2016
07.02

時間が経てば腹が減る①/④

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1 [中国・臨済院]
 臨済宗の宗祖、臨済義玄禅師の言行をまとめた『臨済録』に、かねてから気になっている文言があります。
 師、衆に示して曰く、道流(どうる)、仏法は、用功(ようこう)の処(ところ)無し。祇(た)だ是れ平常無事(びょうじょうぶじ)。屙屎送尿(あしそうにょう、著衣喫飯(じゃくえきっぱん)、(こん)じ来たれば即ち臥(が)す。愚人(ぐじん)は我を笑う。智は乃(すなわ)ち焉(これ)を知る。
 山田無文老師(昭和に活躍した臨済宗の高僧)の解説を見てみたいと思います。
 仏法というのは、とくに努力するべきものではないのだ。…悟りが開けるまでは努力をしなければならんが、悟りが開けてしまえば、もう努力することもない。そこまで行かないと本物ではない。…
 悟りが開けたらもう努力することはない。ただ当たり前でいいのじゃ。この当たり前がすばらしい当たり前だと気づかねばいかん。…
 糞を垂れたかったら垂れたらいい。小便がしたかったら小便したらいい。当たり前だ、当たり前だけれども、これができんようになったら、人間おしまいだ。…
 朝起きたら着物を着て、ご飯を頂戴する。くたびれたら横になって寝る。それだけだ。…
 こんなことを言うと、社会の人は笑うだろう。なあんだ、十年も禅をして修行せんでもいいじゃないか。悟りの開けんものはこういって笑うかも知れんが、分かっておる人にはそうだ、そこだと分かるのである。

 修行僧に向けた提唱(講話)ですので、文中に尾籠な表現も含まれていますが、どうぞお許しください。
 さて、臨済禅師の言葉ですが、私がとりわけ気になるのが、「屙屎送尿、著衣喫飯、困じきたれば即ち臥す」という部分です。無文老師の解説を頼りにすれば、意味そのものは分かります。食事をしたり、トイレに行ったり、寝たりという、ごく当たり前のことを述べたものだと思います。ところが、前後の脈絡からすると、それが仏法に叶った在り方だというわけですから不思議なことです。食事をすること、トイレに行くこと、寝ることが、仏法とどのような関係にあるというのでしょうか。
 また、周知のとおり、大乗仏教の最も根本的な意義は「衆生済度(しゅじょうさいど)」にあるわけですが、これらのことを当たり前と気づくことが、人々を迷いから救い、悟りに導くことと、どのように結びつくのでしょうか。疑問は増すばかりです。(以下、②/④につづく)
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2016
07.06

時間が経てば腹が減る②/④

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3
 
 ところで、先日、ラジオ放送で、興味深い話を聴きました。仏教関係者へのインタビューの中でのやりとりでした。概ね、次のような内容でした。
 時間が経てば腹が減る…。これは人間誰しも同じことだ…。そこに人間としての連帯感が生まれ、他者への思いやりの心も芽生えてくる…。実は、仏教が説いているのは、こんな単純なことなのではないだろうか…。
 少し大袈裟かも知れませんが、眼から鱗が落ちる思いでした。
 時間が経てば、誰でも腹が減ります。そして、それを満たすために食事をすれば満腹になります。その後、なにがしかの時間が経てば下腹が張ってきます。そこでやむなくトイレに行くわけですが、用を足してしまえば楽になります。
 同様に、一生懸命に働けば誰もが疲れて眠くなります。ところが、布団の中で何時間かの睡眠をとれば、その後は、爽快な気分となります(もっとも、これはよく眠られたときに限られますが)。
 言うまでもなく、これらのことは当たり前のことばかりです。人間なら、誰もに共通することであり、時代や社会、性別、年齢、国籍、文化、言葉、職業、貧富など一切無関係です。このことを踏まえ、人間という言葉(あるいは概念)を別な言葉(概念)で括るとしたら、さしずめ「地球人」ということにでもなるのでしょうか。
 このような発想をもとに、人間相互の一体感や連帯感、さらには思いやりや慈しみの心のことを論議するとしたら、あまりにも楽観的すぎるでしょうか。
 確かにそうかも知れません。現実がそんなに甘いものでないことは、よく理解しているつもりです。
 ただ、ますます混迷を深め、閉塞感を加速させる現代社会の様相を見るにつけ、今、私たちに欠けているのは、このような原初的かつ巨視的な発想や視点ではないかとの思いが募るのです。(以下、③/④につづく)

