2016
10.02

「瓦を磨く」①/③

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 『無門関(むもんかん』と並んでよく知られる禅問答集に『碧巌録(へきがんろく)』「馬大師不安(ばだいしふあん)」という則があります。「南嶽磨磚(なんがくせんま)」という逸話としても伝わる問答で、臨済宗の法脈上の源流を形成した南嶽懐譲(なんがくえじょう)禅師と馬祖道一(ばそどういつ)禅師のやり取りがもとになっています。ちなみに、このやり取りの後、馬祖禅師は南嶽禅師の弟子となったと伝わっています。
 馬祖禅師(以下、馬祖とします)が坐禅の修行をしていたとき、南嶽禅師(以下、南嶽とします)が問いかけました。
「大徳(馬祖のこと)よ。坐禅をして何を図っているのか。」
「仏になろうと思います。」
すると南嶽は、かたわらにあった瓦を一枚手にして、馬祖の前で磨き始めました。それを見た馬祖が尋ねました。
「瓦を磨いてどうするのですか。」
「磨いて鏡にしようと思う。」
馬祖は言いました。
「瓦を磨いても鏡にはならないでしょう。」
それを聞いた南嶽は、次のように言いました。
「瓦を磨いて鏡にならなければ、坐禅をしてどうして仏になることができるのか。」
馬祖は当惑して尋ねました。
「では、どうしたらよいのですか?」
南嶽は言いました。
「もし牛に車をつけたとしよう。車が動かないとき、車を打てばいいか、牛を打てばいいか?」
「それは、牛を打ちます。」
南嶽は言いました。
「そうだろう。車を打っても車は動かん。人間も身体を座らせたからといって、仏になれるはずがない。問題は心だ。」
 そう言われた馬祖は、ようやく自らの非を悟り、南嶽の弟子にとなって修行のし直しをしました。

 読者は、このやり取りをどのように受け止められるでしょうか。
 まず前半の「瓦を磨いても鏡にはならない」という件ですが、これは瓦には瓦としての役割があり、鏡には鏡としての役割があることを説いたものであり、よく理解できるのではないでしょうか。瓦は鏡になれません。鏡も瓦にはなれません。それぞれに素晴らしい価値があり、それぞれに尊いということを説いたものだと思われます。
 問題は、後半の件です。坐禅して仏になろうとしていた馬祖に対して、南嶽は、「坐禅しても仏にはなれない」と突っぱねました。そして、牛と車の例え話を持ち込み、馬祖にその行為の非を知らしめました。これが禅問答の要点だと思われます。(以下、②/③につづく)

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2016
10.06

「瓦を磨く」②/③

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 そもそも禅で行われる厳しい修行というのは、なんのために行われるのでしょうか。「悟り」を開いて仏に近づくためというのが、一般的な理解ではないでしょうか。
 道元の開いた曹洞宗では「只管打坐(しかんたざつまり、ただひたすらに坐禅に打ち込むことによって成仏につながるとされます。坐禅をすることにより、自己(自我)が脱落し、生き生きと仏性が活動するということです。南嶽の「坐禅しても仏にはなれない」という教えとは相容れないようにも見えます。果たして、南嶽の言葉の意図はどこにあったのでしょうか。また、心の問題とはどのような意味なのでしょうか。
 先日、数年前から通っている禅セミナーで、このことについて山川宗玄(やまかわそうげん)老師(岐阜県美濃正眼寺住職)から一つの見解が示されました。それは、「仏になろう」とすること自体が「仏から遠ざかる」ことになるという逆説めいた指摘でした。
 禅の思想によれば、仏というのは“無心”、つまり“私心が無い”状態にある自分のこととされます。仏になろうなどと欲を出して坐禅するなどということは、仏とは遠い行為だということです。
 山田無文(やまだむもん)老師は、次のように述べています。(「六祖壇経」の提唱より)。
  仏などというものが空間にあるはずはない。他の世界にあるはずものない。人間を取って除いて、どこにも仏など探し求めるところはない。…自分の心がそのまま仏だ。身贔屓(みびいき)で枉(ま)げさえしなければ、利己的な欲望に囚われたりしなければ、「自心是れ仏」だ。人間の心が皆な仏様である。…自分の心の中の良識が仏だ。こう信じるほかに仏を求めるところはない。
 これが禅(禅宗)の基本的な立場だと理解しています。白隠(はくいん)禅師が『坐禅和讃』に「衆生本来仏なり」と詠っているように、人は誰も生まれながらに仏であるとされます。ところが、煩悩がそれを覆い隠しているために、私たちは仏に気づくことができません。坐禅も含め、禅で実行される厳しい修行は、自分の中にもともと仏があることを見届けるために行われるものです。
 結局、南嶽禅師にしても山川老師にしても、何も求めず、何も考えずにただ坐ることの大切さを説いたのだと思います。無文老師の言葉を借りるなら、そこに身びいきや利己的な欲望を持ち込まなければ、私たちは“そのままで仏である”ということになります。だから仏になろうなどと欲をかけば、逆に仏から遠ざかってしまうというわけです。
 牛と車の話も、そのことの本末転倒を諌めたものではないでしょうか。車を打っても動くはずもありません。それを曳く牛に鞭を当てなければ車は動きません。すでに仏の身であるのにもかかわらず、坐禅をして仏になろうなどというのは、根本と末梢とを取り違えていることになります。そこを南嶽は「心の問題」としたのではないでしょうか。(以下、③/③につづく)

