何らかの意図や意味があったはずです。したがって、私から受けた仕打ちは極めて理不尽なものだったと思います。身の自由を奪われ、さぞや不愉快でもあったことでしょう。
 そして、車は赤信号に差しかかりました。このときの私には、自分の身勝手さへの気づきはまだありませんでした。頭の中は、小さな虫を思うがままにできないことへの悔しさが渦巻いていました。若気の至りとはいえ、まことにお恥ずかしい有り様です。
 ところが、まさに青天の霹靂でした。車の停止と同時に、虫は何事もなかったかのように、ひらひらと中天に飛び立っていったのです。
 「してやられた!」という思いはありました。しかし、その一方で、虫の姿に何か清々しいものも感じました。身の自由を得たものに対して無意識のうちに同化していたのかも知れません。そのときの不思議な感覚は今でも忘れられません。その後、しばらくの間、運転席から虫の姿を目で追っていたと記憶しています。

 ところで、仏教徒が認めなければならない三つの立場の一つに「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)があります(他の二つが「諸行無常」「諸法無我」)。「涅槃」というのは、サンスクリット語のニルバーナ漢訳したものです。燃えさかる炎を吹き消すという意味ですが、炎というのは言うまでもなく“煩悩の炎”のことです。したがって「涅槃寂静」というのは、あらゆる煩悩の炎を吹き消し、心が完全に鎮まった状態のことを述べたものです。いわゆる「悟り」の境地です。
 当初、私が虫に対してとった行動はまさに煩悩の為せる業だったのだと思います。虫を排除したいというのは私の我欲・我執に他なりません。虫の都合や立場などまっく念頭にありません。運転中に私が試みた愚行は、ことごとく虫の自由を奪うものでした。
 また、ここで忘れてはならないことは、それが私自身の心を縛るものでもあったということです。「~したい」「~しなければならない」「~するしかない」などの思いは、明らかに私の心を縛り、悩ませ、苦しめるものでもありました。それこそが“煩悩の炎”によってもたらされる負の心なのだろうと思います。(以下、③/④につづく)

57-1.jpg 
※クリックすると拡大して見られます


Comment:0  Trackback:0
2017
05.21

「恥ずかしい話」の考察 ③/④

Category: 未分類
thumb5_20160612172025e11.jpg 

 仏教では、“煩悩の炎”を吹き消せば、心は鎮まり解放され、行動も自由になると説かれます。思えば、走行で生じる風圧やワイパーの動作に効果がないと気づかされたことが大きな転換点でした。大袈裟か知れませんが、そのとき私の“煩悩の炎”は、一時的に火力を弱めていたのかも知れません。
 もし、あのまま車を暴走させていたら、私は交通事故を起こしていたかも知れません。あるいはスピード違反で検挙されていたかも知れません。私にとって、これほどの不自由はありません。笑われるかも知れませんが、そのとき私は瞬間的に「悟り」の状態に入ったのかも知れません。
 “煩悩の炎”を吹き消すことは、我欲・我執を封印することとも言い換えられるかと思います。それは、自分の都合のいいようにしよう、自分の思い通りにしようという執着心から解放されることでもあります。その意味では、私は自由になったと言えるでしょう。そして、同時に虫も自由になったのです。
 結局は、虫からの「無情説法」を聴いたのだと思います。自分ではどうすることもできないことは、そのままにしておく(受け入れる)…、自分が変わらなければ、相手も変わらない(自分が変われば、相手も変わる)…、自分がつくった苦悩は、自分でしか解消できない…、これが虫からの教えだったと思います。
 “煩悩の炎”を吹き消し、我欲・我執を封印することを「悟り」と定義するなら、私はそのチャンスを虫から与えてもらったのです。改めて思い返すと、誠にありがたく、得難い出会いだったと思います。
 ただ、こんなふうに考えると「悟り」などという体験は、案外、思いがけない場面で得られるのではないかとも思えてきます。そこで最後に、仏教説話として伝わる面白い話を紹介したいと思います。「きこりとサトリ」と題した次のような話です。(以下、④/④につづく)
57-2.jpg  
※クリックすると拡大して見られます。


Comment:0  Trackback:0
2017
05.25

「恥ずかしい話」の考察 ④/④

Category: 未分類


img_0_20160612172024c61.jpg

 一人のきこりが山に入って、あちらこちらで木を切っていると、そこへ見馴れない動物が出てきました。珍しい動物だと思ったきこりは、その動物に声をかけました。
「お前はいったい何というものだ?」
すると動物は次のように答えました。
「私は、サトリというものだ。私は人間の考えていることが手に取るように分かるという特技がある。」
それを聞いたきこりは、にわかに色めき立ちました。そして、サトリを生け捕りにして売り払い、大金を得ようと考え始めました。するとサトリは言いました。
「お前は、私を捕らえて売り飛ばそうとしているな。」
自分の考えていることを見透かされたきこりはとても驚きました。サトリの言うことは正しかったのです。
 そこできこりは、忘れたようなふりをして後ろに回り、気づかれる前に捕らえてやろう考えました。するとサトリは言いました。
「お前は、忘れたようなふりをして、後ろから私を捕まえようとしているな。そうはいかないぞ。」
 それを聞いたきこりはだんだん腹が立ってきました。するとサトリは言いました。
「お前は、私が捕まえられなくて怒っているな。」
 きこりはすっかり困ってしまいました。これではどんなことを考えてもサトリに覚られてしまい、捕まえることができません。
 そこで、きこりはサトリを捕らえることを諦めることにしました。そして、再び斧を手に木を切り始めました。
 するとどうしたことでしょう。斧を振り上げた途端、斧の柄から刃が抜け、空中高く飛び上がったかと思うと、遠くからその様子を眺めていたサトリの頭に当たり、サトリは目を回してしまったのです。
 こうして、きこりはサトリを生け捕りにすることができました。

 この話を読者はどのように受けとめられるでしょうか。「得たいと思わないと決心したときにこそ得ることができる」というたいへん含蓄のある教示ではあるのですが、凡人にはこれがたいへん難しいのだと思うのです。やはり鍵になるのは「無心」に徹するということでしょうか。(〆)
57-3.jpg 
※クリックすると拡大して見られます。
Comment:0  Trackback:0
back-to-top