2016
12.01

“いのち”の引っこし②/④

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 以前、本ブログでも紹介したように、禅には、「無情説法(むじょうせっぽう)と称して、動物や植物の生き方、あるいは山や川(水)、月などの在り方から多くを学び取ろうとする考え方があります。「無情」とは「心」をもたないものたちの総称です。そして、この場合の「心」は「私心(我欲・我執)」と同義です。「私心」から離れて在ることを『悟り』と定義するなら、これらのものたちは、すでに悟っており、そのまま(の姿)で仏ということになります。また、迷うことも、間違うこともないという理屈になります。したがって、「無情説法」を聴くということは、これら無情のものたちが示す生き方、在り方の真実や真理から、私たち人間が積極的に学び取っていくことに他なりません。                
  この思想に習うなら、この老犀の説く声なき説法が、私たちに何を伝えようとしているかは明らかだと思います。
 仏教の世界観を特徴づける言葉として「色即是空(しきそくぜくう
)」、つまりこの世のあらゆる有形物は無形物に変化するという思想がありますが、それをもう少し段階的に説明したものに「成住壊空(じょうじゅうえくう)」があります。
 『成』は、世に生を受けることで、成長する過程も含みます。『住』は、活動する状態です。『壊』は、死を意味します。死に至る病気の過程なども含まれるともされます。『空』は、死んだ後に宇宙にとけ込んでいる状態です。
 この世のあらゆるものは生まれ、しばらくの間、その形をとどめる…、しかしやがては壊れ、形のない状態になる…、そして、それは永遠に繰り返される…。これが「成住壊空」という世界観です。

 この話に接し、かつて話題になったある絵本のことを思い出しました。アメリカの著名な哲学者であるレオ・バスカーリア博士が書いた生涯でただ一冊の絵本「葉っぱのフレディ」です。ご存じの読者も多いかと思いますが、ここでもう一度読み味わいたいと思います。
 春に生まれた〈葉っぱのフレディ〉は、物知りのダニエルから、自分たちのことや季節のこと、いろいろなことを教わりながら、夏の間、楽しく過ごします。しかし、秋が終わり、霜がやって来る頃になると死が近づいてきます。
 以下、原文のまま掲載します(みらいなな 訳)。(以下、③/④につづく)
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2016
12.05

“いのち”の引っこし③/④

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「さむいよう」「こわいよう」。葉っぱたちはおびえました。
 そこへ風のうなり声の中から、ダニエルの声がとぎれとぎれに聞こえてきました。
 「みんな引っこしをする時がきたんだよ。とうとう冬が来たんだ。ぼくたちは、ひとり残らず、ここからいなくなるんだ。」
 フレディは悲しくなりました。ここはフレディにとって、居心地のよい夢のような場所だったからです。
 「ぼくもここからいなくなるの?」
 「そうだよ。ぼくたちは葉っぱに生まれて、葉っぱの仕事を全部やった。太陽や月から光をもらい、雨や風にはげまされて、木のためにも他人のためにもりっぱな役割を果たしたのさ。だから引っ越すのだよ。」
とダニエルは答えました。(中略)
 「引っこしをするとか、ここからいなくなるとか、きみは言ってたけれどそれは---」
とフレディは胸がいっぱいになりました。
 「死ぬ、ということでしょ?」
 ダニエルは口をかたくむすんでいます。
 「ぼく、死ぬのがこわいよ。」とフレディが言いました。
 「そのとおりだね。」とダニエルが答えました。
 「まだ経験したことがないことは、こわいと思うものだ。でも考えてごらん。世界は変化をしつづけているんだ。変化しないものはひとつもないんだよ。春が来て夏になり秋になる。葉っぱは緑から紅葉して散る。変化するって自然なことなんだ。
 きみは、春が夏になるときこわかったかい?緑から紅葉するときこわくなかったろう?
 ぼくたちも変化しつづけているんだ。死ぬというのも変わることの一つなのだよ。」 (中略)
 その日の夕暮れ、金色の光の中をダニエルは枝をはなれていきました。
 「さようなら フレディ。」
 ダニエルは満足そうなほほえみを浮かべ、ゆっくり静かにいなくなりました。
 フレディは、ひとりになりました。               

