2017
01.01

「飾り餅」と「七福神」①/②

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 新年、明けましておめでとうございます。
 つたない内容ではありますが、本年も、ブログ「無相の水」をどうぞよろしくお願いいたします。
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 さて、正月と言えば、定番の一つとして門松(松飾り)を思い浮かべる読者も多いと思います。私が子どものころには、多くの家で門松が立てられたものでしたが、最近は神社や寺院などでしか見られないようになりました。これも時代の流れなのかも知れませんが、私のように古い人間は、やはり寂しさを感じてしまいます。
 ところで、門松について興味深い事実を知りました。以下、『四季の公案(しきのこうあん』(玄侑宗久著)という書籍の中にあった話をもとに紹介したいと思います。
 松には「待つ」の意味があるというのです。では何を待つのか。それは「歳徳神(としとくじん)」と呼ばれる神様であるとのことでした。辞書によると「その年の福徳をつかさどる神。この神の在る方角を明(あき)の方または恵方(えほう)といい、万事に吉とする神」とありました。「歳神様(としがみさま)という言い方もあるようです。
 その「歳徳神」が降臨するとき、よりどころになる木、つまり神を待つ木が松であるということです。人々は、お正月になるとこの「歳徳神」を門松でお迎えするというわけです。
 では、降臨した「歳徳神」を人々はどのように迎え、もてなしたのでしょうか。先ず思い浮かぶのは、餅を供えることではないでしょうか。
 最近では杵や臼を使った餅つきもあまり見られないようになりましたが、その昔、我が家で餅つきをしていた頃、餅つきは一年のうちの一大行事でした。
 前日の夜、餅ち米を研いで水につけ、杵も水に浸す―。当日の朝、餅米を蒸し、米蒸し上がると、臼へ餅米を入れる―。始めにつぶし(杵を使い、体重をかけて米粒をつぶす)、米がつぶれたら杵つきと手返し、途中に餅全体を持ち上げひっくり返す―。そしてつき上がりと同時にのし餅やあんころ餅づくり―。
 思えばたいへんな準備と労力です。どの家庭でも、餅つきは、家族の共同作業で行われたはずです。このようにしてつかれた餅は、恭(うやうや)しく神棚、あるいは仏壇に供えられたのだと思います。
 その意味では、餅は家族の“和合”の証であったということです。玄侑氏は、神仏にとって「人間の和合が一番のご馳走である」とも述べています。“和合”の証を神仏に供える一大行事が餅つきであったということです。そして、それが「歳徳神」へのおもてなしでもあったということです。実に含蓄のある指摘だと思います。(以下、②/②へつづく)

 
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2017
01.05

「飾り餅」と「七福神」②/②

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 ところで、お正月の定番としてもう一つ忘れてならないものに「七福神」があります。姿、形の異なる七人の神様が仲良く宝船に乗っている縁起物として有名です。七人とも、それぞれに個性的なキャラクターの持ち主であることは言うまでもないことですが、同じ船に乗っているのに全員に共通するものがないというのも面白いところです。 
 まず出身地で言えば、大黒天(だいこくてん)、毘沙門天(びしゃもんてん)、弁財天(べんざいてん)がインド、福禄寿(ふくろくじゅ)、寿老人(じゅろうじん)、布袋和尚(ほていおしょう)が中国、恵比寿(えびす)が日本です。それから類推するところ、当然、言語や習慣、服装なども異なるでしょうし、また、何よりもそれぞれ得意分野が違います。諸説あるようですが、概ね次のように説明されるようです。
 大黒天…食物、財福の神様 
 ・毘沙門天…福徳増進の神様
 ・弁財天…豊穣、子授けの女神様
 ・福禄寿…幸福の神様
 ・寿老人…長寿の神様
 ・布袋和尚…富貴繁栄の神様   
 ・恵比寿…商売繁盛、五穀豊穣の神様
 このように出身地や得意分野、キャラクターなどを異にする七人が仲良く一つの船に乗っているのが宝船です。これも“和合”の形を表現したものと言ってよいかと思います。「飾り餅」と同じように、正月に縁起物として珍重されるのは、ここにも理由があるのではないでしょうか。
 また「七福神」は全員が笑っています。玄侑氏は「笑い合っているから仲良くしていられる。笑い合うというのは、お互いを認め合うことである」と述べています。そして、それを主導しているのが布袋和尚であると言います。布袋和尚は、いつ誰に会っても大笑いをしています。ちなみに「七福神」のうち、実在するのは布袋和尚だけです。
 以前、本ブログ「布袋さんの笑顔」でも触れましたが、布袋さんには、“違い”をそのままに認めていくことが最も理にかなっているという信念があったのではないかと思います。それが、誰に会っても「そうか、あんたみたいな人もいるんだなぁ。それはそれでいいわなぁ。ガッーハッハッハッ…」ということになるのだと思います。
 つまりは、自分と違うことを面白いと感じるということでしょう。そうでないととても一緒に船になど乗っていられないということなのだと思います。人と人は比べられないし、また、比べることに何の意味もない、つまりは「みんな違ってみんないい」ということだと思います。
 ともすると、他者との違いに目を奪われ、比較したり分け隔てたりして軋轢を生みやすいのが私たちです。新年くらいは「飾り餅」と「七福神」にあやかり、「今年の一年は和合に努め、笑顔に心がけよう」と心に誓っても罰は当たらないと思うのですが、私のことですから、やっぱり三日坊主になってしまうのでしょうか。(〆)
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次回は「動物たちの心」を掲載(3回配信)します。ぜひご訪問ください。


