2016
11.03

大夢俄に遷る ②/③

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 d79be758b09debe18277c1e4e04c197f (2)[荘子]
 ところが、あるとき荘子(そうじ )の思想に触れる機会があり、その著作の中にたいへん興味深い内容があることを知りました。
 ちなみに荘子は、紀元前3世紀頃、中国の戦国時代に活躍した人物で、今の河南省に生まれ、老子から大きな影響を受けたとされる思想家です。名前を周といったようです。
 『荘子』という書物の中にある「胡蝶(こちょう)の夢」という話を、臨済宗の僧侶で作家でもある玄侑宗久著「荘子と遊ぶ」から紹介したいと思います。
 自分が蝶になってひらひら愉しく飛んでいる体験をしたとき、人はとうぜんのことだが夢だと思うだろう。荘周(荘子のこと)も「夢に胡蝶となる」のだと最初は思った。しかしどう思い返しても、そのとき自分は蝶の「志」になりきって楽しく飛んでいた。そしてふと目覚めると、(夢の中にいたのは)まぎれもなく荘周だった。
 少し分かりにくいので、著者である玄侑氏の言葉を一部紹介します。
 「夢というのは、常に覚めた時点で過去の時間に対して下す判断である。その場合、あくまでも「今」を「現(うつつ」とみなしているわけだが、この「今」からも目覚めてしまうことだってあり得るのではないか。そうなると、もしかしたら今の荘周(自身)が、蝶の見ている夢かも知れない。そうじゃないという保証は何もない。(以下略)」
 「夢」と「現実」とが全く逆の場合もあり得るという主張です。先に紹介した「大夢俄に遷る」という禅の世界観とも非常によく似ており、たいへん興味をひかれます。直ちに受け入れることはできないかと思いますが、傾聴には値するのではないでしょうか。
 また、中国に仏教(とりわけ禅)が伝わったのは紀元1世紀頃、禅宗の開祖である達磨大師の渡来が6世紀ころと推定されていますので、それよりもはるか前に、禅の思想に連なる思想が中国にあったことにも驚かされます。
 そこで、この「夢」と「現実」の問題について、いつものように独りよがりな思索をしてみます。
 冒頭で、禅語「大夢俄に遷る」には“亡くなる”という意味があると紹介しましたが、「夢」から覚めれば「現実」に戻るわけですから、亡くなった後が「現実」であることになります。ところが、“亡くなる”ということは、生まれる前の状態に戻ることでもありますから、私たちが生まれる前と後が「現実」であり、生まれてからは「夢」に過ぎなくなります。
 飛躍が過ぎるかも知れませんが、もうしばらくお付き合いいだだきたいと思います。
 人類(ホモサピエンス)の起源は約20万年前とされます。その前の猿人(ピテカントロプスなど)なら約100万年前、生命の起源ということになれば約40億年前、さらに地球の起源ともなれば約46億年前とされます。また、“ビッグバン”まで遡れば、約138億年前ということにもなります。まさに天文学的な時間の流れの中に「今」があることになります。(以下、③/③につづく)
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2016
11.07

大夢俄に遷る ③/③

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 こんなふうに考えると、一人の人間が100年の生涯を送ったとしても、宇宙の営みからすれば、極々……一瞬の出来事であることが気づかされます。私たちが生まれる前には、途方もなく長い時間が流れていたわけですし、私たちが死んでからも途方もなく長い時間が流れるはずです。
 こうなると、私たちが生きている「現実」は、本当に「現実」なのか、むしろ私たちが生まれる前、死んでからの時間の方が「現実」と呼ぶのにふさわしいのではないかとの思いも浮かんできます。人間一人の生涯など「夢」のようなものであるという喩えもあながち外れていないようにも思えてきます。となれば、私たちが「夢を持とう」「夢に向かって進もう」などというときの「夢」(いわゆるAmerican Dream)は、もはや「夢」とも呼べないものになるでしょう。これが「小夢」なのでしょうか。