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2016
07.10

時間が経てば腹が減る③④

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2

 ところで、先に紹介した『臨済録』の一節の続きを読み進んでいくと次のような一文が出てきます。


(なんじ)、(すべか)らく随所に主と作(な)れば、立処(りっしょ)皆な真(しん)なり


 『臨済録』の中で最も有名な言葉だとされ、「随所主作立処皆真」、あるいは「随所主作」などの熟語で、掛け軸などに揮毫され、よく目にする禅語ではあります。しかし、この言葉もなかなか難解です。次のような意味があるようです。
 いつどこにいて、どんな立場にあっても、何ものにもとらわれず、常に主体性を持って生きていくなら、外界の渦に巻き込まれたり、翻弄されるようなことはなく、そこに真実がある…。
 解釈の仕方によっては、自我の発揚を鼓舞し、自己主張を奨励するかのような受け止め方もできるので、誤解される向きもあるかも知れませんが、臨済禅師の真意はまったく別のところにあるようです。
 無文老師は、次のように解説しています。


 自分が一番大事だ。戦後の教育ではこういうことが盛んに言われておるのであるが、どうかすると、誰の言うことも聞かん。俺一人が正しいのだ、と間違って受け取られるが、この「主」というのは、俺ではない。自我ではない。
 「主」ということは威張ることではない。自我があってはいかん。自我のない透明な心、それは自分と他人の区別のない心である。(そのような心に気づき)どこへ行ってもわしの世界だと思えば、(すべてのものを)大事にせずにはおれん。可愛がらずにはおれん。…
 この世界はみんな自分の家だ。その中に暮らしておる人はみんな自分の子どもだ。これが随所に主と作ることだ。そういう愛情と責任がなければならん。


 無文老師によれば、臨済禅師の説く「主」というのは、個人が求める自己都合を優先させた主体性とは別ものです。いわゆる自我(エゴ)を指すものではなく、自我(エゴ)を排除した先に生まれてくる主体性のことです。その意味では、いわば「地球人」としての主体性とでも言うべきものかも知れません。
 したがって、そこに自我が介入する余地はありません。自己と他者の垣根もありません。だからこそ、その先に他者に対する無条件な「愛情と責任」が醸成されてくるということなのだと思います。
 「随所主作立処皆真」…、臨済禅師は、相対世界を超えたところにある絶対的な主体性(心)こそ真実であり、その働きに叶う生き方の中に人としてのあるべき本来の姿があると説いているわけです。(以下、④/④につづく)
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2016
07.14

時間が経てば腹が減る④/④

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4

 私たちは相対差別の世界の中に生きています。相対世界では、自他をいかに厳しく峻別するかが大きな関心事です。一人一人、国籍や文化、言語、思想、あるいは性別や年齢、能力、適正など、まさに千差万別です。そして、その中でいかに自己をアピールし、他者との違いを示すかが求められ、それが、社会の中で優位に立つための必須条件にもなっています。
 しかし、臨済禅師は、相対差別の世界の中にあっても、絶対に峻別できないものがあると言います。それが、「屙屎送尿、著衣喫飯、困じきたれば即ち臥す」ことなのだと思います。重要なのは、それが例外なく“生きる”ことに直結しているという事実はないでしょうか。言うまでもなく、これらの機能を失えば、私たちは生命を維持できません。当たり前であることが素晴らしい…、当たり前であることが尊い…。臨済禅師の発しているメッセージの真意ここにあるのではないでしょうか。
 私たちは「地球人」として生まれ、「地球人」として生き、「地球人」としてその生涯を終えるという運命にあります。そのことは誰も逃れられません。
 “生きる”という事実に根ざし、「地球人」として求められる普遍的な主体性(つまり「主」)に気づくなら、自我(エゴ)に囚われた小賢しい知恵や知識などは役に立たなくなります。そればかりか、それが不必要な選別や差別、競合や競争を生み、私たちの苦悩の原因にもなりかねません。
 仏教には“慈悲”という実践徳目があります。相手と共に喜んだり、楽しんだりするのが“慈”であり、相手と共に悲しんだり、苦しんだりするのが“悲”であるとされます。「地球人」として生きるという高度な自覚があれば、“慈悲”の心が芽生え、その先に「衆生済度」という思想と行動が開かれるということではないでしょうか。
 “本当の賢さとは何か…?”“本当の幸せとは何か…?”これが臨済禅師が突きつけている問いかけなのだと思います。