次の朝は雪でした。初雪です。
 やわらかでまっ白でしずかな雪は、じんと冷たく身にしみました。
 その日は一日どんよりしたくもり空でした。日は早く暮れました。フレディは自分が色あせて枯れてきたように思いました。冷たい雪が重く感じられます。
 明け方フレディは迎えに来た風にのって枝をはなれました。痛くもなく、こわくもありませんでした。
 フレディは空中にしばらく舞って、それからそっと地面におりていきました。
 そのときはじめて、フレディは木の全体の姿を見ました。
 なんてがっしりした、たくましい木なのでしょう。これならいつまでも生きつづけるにちがいありません。
 フレディはダニエルから聞いた“いのち”ということばを思い出しました。
“いのち”というのは、永遠に生きているのだということでした
(以下、④/④につづく)

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2016
12.09

“いのち”の引っこし④/④

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フレディがおりたところは雪の上です。やわらかくて意外とあたたかでした。
引っこし先はふわふわして居心地のよいところだったのです。
 フレディは目を閉じ、ねむりに入りました。
 フレディは知らなかったのですが---。冬が終わると春が来て、雪はとけ水になり、枯れ葉のフレディはその水にまじり、土に溶けこんで、水を育てる力になるのです。
 “いのち”は土や根や木の中の目には見えないところで新しい葉っぱを生み出そうと準備をしています。
 大自然の設計図は、寸分の狂いもなく”いのち”を変化させつづけているのです。


 アメリカで作られた絵本でありながら、「色即是空」、「成住壊空」といった仏教の思想を補完するような筋立てには驚かされるばかりです。
 言うまでもなく、これは寓話です。しかし、私たちの心の奧深くに迫るのはなぜなのでしょうか。
 それは 〈葉っぱのフレディ〉の“いのち”に私たち自身の“いのち”を重ね合わせているからではないでしょうか。禅的な表現をするなら、私たちがこの“いのち”の物語に浸っているとき、私たちは〈葉っぱのフレディ〉になっていのだと思います。
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 ところで、先のエッセイ「犀の作る池」の中で、山川老師は、これは犀にだけ見られる特例ではなく、他の生き物も当てはまると述べています。他の生き物の中に人間が含まれていることは言うまでもありません。
 こんな指摘を受けると、私などは、内心忸怩たるものがあります。果たして、そのときに臨み、老犀のように泰然とした行動が取れるのだろうか、またその覚悟を育てるべく日々の生活を送っているのだろうかなどと自問すると、誠に心許ない限りです。
 そこで、最後にもう一つ「無情説法」に耳を傾けたいと思います。老師がこのエッセイの末尾に記されていた言葉です。


 この地球上において、独立した生命などはないということだ。まさに互いに生かし生かされている。その関わりの中に我々人間もいるということだ。例外など実は一つもない。それゆえに自分のためなどという言葉の、なんと浅薄なことかと改めて思うのだ。


  人間は、その誕生以来、自然の一部として存在しています。唯一の存立条件は、自然の循環の中で自然に寄り添い、自然とともに生きていくことにあります。
 ところが私などは、ともするとその事実から目を反らし、自分を中心にした生活スタイルからなかなか抜け出せません。この悪癖を改めるのは容易なことではありませんが、それでも日々、無情のものたちが示す生き方、在り方に想いを寄せ、少しでも「私心」を薄める努力は続けたいと思っているのです。(〆)