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2016
10.10

「瓦を磨く」③/③

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 ところで、人は生まれながらにして、仏あるいは仏性(仏になる性質)を具えているという禅の主張にどうしても同意できないという読者もあるかも知れません。仏教は性善説に立脚する宗教ですが、そもそもそれにどんな根拠があるのかという疑問に根ざすものかと思います。
 購読している書籍の中にたいへん興味深い文章を見つけました。神経科学や薬理学を専門とし、海馬や大脳皮質の可塑性を研究されているという池谷裕二(東京大学大学院准教授)の話でした。その一部を紹介します。


 「共感」という反応は生物進化の過程で作り上げられてきた。…淋しさや孤独を感じるとき、脳では「痛み」を感じる部位が反応する。前頭葉にあるACC(前帯状皮質)という領域である。ACCという領域は、(心が痛む、胸が痛むなど)「孤独感」に反応する他、「共感」に対しても反応する。相手が痛い目に遭っていたり、辛そうにしているとき、自分も「痛そうだな」「辛そうだな」と感じてあげられるのが「共感」だが、このとき脳では、「痛み」の神経が働いている。つまり、相手と同じ立場に立って、痛みを本当に分かち合っているのである。
 この神経は、生物の進化の過程でも、かなり初期の頃の動物、例えば魚類や両生類などの時代から、長い時間をかけて精巧に作り上げてきたものだと考えられる。(動物たちは)進化の過程で、もともとあった神経系を使い回している…。   


  これを仏教の性善説の根拠にするとしたら、あまりに乱暴でしょうか。私はそうは思いません。「(動物たちは)進化の過程で、もともとあった神経系を使い回している」という指摘は、注目に値すると思います。「共感」という反応は、仏の持つ「慈悲」という働きに通じるもです。それが生物進化の過程で、魚類や両生類などの時代から作り上げてきたのであるとするなら、人間の心の内には間違いなく「慈悲心」が組み込まれているはずです。言うまでもないことですが、人間は最も遅れて誕生してきた動物です。
 無文老師は次のようにも述べています。


 生まれたままの純粋な自己の本性(仏)を見届けることが坐禅である。…純粋な人間性が自覚されれば、道徳はそこに自然にそなわっている。…悟りを開けば何をしてもそれが善だ。何もないところから生じる心は全て善である。行えば全て善である。


 余りにも楽観的すぎるのではとの声もあるかも知れません。あるいは、それを「信仰にかかわる問題」と受け止める読者もあるかも知れません。しかし、私は人間の心の奥底に自我を超越した「純粋な本性(仏)」が息づいているという仏教の考え方にたいへん心惹かれるのです。
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 最後に余談です。先日、ある公園に写真撮影に出かけたとき、傍らに古そうな小さな石のお地蔵さんを見つけました。そのお顔は永年にわたる風雪の影響からかすっかり崩れてしまい、その表情を窺い知ることができないほどでした。ただ、その胸には真新しい赤い前掛けが掛けられ、きれいな花も手向けられていました。そのとき、とある思いが脳裏を過ぎりました。
 仏というのは崩れかけた石の塊にあるのではなく、それを拝む人の心の中にあるのではないかと…。考えすぎでしょうか?(〆)

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次回は、「主人公を生きる」を掲載(3回配信)します。ぜひご訪問ください。



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2016
10.14

ギャラリー50

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◎これまで掲載した水をテーマにした写真をギャラリー50」としてまとめました。 

 
水は百面相 どれも水の顔には違いない 
 しかし どれも本当の顔ではない 
 心も同じこと
 
今回の写真は、すべて豊田市(阿知波池)で撮影したものです

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50-3安城歴史博物館

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次回は「主人公を生きる」を掲載(3回配信)します。ぜひご訪問ください。