 ただ、こんな見方に立つと、私たちが生きることにどのような意味があるのだろうかと、何か空しい気持ちにもなります。どのように生きたとしても、所詮は「夢」の中での出来事なのですから…。
 ところが、次のような見方もできます。よいことが「夢」に終わることは忍び難いとしても、人生にはよいことばかりがあるわけではありません。悲しいときや辛いとき、思うようにならないときが必ずあります。しかし荘子の思想に随うなら、そのようないわば負の「現実」もいずれは「夢」になることになります。つまり、いいことも「夢」になるが、悪いこともやがては「夢」になるという理屈になります。
 こんなふうに考えると、何か勇気づけられ、気が楽になるのは私だけでしょうか。結局は、「今」をしっかり生き切ということだと思います。過ぎたことは変えられません。先のことは分かりません。「今」が順境であれ、逆境であれ、私たちにできることは、「大夢(だいむ)にわか)に遷(うつ)る」まで、「今」を精一杯に生きることしかできないのだと思います。また「小夢」を持ったとしても、あまりそれに拘わったり、縛られたりしないことではないでしょうか。
 最後に余談ですが、“禅の思想に連なる思想は以前から中国にあった”という言い方は正確さを欠くのかも知れません。歴史的な経緯からすれば、まず中国に老荘思想(老子と荘子の思想)が起こり、その後インドから禅の思想がもたらされ、中国に禅が確立したわけですから、日本にも伝来した中国禅の源流は、老荘思想の中にあったとも言えます。さらに言うなら、中国に老荘思想があったからこそ、禅の思想が中国に根づき花開いたと見ることもできます。
 今回は「夢と現実」の問題に焦点を当てたのですが、この他にも荘子の思想には禅の思想に重なる部分が実に多いことに気づかされます。玄侑氏の著作に頼りながら、しばらく、荘子の思想についても勉強してみたいと思っているところです。(〆)

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次回は、「恥ずかしいから使わない」を掲載(3回配信)します。ぜひご訪問ください。


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2016
11.11

恥ずかしいから使わない ①/③

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1-21 258 [ハネツルベ]

 今回も、玄侑宗久(臨済宗の僧侶、作家)著の『荘子と遊ぶ』の中にあった興味深い話を紹介したいと思います。
 孔子の弟子であった子貢が、あるとき南方の楚に旅した帰り、変わった老人が畑仕事をしていた。何と老人は井戸の近くからトンネルを掘り、井戸の底まで下ると水甕に水を汲み、それを抱えてはトンネルを上って畑に注いでいたのだ。
 あまりにも非効率なことを憐れんだ子貢は、この老人に“ハネツルベ”という水揚げのための便利な機械があることを告げ、それを使うように勧めた。すると老人は笑いながら、次のように答えた。
 「仕掛けからくり(機械)を用いるものは、必ずからくり事(機事)をするようになる。(中略)わしは“ハネツルベ”を知らないわけではない。ただ、恥ずかしいから使わないのだ」と。

 「恥ずかしいから使わない」というこの言葉が妙に気になりました。荘子は、何に対して恥ずかしいと言っているのか…。便利な機械を用いること、そして何よりも効率主義に走ることがなぜ恥ずかしいことなのか…。こんな疑問が頭を過ぎる読者も多いかと思います。
 「効率」を辞書で引いてみると「費やした労力に対する仕事のはかどりぐあい」とありました。仕事のはかどりを向上させようとするなら、機械や道具の存在なくして効率は考えられないでしょう。話の中にある“ハネツルベ”はそれを象徴するものと捉えてよいと思います。機械や道具によってなされた有用な仕事の量と、それによってもたらされる効果が高ければ高いほど効率はよくなります。
 私たち現代人の通常の感覚では、文明の利器を考案し、生活に役立てることは、むしろ誇らしいことではないかと思うのですが、それを恥ずかしいというのは、一体どういうことなのでしょう。以下、私見を述べてみたいと思います。
 この話から、私たちが学び取らなくてはならないことは明らかだと思います。荘子の“ハネツルベ”に象徴される現代の科学技術は、私たちが便利に快適に生活できるように生み出され、日々進歩してきました。そして、それは私たちの生活の隅々まで行き渡り、今や溢れんばかりです。
 ところが、「それによって幸福になったか?」と問われたとき、必ずしも肯定する人ばかりではないと思います。むしろ、息苦しく住みにくくなっていると感じている人も多いのではないでしょうか。その代表格がコンピュータ(ここでは制御機能を持つ小型の電子部品とします)ではないかと思うのです。(以下、②/③へつづく)