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2017
01.09

動物たちの心 ①/③

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 今回は、チンパンジーにかかわる面白い実験を紹介したいと思います。愛知県犬山市にある京都大学霊長類研究所の次のような実験です。ちなみに同研究所はサルの研究に特化した、世界でも珍しいとされる施設です。
 二つの部屋が用意されています。部屋と部屋の間は、透明の板で仕切られ、チンパンジーが1頭ずつ入っています。真ん中には、面白い装置が付いています。
一方のチンパンジーがコインを一つ入れると、相手のチンパンジーがいる部屋から、チンパンジーが大好きなリンゴが一つ出てくるようになっています。チンパンジーには、前もって、コインを入れると、相手の部屋にリンゴが出ることをよく分からせました。そして、2頭のチンパンジーには自由にコインを入れさせました。
 さて、その結果はどうだったでしょう。読者は、両方のチンパンジーが入れたコインの数は、どうなった思われるでしょうか。
 その結果、コインの数は、12枚と2枚だったり、1枚と11枚とだったり、まちまちではありましたが、どういうわけか、片方だけが多くなるという結果になりました。同じ実験は別の3組のチンパンジーでも行われましたが、どの組も、同じような結果になりました。
 つまり、一方のチンパンジーだけがたくさんのコインを入れ、相手にリンゴを食べさせているのに、リンゴを食べた方のチンパンジーは、相手のチンパンジーにお返しをしないという結果になったのです。
 そればかりか、コインを入れようとしない相手に、コインを入れるように催促したのに、入れてくれないために、仕切りになっている板を越して、相手に飛びかかろうとしたりするチンパンジーもいました。そして、最後には、お互いに全くコインを投げ入れなくなってしまったそうです。
 読者は、この実験をどのように受け止められるのでしょうか。ちなみに同研究所は、“チンパンジーは相手を思いやる心が希薄である”と総括していました。チンパンジーは、人間に最も近い動物の一つだと言われているだけに、その心を窺い知る意味でたいへん興味深い実験だと思いました。
 杉本深由起の詩に、次のようなものがあります。
 「心につぼみが」
  だれかにやさしくされたら / だれかに / やさしくしたくなる
   こころにつぼみが / ふくらんで / パッと/花がひらく
  たんぽぽみたいね /「ありがとう」/  って咲いた花は
  綿毛になり / また /  だれかのこころに / とんでいく
以下略)
 “だれかにやさしくされたら / だれかに / やさしくしたくなる”、これが人間の持つ当たり前の心情ではないでしょうか。自己の喜びと他者の喜びとを一つにすることです。ちなみに、仏教ではこのような心を「慈悲心」と呼びます。“自己の喜びを他者に施し、他者の喜びを自己の悦びとする”という尊い心の働きのことです。 
(以下、②/③につづく)