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2016
10.18

「主人公」を生きる ①/③

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 禅問答集『無門関』の中にある有名な則の一つに「巌喚主人(がんかんしゅじん)」というのがあります。瑞巌師彦(ずいがんしげん)という禅師が登場する、次のようなたいへん短い話です。
 ― 瑞巌和尚は、毎日自分に向かって「おい、主人公」と喚びかけ、自分で「ハイ、ハイ」と応えた。そして、続いて「しっかりしなされや」。「ハイ」。「どんなときにも他人に騙されてはなりませんぞ」。「ハイ、ハイ」と自問自答した ―。
 これだけの内容です。ちなみにこの禅問答の中では、瑞巌和尚が呼びかけている「主人公」とは何かを問われているようです。
 「主人公」という言葉に、読者はどのようなイメージを持たれるでしょうか。おそらくは、映画やドラマ、小説、脚本などの中で活躍する中心人物のことを連想される読者が多いと思います。また、その場合の「主人公」は、ヒーロー(英雄)として描かれることが多いのため、何があっても動じることも揺るぐことのない、泰然自若とした強者のイメージが強いかと思います。その意味では、静的なイメージもあるのかも知れません。
 ところが禅が言う「主人公」はこのイメージとはかなり異なるものです。そこにヒーローなどのイメージがないことは言うまでもありません。ここでの「主人公」というのは、現実の自分を超えたところにある本来の自己(主体的自己)とも言うべきものです。
 また、禅が追究する「主人公」は、決して静的なものではなく、むしろ動的なものとして説明されます。こんな言い方をします。曰く、
 「素晴らしい月だと眺めているときは月が自分になり、きれいな花を見つめているときは花が自分になり、子どもに会えば子どもの心になり、お年寄りに会えばお年寄りの心になる…」と。
 ただ、これを本来の自己の有り様とするなら、あまりに主体性がないのではないかとの疑問も湧くかと思います。相手によってコロコロと変わるような在り方の中に主体性を見いだすことはできないという見方です。
 もっともな指摘だと思います。しかし、ここは一度、主体性ということについて禅がどのような捉え方をしているかを確認しておく必要があるように思います。
(以下、②/③につづく)
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2016
10.22

「主人公」を生きる ②/③

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 禅では、主体性とは、あらゆる束縛から解放され、自由自在な様子を言います。したがって、禅の捉える主体性の特徴は、自由自在に心を働かせることにあります。
 自由ということは、自らに由るということです。自在ということは、自ずから在るということです。いずれの場合も「無心」、つまり私心が無い状態にある自分のことであり、力(りき)んだり、怯(ひる)んだりすることなく自然体で動いていける自分のことです。心に何もないから、いつどこでも何にでもなれ、自由自在だからこそ、本来の力が発揮できるということです。反対に、心に何かかがあると、それに囚われ、縛られてしまって、心の自由が失われてしまいます。そのために持ち前の力が発揮できません。
 好成績を収めたスポーツ選手が、その競技を振り返り、「無心」で臨んだことの効用に言及しているシーンをよく見聞きすることがありますが、これなどは前者の例でしょう。反対に、結果を意識したばかりに動きが悪くなり、目指すパフォーマンスができなくなるというのは後者の例でしょう。
 もう一つ、身近な例を出してみたいと思います。車の運転の場合です。免許を取り立ての頃には、ただひたすら前方に視線を置いてハンドルを握ったのではないでしょうか。とても、周りの景色を眺めるような余裕はなかったはずです。
 ところが運転に少しずつ馴れてくるとその視線は、バックミラーやサイドミラーなどにも広がってきます。そして、そのうちには車外の景色も目に入ってくるようになります。さらに馴れてくれば、スピードメーターやタコメーターなど、計器類にも目が向くようにもなります。そうなれば、私たちは自然体となって、自由自在に運転が楽しめます。禅が主張する主体性とはこのような有り様のことではないでしょうか。
 運転者が車外の景色ばかりに気を取られたり、スピードメーターやタコメーターばかりを見ながら運転していたら、その結末は明らかです。また、悩み事や心配事などを抱えながら運転する場合も同様でしょう。安全運転はとてもおぼつきません。いずれの場合も、心が一つの「こと」に囚われ、縛られしまうために、自由が奪われてしまうからです。
 禅では、本来の自己を、きれいに磨かれた鏡に喩えることがあります。
 その前に月があれば月を写し、花があれば花を写し、お年よりが立てばお年寄りを写し、子どもが立てば子どもを写し…、
 
といった具体です。もし月だけしか写さない鏡や、子どもだけしか写さない鏡があったらどうでしょうか。あるいは、前に写したものの姿をそのまま留める鏡があったらどうでしょう。それは、鏡とは言えせん。きれいに磨かれた鏡だからこそ、何でも写すことができるのです。これが、曇りも濁りもない、清らかな心、つまり「主人公」のイメージに重なるのだと思います。  (以下、③/③につづく)