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2016
11.15

恥ずかしいから使わない ②/③

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 私たちの身の回りには、おびただしい種類と数のコンピュータが存在します。身近なところでは自動車やエアコン、テレビ、洗濯機、掃除機、カメラ、携帯電話、照明器具など、当たり前のことのようにコンピュータが組み込まれています。人間の意向に合わせてその機能が働くわけですから、確かに生活は便利で快適になりました。
 しかし、昨今はそのことがあまりにも当たり前になっているために、人間が持つ本来の瑞々しい感覚や感性の鈍化も懸念されます。それに、一旦、それらが故障すれば、私たち消費者は全くお手上げです。自力での修理などとてもおぼつきません。さらには、急速に普及を示しているパソコン、ケイタイ、スマートホンなどにまつわる、いわゆるネット犯罪など深刻です。その意味では、たいへん不便であり、不安な社会にもなりました。
 先の老人の答えの中に「機械を用いるものは、必ず機事をするようになる」という言葉がありましたが、「機事」とは物事を企(たくら)むことです。コンピュータに象徴される様々な機械を大量に開発・生産し、流通を拡大することで大きな利益を上げようというのは企(たくら)みに他なりません。そして、そのような企みによってもたらされる業(わざ)が、現在の私たちの不便や不安のもとになっているとも言えます。奇しくも、二つの文字を合体させると「企業」となるのは、何とも皮肉なことではあるのですが…。
 結局、「恥ずかしいから使わない」という言葉は、必要以上に文明に頼りすぎることへの警戒心を述べたものではないでしょうか。先のコンピュータの例のように、文明には光の部分と影の部分があります。そのことをしっかりと踏まえないと、その先に思わぬ落とし穴があるということです。
 また、先の老人の答えの中には、次のような文言があります。
 「からくり事(機事)をする者は、必ずからくり心(機心)をめぐらすようになる。からくり心(機心)が芽生えると心の純白がなくなり、そうなると精神も性(もちまえ)の働きも安定しなくなる。それが安定しなかったら道を踏み外すだろう」と。
 荘子の思想の基軸は「天」にあります。荘子に強く影響を与えた老子はそれを「道(タオ)」と呼んでいます。「天」あるいは「道」には深長な意味があるのですが、ここは単純に人が人としての生きていくべき「道」と受け止めてもよいのではないでしょうか。
 老人が恥じているのは、機械を使い、機事(企み)をする者となり、機心(偽りを企む心)が芽生え、やがては人としての「道」を踏み外すことなのだと思います。人間本来の力を用いず、その仕事を機械や道具に丸投げし、そこからもたらされる実体を伴わない価値判断に引きづられ、右往左往している現代人の姿が重なって見えるのは私だけでしょうか。(以下、③/③につづく)

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2016
11.19

恥ずかしいから使わない ③/③

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 昨年度、パリでCOP21が開催されましたが、合意文書の作成にたいへん難航しました。先進国、発展途上国が、それぞれの立場から自国に有利な主張を譲らなかったために、なかなか接点を見い出せなかったことがその原因でした。立場が違うのですから、言い分が異なるのは当然のことではあります。また、文明を全否定するなどということも現実的ではありません。
 ただ、地球温暖化の問題に代表されるように、地球を取り巻く問題はますます混迷を深めています。また国家間の経済格差から生まれる貧困に根を持つテロ集団の暴挙も深刻化しています。これなどは機心(偽りを企む心)による「人道」への背信と言ってよいでしょう。笑い話のようではありますが、このままでは将来、人類(ホモサピエンス)が絶滅危惧種の一つに加えられるのかもしれません。いえ、今私たちはその瀬戸際にあるのではないでしょうか。
 以前、本ブログ『世界で一番貧乏な大統領』で紹介したムヒカ大統領の演説の中に、次のような言葉がありました。