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2017
01.13

動物たちの心 ②/③

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 チンパンジーの実験は、「他者を思いやる心」は人間だけに与えられた固有のものであることを知らせてくれるものでした。ただ、サルたちの人格(猿格?)を貶めるような実験であり、サルたちには詫びなければならないのかも知れません。
 そこで、今回は、もう一つ別の動物実験を紹介したいと思います。
 ネズミの餌が2つ用意されてます。ところが餌の与え方がそれぞれ異なります。
 Aの場合、餌はすでに皿に入っています。したがって、ネズミは何もしないで餌を食べることができます。
 Bの場合、レバーを押すと餌が出てくる仕掛けがしてあります。ネズミが餌を食べるためには「レバーを押す」という作業が必要です。AもBも同じ餌です。違うのは、Aは労せずして餌を手に入ることができるのに対して、Bはレバーを押さないと餌が手に入らないことです。
さて、ネズミはどう行動すると思われるでしょうか?
 
験してみると、ネズミはレバーを押す頻度の方が高いのだそうです。つまり、ネズミは労せず手に入る餌よりも、レバーを押す作業によって得る餌のほうが価値が高いと認識しているらしいというのです。これを心理学では「コントラフリーローディング効果(contrafreeloading effect)」と呼ぶのだそうです。
 もちろん、全部のネズミがレバーを押すわけではなく、同じネズミでもレバー押す時もあれば何もしないで餌だけ食べる時もあったようです。ただ、傾向としてレバーを押して餌を得る頻度が高いとのことでした。
 さらに興味深いのは、これが犬でもサルでも鳥類でも、魚類でも、動物界全体に普遍的にみられる現象なのだそうです。もちろん人間も例外ではありません。就学前の児童はほぼ100%の確率でレバーを押すのだそうです。ただ、人間は成長ととともにその確率が下がっていき、大学生くらいの年齢になるとレバーを押すのは50%まで下がるとありました。
 動物たちにとって、労せず得た報酬よりも、苦労して得た報酬の方が心理的な価値が高いということです。ごく俗な言い方をするなら、宝くじで当たった1000万円より自分が汗水流して働いて得た100万円のほうに価値を感じるということでしょう。
 心理学的にも、この方が脳が活性化することが証明されているようで、最近は、動物園などでも、わざと餌を隠したりトレーニングを取り入れたりして、動物たちが考えて行動しないと食べられないように、餌の与え方を工夫していると聞きます。これなどはその応用なのだと推測します。(以下、③/③につづく)

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2017
01.17

動物たちの心 ③/③

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   そこで、ここからはサルたちの名誉挽回を試みたいと思います。
 ネズミの実験から導かれる事実、それはすべての動物たちは、労せずして食べ物を得るより、なにがしかの労働の報酬として得る方を好むという習性があるということです。この事実に照らすなら、サルにあってもそれは例外ではありません。“大切なのは腹を満たすことにあるのではなく、それを得るために何をするかにある”という高い精神的な価値観を共有している以上、サルも人間も変わりません。いえ、年齢を重ねるごとに「コントラフリーローディング効果」を低下させていく人間より、サルの方が優れているとも言えるのかも知れないのです。