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2016
12.13

「渾沌」の死①/③

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   今回は、守谷 淳著『老子・荘子の教え』の中から『荘子』(応帝王篇)にある「渾沌の死(こんとんのしというたいへん不思議な寓話を紹介したいと思います。
 南海の皇帝を儵(しゅく)といい、北海の皇帝を忽(こつ)といいい、中央の皇帝を渾沌といった。この儵と忽は、たびたび渾沌の地で会合をしたのだが、そのつど手厚いもてなしを受けた。渾沌の厚意に感じた二人は、何かをお礼しようと相談した。
 「どうだろう、人間には目口耳鼻あわせて七つの穴があり、それで見たり聞いたり食ったり息をしたりしてするのだが、渾沌にはそれがない。ひとつ、顔に穴を開けてさしあげようではないか。」
 話が決まると、二人は一日に一つずつ穴を開けていった。すると七日目に渾沌は死んでしまった。
 寓話とは言え、たいへん奇っ怪な話ではあります。荘子の真意は果たしてどこにあるのでしょうか。
 ところで「渾沌」とは何でしょうか?読者はどのようなイメージを抱かれるのでしょうか。
 辞書を引くと、「天地開闢(かいびゃく)の初め、天地のまだ分かれなかった状態」とありました(広辞苑第六版)。平易な言い方をするなら、何が何だか分からない、グチャグチャな状態のことでしょうか。つまりは、人智の遠く及ばぬものであり、人間の分別や理解を超えたものということになるのでしょう。
 いつものように独りよがりな思索を巡らせながら、この寓話が発するメッセージについて考えてみました。
 「渾沌」という言葉に、仏教の中心概念の一つである「空(くう)」を連想させられます。『般若心経』の中で読まれる「色即是空(しきそくぜく)」の「空」です。荘子の師とされる老子が「道(タオ)」について問われたとき次のように答えているそうです。
 「目で見ようとしても見えない。だから形がない。耳で聞こうとしても聞けない。だから音がない。手で捕らえようとしても捕らえられない。だから手がかりさえもないのである。その実態さえ突き止めようがないので、そういうものだとして認めるほかない」
 「空」は、これに酷似する概念だと受け止めています。「空」というのも見えないし、聞こえないし、嗅げないし、味わえないし、触ることもできません。その意味では、まさに何が何だから分からないグチャグチャな状態とも言えるのだと思います。
 また、仏教では「空」を“からっぽ”の状態としては捉えません。逆に“あるもの”によって隈なく満たされた状態としています。したがって「空」というのは“あるもの”がグチャグチャな状態で充満しているといったイメージになります。仏教ではよく「不可思議(考えるとができない)」「不可説(説くことができない)」「不可商量(推し量ることができいない)」という言い方をしますが、まさにそうとしか表現のしようのないのが「空」です。(以下、②/③へつづく)
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2016
12.17

「渾沌」の死②/③

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 ではその“あるもの”と一体何か…?仏教では、それを「仏」あるいは「仏性」などと呼んでいます。したがって、荘子が示した「渾沌」と老子が説いた「」、そして仏教が教える「」は、ほぼ同意であると受け止めてよいのだと思います。
 ところで『般若心経』では、「色即是空」のすぐ後に「空即是色(くうそくぜしき)」と続きます。「空即是色」というのは、単純化して言うなら、“全ての有形物は無形物から成る”ということです。つまり、目に見えず、耳に聞こえず、鼻に嗅げず、舌に味わえず、手で触れることもできないものから形あるものが生じているということです。
 したがって「空」を「渾沌」に置き換えるなら、この世に出現しているあらゆる有形物は、「渾沌」が形を得たものということになります。同様に、「仏」についてもその実物が森羅万象であるということになります。
 そこで、荘子の「渾沌の死」の話です。話の中では、目、耳、鼻、口をつけたことで「渾沌」が死んだとあります。これをこの論理に当てはめるなら、「仏(仏性)」が死んだということになります。言い換えるなら、何が何だか分からない、グチャグチャなものが、何が何だか分からない、グチャグチャなものではなくなったということです。「渾沌」が、目、耳、鼻、口を持つもの、すなわち有形物に変化したということです。
 これは発想を換えれば、“人間になった”ということではないでしょうか。つまり「渾沌」の死は、人間の誕生でもあるということです。
 ただ、その内容がこのレベルに留まるとしたら、この寓話が後世まで読み継がれることはなかったでしょう。この先に、荘子の言いたいことがあるのだと思うのです。
 これまでも繰り返し述べてきたように、五官というのは不確かなものです。私たちの五つの感覚機能が独立した形では機能しないからです。それが働くとき必ず「わたし(自我)」の影響を受けることになります。どの機能も、「わたし(自我)」の好みや癖、都合などによって、本来の働きが抑えられてしまいます。そのため、いつも正しい認識ができるとは限りません。
 「貪・瞋・痴」に象徴される煩悩も、そのような五官の働きから生じるものです。「わたし」の狭く偏った知識や認識が他との対比や差別を生み(これが「痴」)、それがもとになって競争となり(これが「貪」)、ひいては紛争や戦争にまで発展(これが「瞋」)することもあります。そのような一連の所業を「渾沌」、あるいは「仏(仏性)」の死としたのではないでしょうか。
 つまり、人間は、目、耳、鼻、口を持ったが故に、「仏(仏性)」を失ってしまったということです。(以下、③/③へつづく)
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2016
12.21