 先に紹介したラジオ放送でのやりとりのように、仏教、とりわけ禅の説く真意は、案外、単純なことなのかも知れません。ただ、単純であるからこそ、難しいと言えるのかも知れません。力不足ではありますが、私はそこに挑戦したいと思っているのです。(〆)
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2016
07.18

庭石に根づいた松 ①/④

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image_13627098953.jpg [山川宗玄老師]

  数年前から禅に関するセミナーに参加しています。講師は、山川宗玄老師(やまかわそうげん)(岐阜県 正眼寺住職)です。ちなみに正眼寺(しょうげんじ)は、臨済宗妙心寺派の専門道場(修行僧たちのために開かれた寺)で、“天下の鬼叢林(てんかのおにそうりん)との異名もある、たいへん厳しい修行で知られる寺院です。
 セミナーでは、これまで山川老師からは、白隠禅師の「遠羅天釜(おらてがま)廓庵和尚(禅師)の「十牛図(じゅうぎゅうず)の講義を拝聴しました。いずれも高度な内容ばかりであり、勉強不足の私にはレベルには合わないのですが、その周辺にある老師の体験談や実話などがたいへん興味深く、毎回、楽しみに会場のある名古屋まで足を運んでいます。
 その山川宗玄老師(以下、老師とします)が、先日、テレビ出演されました(NHK Eテレ「心の時代」)。タイトルは「日々是好日-生かされて生きる-」でした。 番組は、ディレクターとのインタビュー形式で進められましたが、セミナーで拝見する様子と変わることなく、いつもながらの穏やかで、気負いも衒いもない話ぶりに、改めて老師の器量の大きさを感じました。
 お話の中では、大きく4つの柱があったように思いました。それは、およそ次のようなものでした(ただし、あくまでも私の受け止めであり、必ずしも老師の意図に叶うものではなことを断りしておきます)。
  修業時代のこと(入門直後、厳しい修行の中での不思議な体験)
  ○ 他力と自力の関係(正眼寺の庭石に根づいた松の幼木の実話)
  ○ 仏法に奉じること(手巾を身につける意味と気づかされた自我の働き)
  ○ 「好日」の語に込めたもの(末期癌の女性に贈った「好日」という言葉と女性の心の変容)               
                   
 禅セミナーで伺った話も含まれていましたが、改めて興味深く拝聴したのは、「自力と他力」についてのお話でした。
 「他力浄土門(たりきじょうどもん」、「自力聖道門(じりきしょうどうもんなどという言い方もあるように、「他力と自力」の問題は、「浄土門(浄土宗、浄土真宗などの宗派の総称)」と「聖道門(臨済宗、曹洞宗などの宗派の総称)」の間でよく取り上げられる問題だと認識しています。
 ちなみに、別の機会ではありましたが、他力については、次のような説明を目にしました(鈴木永城著「お経の意味がよくわかる本」より)。

 阿弥陀仏の本願をよく信じて喜びの心を起こせば、煩悩を断たなくても悟りを開くことができる。
 一方、自力については、次のように理解しています。
 外部にある力に頼らず、自分の力を信じ、厳しい修行により煩悩を断つことで、悟りを開くことができる。 (以下、②/④につづく)

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2016
07.22

庭石に根づいた松 ②/④

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20121101171116.jpg[正眼寺庭石の幼松]