 それにしても、人間に現れるという「コントラフリーローディング効果」の低下とは、いったい何に由来するのでしょうか。仏教思想にどっぷりとつかっている私などは、一休禅師の詠んだ和歌を思い出してしまいます。
 「幼子がしだいしだいに知恵づきて 仏に遠くなるぞ悲しき」
 仏教では人間を含め、全ての生きとし生けるものは、生まれながらにして「仏」であるとされます。しかし、私たちにその実感がないのは、人格の形成過程の中に問題があるというわけです。つまり、成長と共に肥大化し続ける自我(エゴ)によって、「仏(あるいは仏性)」は埋没させられてしまうということです。
 「コントラフリーローディング効果」は「逆たかり行動」などと訳されているようですが、私はあまり適切な表現だとは思いません。同効果が、人間も含む動物界全体に普遍的に見られる現象であるなら、それは「仏(あるいは仏性)」に起源をもつ、動物たちの本源的な行動様式と言ってもよいのではないでしょうか。「仏」を表すとき、そのキーワードとなるのは「無私」です。不労所得を選ばず、労働を伴う報酬に価値を感じるのは「無私」なる心の働きによるものだと思います。私なら「仏作行動(ぶっさこうどう)」と呼びたいと思います。「仏」の「作(な)す」行動ということです。いかがでしょうか。
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 最後に蛇足になりますが、ネズミの実験に係わる一連の情報の中に、唯一「コントラフリーローディング効果」に無縁な動物がいるという一文がありました。それは“飼いネコ”とのことでした。
 我が家でもネコを飼っています。その行動を見る限り、ネコがなうての「現実主義者」であることはよく承知しています。それだけに、この一文には納得できました。
 “飼いネコ”の先祖は、アフリカに生息するリビアヤマネコだと聞きます。推測ではありますが、原種のリビアヤマネコなら、他の動物たち同様に「コントラフリーローディング効果」を示すのではないでしょうか。“飼いネコ”は、永く仏から遠い存在である人間と一緒に暮らすうちに「仏作行動」を忘れてしまったのかもしれません。だとしたら、人間はネコに対してたいへん罪深い存在であることになります。
 ただ、一方でこんな見方もできるかも知れません。レバーを押すことなく、そこに用意されているものを迷いなく食べるということも、それはそれで潔い態度と言えます。“飼いネコ”は、仏教で推奨される、いわゆる「知足」を実践しているのかも知れません。
 いずれにしても、せめて我が家のネコにだけは、きるだけの愛情を注いでやろうと思うのですが…。(〆)

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2017
01.21

一日不作一日不食 ①/③

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短冊
 6年ほど前から、臨済宗系の禅のセミナーに通っています。講師は山川宗玄老師[(岐阜美濃加茂市の正眼寺(しょうげんじ)住職]です。これまで白隠禅師の「遠羅天釜(おらてがま)」、廓庵禅師の「十牛図(じゅうぎゅうず)の講義を拝聴してきました。現在は「発句経(ほっくきょう)の講義を受けています。
 このセミナーには、受講回数が一定の基準に達すると一つの楽しみがあります。老師の揮毫された短冊がいただけるのです。前回いただいた短冊は、雲門文偃(うんもんぶんえん)禅師にまつわる「東山水上行(とうざんすいじょうこう)という禅語でしたが、今回は、「一日不作一日不食」でした。これは百丈懐海(ひゃくじょうえかい)禅師の残した、たいへん有名な禅語です。「一日作(な)さざれば、一日食(く)らわず」と読みます。
 中国・唐の時代に活躍した百丈禅師(749~814)は、それまでの禅寺の生活様式を改革、整理して「百丈清規(ひゃくじょうしんぎ)と呼ばれる規則をつくった禅僧で、禅が禅宗という一つの宗派を確立する基礎をつくったとされる高僧です。また禅宗の法脈上(とりわけ臨済宗)にあって最も尊崇される僧侶の一人でもあります。
 ちなみに「百丈清規」には、上下、老若の区別なく、お寺にいる全員が力を平等に作務(さむ)につくこと、つまり働くことが定められてます。
 そこで「一日不作一日不食」ですが、この言葉には次のような逸話が残されています。細川景一(ほそかわけいいつ)著「白馬蘆花(はくばろか)に入る」をもとに紹介します。
 百丈禅師(以下、禅師とします)自身も毎日の作務に熱心だったようで、80歳を過ぎても毎日の作務を怠ることがなかったようです。そんな禅師の体調を気づかって、弟子たちは「作務はもうやめて、お休みください」と申し出ますが、禅師は黙って聞くだけで、一向にやめようとはしません。一計を案じた弟子たちは、「道具がなれけば作務もできないだろう」とばかり、禅師の箒や鍬など道具を隠してしまいます。
 禅師はやむなく作務をあきらめ部屋に戻りますが、それ以後は一切食事を摂りません。心配した弟子たちは、「お加減でも悪いのですか」とお伺いを立てます。すると、禅師は淡々として答えます。
 「一日不作一日不食(一日作さざれば、一日食らわず)」と。
 それを聞いた弟子たちは、自分たちの考えを恥じ、道具を元に戻したというのです
禅師にとっては、仏に近づくための務め作すことが作務であったわけです。
(以下、②/③へつづく)
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2017
01.25