「渾沌」の死③/③

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 今さら言うまでもないことですが、禅宗には坐禅という修行があります。坐禅というのは、背筋を伸ばし、両足を両足を組み、眼を軽く閉じ、口をつむるところから始まります。このとき顔にある7つの穴の内の3つの穴の機能を停止させることになります。ちなみにこのとき耳を塞ぐことできませんが、坐禅は多くの場合静寂の中で行われる修行ですから、その機能も抑えられているはずです。通常は、この状態で1本の線香が燃え尽きるまで、45分から60分もの時間を過ごすのだと聞きます。
 勝手な想像ではありますが、それは目と口、さらには耳の機能を封じ込めることによって「渾沌」の状態に戻ること、言い換えるなら自らに具わる「仏(仏性)」を蘇らせようとする修行なのかも知れません。あるいは、「わたし(自我)」が働かないようにするため訓練と言えるのかも知れません。
 ただ、これはあくまでも推測であり、本格的な坐禅な修行をしている人にこんな意識は全くないのだとは思いますが…。
 さて、ここまで読み進められた読者の中には、「見ザル、聞かザル、言わザル」のいわゆる“三猿(さんえん)”を思い出された方があるかも知れません。両眼、両耳、口をそれぞれ手で覆う猿に「ザル」をかけてたものですが、こんなふうに考えてくると、これは案外、「渾沌の死」の話をヒントにしたものかも知れないとも思えてきます。
 見えるけれども敢えて見ない…、聞こえるけれど敢えて聞かない…、言えるけれど敢えて言わない…、さらに言うなら、分けられるけれど敢えて分けない…、できるけれども敢えてしない…。このような在り方を推奨しているのが三匹の猿の姿だと思います。それは、日本人が長い歴史の中で培ってきた「わたし(自我)」の心を調(ととの)えるための智恵と言ってもよいのかも知れません。
 守谷氏は、「渾沌の死」の話を次のような具体的な例を出して締めくくっています。そのまま引用させていただきます。
 旅をしている最中に、人の手の入っていない大自然の景観を前にして「素晴らしい、最高の景色だ」と感嘆するのはよいのですが、やがて
「やっぱり道路がないと不便だな」
「自動販売機も欲しいな」
「別荘も建てよう。土産物屋も作ろう」
と手を入れていったとします。すると、自然本来の素晴らしさは払拭され、人工的な観光地になってしまった…。
 もちろん大自然に限らず、世の「合理的」とか「論理的」などといった論理で整理されがちなもの、すべてにこの現象は起こると、荘子は考えていました。
 「弁ずるは見ざる有り」(ものごとは、弁別していくと見えなくなってしまうものがある)。
 年末を迎えました。奇しくも今年は申年でした。来年は酉年です。毎年、干支は移り変わっていきますが、“三猿”が発しているメッセージを私たちは忘れてはならないように思のです。(〆)