 これだけを見る限り、「他力の思想」と「自力の思想」は全く対極にあるようにも思えます。いずれも最終目標は「悟り」を開くことにあるわけですが、そこに至る方法に違いがあります。
 乱暴な区分をするなら、「悟り」を開くために、他者の力を頼りにするか、それとも自分の力を頼りにするかということです。
 ただ、「浄土門」も、「聖道門」も、それぞれの立場から真摯に「悟り」のプロセスを説いているのであり、どちらが正しいなどと軽々には判定できるものではありません。結局は、受け止める側の判断に委ねられるのだと思いますが、たいへん気になる問題ではあります。
 そこで、老師のお話に戻ります。老師は、この問題に対して、「他力と自力は裏表の関係にある」との前置きをされた上で、たいへん興味深い実話を示されました。それが、正眼寺の本堂前にある庭石の上に根づいた松の幼木の話でした。
 余談ですが、このお話はセミナーの講義の中でも伺ったことがありました。そのときは、確か“珪化木けいかぼくの庭石と紹介されたように記憶しています。“珪化木”と言えば、土砂等に埋もれた樹木が、膨大な年月をかけ化石化したもので、たいへん硬いとされる岩石の一つです。その上に、松の幼木が育っているというのだから、たいへん不思議なことです。
  老師のお話の正確を期すために、ご自身の著書「無心の一歩をあゆむ」から、文章を抜粋して紹介したいと思います。
 さて、この頃、本堂前の庭に、少し奇妙な光景が見える。小岩のような庭石から、松の苗が育っているのだ。
 今、四五十センチに伸びて緑鮮やかだ。
 まさに石の裂け目、隙間を探し出しては、根を奥深く食い込ませ、僅かな水分と養分とで生長している。(中略)
 だが、どうしてこうなったのか。
 この庭には、石畳の参道を境にして、反対側に大きな大きな松の木が二本ある。
想うに、そこから松笠が風に吹かれて飛んで、偶然この庭石の上に落ちた。しかも、毎日、掃除をする雲水に見咎められずに打ち過ぎ、いつか冬の陽か春の陽気に暖められ、乾燥した松笠が蕾を開いて、松の実、種子を落としたのであろう。そのうちの一つ二つが、この庭石の裂け目に入った。
 とはいえ、もし雨が降らず日照りが続けば、芽が出ることはない。また、雪が降り続き氷漬けのようになれば、芽はおろか、生命も絶えてしまうのではないか。
 幸い冬を越えて、春の雨に目覚めた種子が、少しずつ芽を出し、根を裂け目に入れた。(中略)
 大袈裟ではあるが、人知を超えた天の仕組みがそこにはある。そして、この過酷な条件でも苗は生長し、一本の木になろうとしている。
 小衲(老師自身のこと)は、雲水たちにこの松に水や肥料をやること、また手に触れることもならないと言っている。驚異的な自然の仕組み、働きから生まれたのだから、一切自然に任せるべきで、喩え日照りが続こうが、豪雪になろうが、それに耐えうる力はこの松に備わっている。
 種子には無限の能力があって、この松はそれを開花させたに過ぎない。それゆえに、逆に甘やかされた途端、その能力を失って枯死するのではないか。(中略)だが我々も種子である。仏の種子である
。(以下、③/④につづく)