 目の前にある危機は地球環境の危機ではなく、わたしたちの生き方の危機です。(中略)ほんとうの原因は、わたしたちがめざしてきた幸せの中身にあるのです。見直さなくてはならないのは、私たち自身の生き方なのです。


  誠に鋭い警句だと思います。ムヒカ大統領の言う見直すべき私たちの生き方というのはどのようなことなのでしょうか。三つのことを考えてみました。
 一つには“より多くのモノを手に入れるようとする社会に満足などというのは幻でしかない”という自覚ではないでしょうか。
 二つには“心の満足は、決してモノによってのみもたらされるものではない”という確信ではないでしょうか。
 三つには、“今、文明の力を使えばそれが可能だけれども、敢えてしないでおく”という英断ではないでしょうか。
 「モノで栄えて心滅ぶ…」、これでは、人間の在り方としては本末転倒になります。荘子の考える「恥ずかしさ」のもとは、まさにここにあるのではないかと思うのです。
 結局は、発想の転換を迫られているのだと思います。禅で推奨される「少欲知足」という実践徳目も、荘子のこの思想に源流があるのかも知れません。シンプルであることが人間らしさを取り戻す鍵であり、「退歩」こそが実は「進歩」である…。それが人間として「恥ずかしくない」生き方に通じていく…。荘子の主張のポイントはこんなところにあるのであるないでしょうか。
 ただ、私たちにはそれが容易なことではないのです。(〆)
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次回は、「“いのち”の引っ越し」を掲載(4回配信)します。ぜひご訪問ください。




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2016
11.23

ギャラリー51

Category: 未分類
◎これまで掲載した水をテーマにした写真をギャラリー51」としてまとめました。 

 
水は百面相 どれも水の顔には違いない 
 しかし どれも本当の顔ではない 
 心も同じこと
 
今回の写真は、1~4が豊田市(阿知波池)で、また5~8が豊田市(足助川)で撮影したものです

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次回は、「“いのち”の引っ越し」を掲載(4回配信)します。ぜひご訪問ください。

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2016
11.27

“いのち”の引っこし①/④

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 今回は、山川宗玄老師(岐阜県美濃加茂市 正眼寺住職)の著書『生きる』の中にあったエッセイをもとに学んでいきたいと思います。老師がある人から聞いた話として綴られた「犀の作る池」と題されたエッセイです。誌面の関係もあり、原文を再構成して掲載させていただきます。
 アフリカのサバンナ地帯は、1年のうち雨が降るのは2、3ヶ月だけです。この過酷な条件下に生息する動物の一つに犀がいます。陸上では象に次ぐ大きさを誇り、攻撃力も守備力も傑出している犀ですが、乾期には生存の危機に晒されることになります。まして寿命には勝てません。
 死期を悟った老犀は不思議な行動を始めます。独り群れから離れると、地面に寝転がり、しきりに身を動かして窪みをつくるのです。そして窪みがある程度の大きさになると別の場所に移動し、再び窪みをつくります。老犀はそれを何度も繰り返します。
 この不思議な行動は何を意味するのでしょうか。それは雨期になると分かります。赤茶けた大地には緑が発生すると、赤や黄や白の色とりどりの花が咲き乱れ、そこには蝶や無数の虫たちが大乱舞を始めます。
 ところがその状態も2ヶ月ほどで終わりを迎えます。大地は急速に干上がり、再び乾燥期がやってきます。しかしよく見ると、あちらこちらの窪みに水が溜まり、小さな池ができています。老犀がつくった池です。そこからしばらくの間、この池から生命あるものたちに水が供給されます。
 この池もやがては涸れてしまいますが、わずかになった水を愛おしむように若い犀や他の動物、水鳥などが集まり、つかの間のオアシスになります。
 死を前にした老犀は自分では一滴の水も一本の水草も食べようとせず、そこで楽しむ仲間の様子を温かい眼差しで見つめながら、静かに自分の生命の消え入るのを待ちます。
 さて、読者はこの話をどのように受けとめられるでしょうか。(以下、②/④につづく)
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