一日不作一日不食 ②/③

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無着成恭 [無着成恭氏]
 「一日不作一日不食」…。これがその昔、旧ソビエト連邦で示された「働かざるものは食うべからず」という社会主義の実践的戒律でないことは言うまでもありません。働くことは食べるために行うものではありません。禅師にとっては、あくまでも修行の一つであり、仏に近づくための道を実践するものでありました。したがって、一日でも仏道の実践を疎かにすることは、仏から遠のくことであり、食べる価値もないとして自戒の意を示したのだと思います。
 恥ずかしいことではありますが、この禅語を目にすると、私のような横着な人間は、誠に忸怩たるものがあります。
 ところで、細川氏はその著書の中で、その昔「やまびこ学校」で有名になった教育者であり、曹洞宗の僧侶でもある無着成恭(むちゃくせいきょう)氏の実践に触れています。以下、無着氏の手記を原文のまま紹介します。
 集まってきた子どもたちの前で、まず竹を倒す。「竹は君たちのために死んでくれたのだ」という話をして、お箸をつくらせる。そのお箸で三泊四日の食事をいただくようにする。食事のための作業は全てこどもにやらせる。とくにキュウリやナスは、畑でもぎとるところからやらせる。食べられる野草もつませる。そして三日目の午後、寺で飼育しているニワトリをつかまえ、解体して食べる―というところまでやる。
 「生きる」ということは、すべて何かのいのちを「いただく」ということを直接教えなくなった今、子どもたちは「他人の殺したものなら平気で食べる」「平気で食べ残す」「食べることにともなう、ある神聖さや感謝の気持ちを失う」という精神状態にある。そういう子どもたちの心に一つの事件を与えたいと、私は考えた。
 次は、参加した子どもたちの反応です。
 ニワトリを殺すとき、ニワトリの血が手に流れた。血はあたたかった。あ、ひとつのいのちがオレのために消えたと思った。泣いている女の子もいた。そのニワトリを解体したら、肉屋に並んでいるお肉と同じになった。そのときはもう誰も泣いていなかった。そのお肉を串にさし、焼き鳥にしたら、さっき泣いていた女の子も、笑って食べていた。
 串がやけて地面に落ちた焼き鳥があった。落とした子が、あ、もったいないと言って拾って洗って食べていた。自分で殺したのだから、最後の最後まできれいにいただかなくてはいけないと思った。(昭和61年8月4日) 
                                          
(以下、③/③へつづく)  
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2017
01.29

一日不作一日不食 ③/③

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 にわとり                    
 無着氏は、後に「子どもたちには、生きとし生けるものには全てに仏性があることを教えたかった」と述べています。「仏性」とは「一切の衆生が本来もっている仏としての本性」のことを言います。「山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)という理念に立つなら、生きとし生けるもの全てに具わる「仏の本性」「いのち」と読み替えたとしても何の齟齬もないと思います。
 子どもたちは、「もったいない…」「最後まできれいにいただかなくてはいけない…」、と感想を綴っています。これは、ニワトリの「いのち」と自分の「いのち」を重ね合わせることによって得られるたいへん尊い気づきだと思います。
 ニワトリの身体から流れる温かい血に触れたときの子どもたちの衝撃は、察して余りあるものがあります。その後、解体された肉は、肉屋に並ぶそれと同じではありました。しかし、地面に焼け落ちた肉を惜しむ心と、それを拾い、洗っていただくという行為は、紛れもなくそこに深い学びがあったことを証明しています。子どもたちは、同じ「いのち」を持つものとして、「自他一如」に目覚めたのだと思います。そして、飛躍するかも知れませんが、そこに互いの「仏性」を感得しのだと思います。
 百丈禅師は、作務、つまり労働することが仏に近づくことにつながると教えました。ニワトリを飼育することも、広義には労働ではありますが、そこまでの拡大解釈をしなくともよいのかも知れません。子どもたちは、ニワトリを殺して、食べることにより、かれらにも自分たちと同じように「いのち」、あるいは「仏性」があるということに気づいたのだと思います。
 したがって、働くことが「仏性」に目覚めるための修行なら、「食べる」ことも「仏性」に目覚めるための行為になり得るのかも知れません。勝手な想像ではありますが、無着氏は、そのことを「食べる」ことに伴う「神聖さ」としているのではないかと思うのです。
 私たち大人も、「食べる」ということの意味について、今一度、思い返してみる必要があるのかも知れません。(〆)

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