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2016
12.25

ギャラリー52

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◎これまで掲載した水をテーマにした写真をギャラリー52」としてまとめました。 

 
水は百面相 どれも水の顔には違いない 
 しかし どれも本当の顔ではない 
 心も同じこと
 
今回の写真は、1~3は豊田市(足助)4~8は豊田市(阿知波池)で撮影したものです
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次回は「除夜の鐘」を掲載します。ぜひご訪問ください。




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2016
12.29

除夜の鐘①/①

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 今年も残りわずかとなりました。大晦日にお寺で鐘を突く光景は、日本の風物詩としてすっかり定着しています。また、直接、鐘を突かなくても、遠くにその鐘の音を聴くだけで、大晦日を感じるのは、私一人ではないと思います。
 ところで、除夜の鐘の数はといえば「百八つ」…。人間にあるとされる「百八つ」の煩悩を鐘を突くことによって取り除くというのが、その意味だと説明されています。
 では、なぜ「百八つ」か?諸説があるようですが、面白い話があります。
 「四苦八苦」という言葉あります。日常的によく使われているので、耳慣れた言葉ではありますが、語源は仏教にあります。
 仏教では、大きな四つの苦しみと、これとは別の四つの苦しみがあると説きます。大きな四つの苦しみとは、「生・老・病・死」のことです。
 「生」…生まれる苦しみ
 「老」…老いる苦しみ
 「病」…病む苦しみ
 「死」…死ぬという苦しみ
 次に、これとは別の四つの苦しみとして、次のようなものをあげています。
 「愛別離苦(あいべつりく)」…愛するものと別れなければならない苦しみ
 「怨憎会苦(おんぞうえく)」…憎いと思うものと出会わなければならない苦しみ
 「求不得苦(ぐふとっく)」…欲しいものが手に入らないという苦しみ
 「五蘊成苦(ごうんじょうく)」…生を受けていることそのものの苦しみ 
 前の四つの苦しみと後の四つの苦しみと合わせて「四苦八苦」といいます。仏教特有の面白い数え方です。
 そこで、除夜の鐘の「百八つ」に戻りますが、「四苦八苦」の「苦」を「九」に置き換えてみます。すると、「四九八九」となります。
 これをかけ算の九九に当てはめてみましょう。「四九」は「4×9」ですから「36」、「八九」は「8×9」ですから「72」…。
 次に、この二つの数字を足してみます。すると「36+72」ですから、答えは「108」ということになります。いかがでしょうか?
 よく考えたものだと思います。ただ、人間の煩悩の数が「百八つ」というのはどうなのでしょう。少なくとも、私の場合には、この数に収まらない煩悩があるように思えるのですが…。
 仏教には、「八万四千の煩悩」という言葉もあります。人間には、八万四千の煩悩があるから、その煩悩を根絶するために、八百四千万億の仏に会わなければならないとも言われます。正直なところ「八万四千」は、さすがに多すぎるのではないかと思うのですが、仮に一日に3種類の煩悩が生じ、80年の生涯を送ると想定してみましょう。すると、「3×365×80」ですから、延べにして「87,600」の煩悩ということになります。こう考えると「八万四千」という数字も、あながち根拠のないものではないようにも思えてきます。
 ちなみに、一日に3種類の煩悩というのは、私にとっては、極めて控えめな設定です。「3+α」となれば、恥ずかしながら、その数は増加の一途をたどることになるでしょう。
 幸いにして、我が家に最寄りのお寺は、例年、参拝者が多く、「百八つ」をはるかに超える鐘が打たれるようです。大晦日には、その音を聴きながら、限りなく無限に近い我が煩悩が一つでも多く取り除かれることを念じつつ、床につきたいと思っているところです。では、みなさんもよいお年をお迎えください。(〆)
                           (再掲 2011.12.27~30)
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次回は「飾り餅と七福神」を掲載(2回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。

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