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2016
10.26

「主人公」を生きる ③/③

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 ところで、このように本来の自己、つまり「主人公」を生きることにどのような利点があるでしょうか。以下は私見です。
 これまで繰り返して述べてきたように、来の自己というのは、一つのところに留まらないところにその特徴があります。「無心」、あるいは「無私」の状態にある自分であるからこそ、自然体で自由自在に対応できるということです。結局は、“切り替え”の問題なのではないでしょうか。
 「あ~ァ、あのときは××してしまった。○○しておけばよかったのに情けないことだ…」「あのとき△△さんに言われたことが許せない。絶対に忘れない…」など、私たちにありがちな体験ではあります。
 しかし、禅によれば、このようなときが、心が滞り、固まった状態だということになります。“自我(エゴ)”の働きによる種々の執着のためです。そこに悩みや苦しみの主因があるということです。
   “切り替え”というのは、その場その場で、その「こと」に全力で臨みながらも、場面が変われば素早く切り替え、後に尾を引かないということです。禅では、その様子を鏡に喩えるのだと思います。
 これまでも本ブログで繰り返し述べてきたように、本来の自己(主体的自己)、つまり瑞巌和尚の「主人公」というのは、誰もが生まれながらにして具えているものです。ただ、私たちがそれを実感的に捉えることには大きなハードルがあります。そもそも「無心」、「無私」などという境地は、そうそう簡単に得られるものではありません。
 そこで提案です。本来の自己、つまり「主人公」へのアプローチを“速やかな切り替え”として実践してみてはどうでしょう。それは執着している“わたし”にいち早く気づき、素早く離脱することに通じるのではないかと思うのです。そして、それが次の段階での“新たな成り切り”につながるのではないでしょうか。これが「主人公」が投げかけているメッセージだと思うのです。決して簡単なことではありませんが、これなら私でも取り組んでいけるような気がするのです。
 もっとも、あまり徹底すると、周囲から「あの人は、このごろ歳のせいか物忘れが激しくなった」などと言われかねないので、そこは注意が必要かも知れませんが…。(〆)

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次回は、「大夢俄に遷る(だいむにわかにうつる)を掲載(4回配信)します。ぜひご訪問ください。

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2016
10.30

大夢俄に遷る ①/③

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夢を求める 
 禅には、「大夢俄に遷る(だいむにわかにうつ)」という言葉があります。読者はこの言葉からどのように事柄を想像されるでしょうか。「大夢」とは大きな夢のことであり、「遷る」は移行することですから、永年培ってきた大きな夢が急に実現することになったなどと受け止められるかも知れません。しかし、残念ながら、これでは合格点をもらえません。実は、人が“亡くなる”ことを述べたものです。
 「遷る」には、場所をかえてよそへ移るという意味があります。大きな夢を見ていた状態からよそへ移るわけですから、それは覚めることにほかならないのですが、それを“亡くなる”ことと喩えるところがいかにも禅的であるのかも知れません。
 では「大夢」とは何か…?死ぬことを「大夢」から覚めたとするなら、その後はどうなるのか…?また、「大夢」があれば「小夢」もあるのか…?など、様々な疑問も湧いてきます。
 そこで一つの手がかりとして、江戸時代に活躍した傑僧の一人である沢庵(たくあん)禅師にまつわる逸話を紹介したいと思います。
 沢庵禅師(江戸時代の初期に活躍した臨済宗の高僧)は、その最期に臨み、集まった僧たちから遺偈(ゆいげ)を請われると「夢」という一文字を揮毫(きごう)し、坐ったままの姿勢で亡くなったと伝えられます。沢庵禅師の生涯は、実に波乱に富んだものではありましたが、想像するところその73年の生涯を俯瞰し、「夢」のようなものであったと総括したのだと思います。
 また「夢」と言えば、豊臣秀吉の辞世の句「つゆとおち つゆときへにし わかみかな なにわのことも ゆめの又ゆめ」も思い出されます。戦乱の世を巧みに渡り歩き、地位と名声を高めながら、最後には全国統一という大事業を成し遂げた秀吉にあっても、死に臨むと自分の人生など「夢」のようなものだったというのでしょう。これも禅の思想に通じるのではないでしょうか。
 私たちが通常は「現実」としているものを「夢(大夢)」とし、“亡くなる”ことをその「夢」から覚めることとするこの驚くべき世界観は、果たしてどこに起源を持つのか、私がかねてから気になるところではありました。(以下、②/③へつづく)
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