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2016
07.26

庭石に根づいた松 ③/④

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01-00.jpg[正眼寺山門]
 「他力と自力」という問題に対して、老師がこの実話を引用されたことをたいへん興味深く受け止めました。
 この話の中で、「他力」とは何でしょうか。言うまでもなく、松を取り巻く大自然の大きな働きということでしょう。具体的には、松笠を庭石まで運んだ風の力であり、松笠を開かせた陽の力であり、さらにはその種子を発芽させた雨の力などが考えられますが、その他にも、様々な自然の力が複合的に組み合わされ、その生長を支えたに違いありません。ここでの「他力」とは、老師が述べている「人知を超えた天の仕組み」に当たるものと言ってよいかと思います。
 では、「自力」とは何でしょうか。言うまでもなく、松笠が硬い庭石の上を安住の場所に選んだとは思えません。そもそも松笠に意思や意図があろうはずもありません。松笠は、偶然にも庭石の上に運ばれたのです。
 石や岩などというのは、植物の生長にとって最も不向きな場所であるはずです。しかし、それにもかかわらず、松笠はその場に留まり、見事に根づいたのです。このとき、松笠(あるいは松そのもの)が本来的に具えている生命力こそが「自力」ではないでしょうか。老師の言葉を借りるなら、種子(植物)の持つ「無限の能力」ということだと思います。
 では、これを「他力と自力」の問題についての回答として見た場合、どのように受け止めていけばよいのでしょう。
 この点について、山川老師は、あまり多くを語られませんでした。ただ、次のような言葉を示されました。「現成受容(げんじょうじゅようという言葉です。
 さまざまな条件が折り重なって今の結果があることを禅では「現成」といいます。私が生を受け、今までこのような人生を歩んできたこと、そして今、このように生きていることも、すべては「現成」しているということです。したがって、「現成」は選べるものではありません。また、拒めるものでもありません。私たちは、黙ってそのままに受け入れるしかありません。それを禅では「現成受容」といいます。
 こんなふうに言うと、「現成受容」というのは、主体性に欠けた、受動的で消極的な生き方のように見えるかも知れません。ところが、この言葉には、その裏に次のような意味が隠されています。
 それは、すべてを受け入れることによって、自らの内に潜在する素晴らしい能力(老師の言う「無限の能力」)が発揮されてくるという考え方です。たいへん前向きで積極的な考え方です。(以下、④/④につづく)

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2016
07.30

庭石に根づいた松 ④/④

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 正眼寺の庭石に根付いた松は、この「現成受容」を見事に体現しているのではないでしょうか。
 「浄土門」の思想によれば、「他力」というのは阿弥陀仏の本願のことですが、これを別な言葉で表現するなら、自然界に漲る大いなる力と言ってもよいでしょう。具体的には、松の周囲に働いている様々な自然の力のことです。一方、「自力」というのは、松が本来持っているたくましい生命力のことと言ってよいと思います。
 このように考えると、「他力と自力」は決して別なものではなく、二つ力の合力によって今の松の姿があることになります。それはこれまでもそうであったはずですし、これからもそうであるはずです。また、このように考えるなら、この世に存在するあらゆる事物、事象も「他力と自力」の合力によってもたらされていると言えます。
 したがって、松の在り方を「現成受容」という思想に基づいて捉え直して見るなら、次のように言うことができるのではないでしょうか。
 “自力により他力に気づき、他力を受け入れることで、新たな自力が生まれる”
 「現成受容」というのは、「他力と自力」という双方の力を認めた上で、それを超越する見方と言えます。
    したがって、このような視点から物事を眺めてみるなら、「他力と自力」という対比はその意味を失うのではないでしょうか。老師は、これを「他力と自力」は表裏の関係にあると述べられたのだと思います。まさに卓見だと感じました。
 ただ、こんなふうに言うと、庭石に根付いた松と「悟り」を開くこととの間に一体どんな関係にあるのか、いぶかしく思われる読者もあるかも知れません。この点に関しては、次のように考えてはどうでしょうか。
 私たち自身も「他力」だけで生きているわけではありません。また「自力」だけで生きているわけでもありません。繰り返しになりますが、「他力と自力」という、二つの力を得て生きています。「他力と自力」の合力の中にこそ、“生きることの真実”があります。
 過去は変えられない…、未来のことは分からない…、だから、今を、この場所で、無心に生きていく…、そこに素晴らしい力が発現される…。これが「悟り」の様相ではないかと思うのです。そのことに目覚め、体現することを「悟り」とするなら、松はすでに「悟り」の世界を生きていると言えるのだと思います。
 結局、「悟り」というのは遠い世界のことではなく、ごく身近なところにあるということ、これが正眼寺の松が発している「無情説法(むじょうせっぽう」ということなのではないでしょうか。  (〆)
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次回は、「昼間に星を見る」を掲載(4回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。

                                                         


 



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