2016
06.04

“角成らず”で勝つ ③/④

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4 (2)

 この解説も難解ではありますが、平易に言うなら、次のようなことかと思われます。
 「平常心(あたりまえの心)」というのは、相対・差別の世界の中にあって、それを超越した境地のことであり、そこから流れる水のごとくに生まれる智恵に随って生きることで、本当の「道」開かれてくる…。一つの道に向かってああいこうか、こういこうかを思い、迷うこと自体が誤りであり、そのような在り方の中からは、決して本当の「道」は開かれない…。 
 そこで、将棋の話に戻ります。永瀬六段がコンピュータに勝利できたのは、まさに「平常心」で臨んだからではないでしょうか。
 将棋には定跡というものがあります。辞書で調べてみると、「長年の研究によって、双方ともに最善とされる、決まった形の指し方」とありました。あの手かこの手かと選択のプロセスを積み上げ、お互いが最善と考えられる一連の手のことです。いわば戦法をマニュアル化したものです。相対世界の典型とも言うべき将棋の世界にあって、定跡の構築は避けて通れないプロセスと言っていいでしょう。
 永瀬六段と対戦したコンピュータは、ありとあらゆる定跡をインプットされ、その膨大な情報を駆使して対局に臨みました。ところが、それにもかかわらず、“角ならず”という奇手に対応できず、「王手放棄」という反則で、あえなく敗北しました。言うまでもなく、そこに“定跡外れ”という想定外のことが起きたからです。
 南泉禅師の示した「平常心」というのは、差別・相対性を乗り越えたところから生まれる心であり智恵です。定跡にこだわることなく“角ならず”という奇手、いえ“妙手”を繰り出した永瀬六段は、まさに南泉禅師の示した「道」を見い出したと言えるのではないでしょうか。
 想定外といえば、東日本大震災の発生直後から、国政や企業の責任者、さらには学者などが盛んに口した言葉でした。体裁のよい言葉ではありますが、稀有な自然災害に対する備えの不十分さを自ら暴露したようなものであり、それが「言い訳」の意味を持つことは、子どもでも理解できることでしょう。(以下、④/④につづく)

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2016
06.08

“角成らず”で勝つ ④/④

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 では、私たちは、南泉禅師からの問いかけに、どう答えたらよいのでしょうか。そこでいつもように、身の程知らずな私見です。
 それは、過去の情報をあまり当てにしないということではないでしょうか。言い換えるなら、心をニュートラルにし、マニュアルにこだわらない在り方です。差別・相対性を原理とした世界の中で培われてきた智恵には、限界があということです。
 差別・相対の世界では、「AよりもB」、「いやBよりもC」。「いやいやCよりもD」…。このような議論が永遠に続けられています。そして、Dを最終的な結論として固定していると、さらに新たな結論が登場します。つまり、「いやいやEの方がさらに上だ…」と。
 B、C、D、Eは、すべて想定外です。差別・相対の世界にあっては想定外の連続です。私たちは、常に想定外の世界の真っただ中にいます。その意味では、私たちが想定外という言葉を口にしたとき、それは、私たちの驕りを示していることになるのではないでしょうか。原発事故などに触れて、国政や企業の責任者、あるいは学者などが想定外という言葉を口にすることがありますが、その時点で、人間は敗北を認めたことになるのだと思います。
 「平常是道」を拡大的に解釈するなら、「平常心」を貫くということは、常に「想定しないことが起こる可能性がある」ことを覚悟しながら生きていくこではないでしょうか。そうすれば、現実に想定外のことが起こったとき、私たちは必要以上に慌てたり、パニックなったりしないで済むのかも知れません。
 「将棋電王戦FINAL」でのコンピュータは、奇しくも想定外の妙手により、いわばパニックとなって反則を犯しました。コンピュータは、入力された過去のデータによって機能するものです。過去に「ない」ものは「ない」と考えるコンピュータに、想定を超えた発想は生まれないということだと思います。逆に、過去にこだわらない、無文老師の言う「流れる水のような心境」から生まれる柔軟で変幻自在な発想は、人間だからこそできのだと思います。南泉禅師の真意は、この辺りにあるのではないかと思うのです。

 ちなみに、コンピュータに想定外というデータが入力されていれば、勝負は分からなかったと思われる読者があるかも知れません。しかし、南泉禅師の説く「平常是道」の領域にコンピュータに入り込む余地があるとは思えません。棋士が、定跡を離れ、想定外の妙手を打ち続ければ、人間がコンピュータに負けることはないと思うのですが…。
 さて、将棋に詳しい読者はどのように考えられるでしょうか。(〆)

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次回は、「言葉が通じない」を掲載(4回配信)します。ぜひご訪問ください。





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2016
06.12

言葉が通じない ①/④

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1_20150627101507bc9.jpg [盛永宗興老師]

 京都・花園大学の学長を務めた臨済宗の僧侶に盛永宗興(もりながそうこう)老師があります(1925~1995)。老師は、大徳寺での15年間の修行後、石庭で有名な龍安寺の山内にある大珠院の住職をしながら、さまざまなところで講演をされたのですが、その講演記録をまとめた書籍に「禅・空っぽのままに“生”きる」があります。禅の本質が、平易な言葉で分かりやすく語られており、私が頭から離れない本の一つです。今回は、その中にあった話をもとに、思うところを述べてみたいと思います。
 次は、その内容の一部です。
 私たちは、今、共有している豊かさ、便利さ、あるいは自由という幸せを手に入れていると思っているかも知れませんが、実は、この幸せと思っているものが、我々を罰するためのものであるということに思いをはせなくてはいけないのです。(中略)
 同じ日本語を使っているから、神から別々の言葉を与えられて罰せられているとは思わないかも知れませんが、実は、私たちは言葉が通じなくなっているのではないでしょうか。(中略)
 資源が足りない、限りのある地球上の資源が足りないことはみんな知っているけれど、自分がまず倹約しようというという気は起こさない。地球環境が汚染されているということは分かっているけれど、「政府がやるだろう」「社会福祉がやるだろう」というだけであって、お互い一人一人、骨身にしみて重大な問題として感じていない。おそらく言葉が通じていないのです。現代は、そういう時代です。
 今の幸せは「我々を罰するためのもの」という指摘にドキリとさせられました。“幸せ”と“罰”とは表裏一体の関係にあるということです。盛永老師(以下、老師とします)の真意は、どのようなところにあるのでしょうか。
 政治家が、学者が、そしてボランティアの人たちがいくら口酸っぱく環境問題の深刻さを説き、環境対策を具体的に示しても、なかなか打開への道が開けないのが現実です。理屈では分かってはいても、実践には高いハードルがあります。老師は、そのことを喩えて、「言葉が通じなくなっている」と言っているのだと想います。一向になくならない交通事故の問題にも、同様のことが言えるのかも知れません。
 また、これとは少し離れるかも知れませんが、身近なところにも考えさせられるような光景を見出すことができます。先日も、電車に乗る機会があったのですが、車内にいた若者たちのほとんどが、無言でスマートフォンを操作していました。画面を見ながら、ただひたすら指を動かしているその様子には、異様さえ感じました。
 また、近くの公園には、複数の子どもたちが、横並びになって無言でゲーム機とにらめっこしている姿も見受けられます。子どもの遊びが変化したと言ってしまえば、それまでのことではありますが、遊び盛りのはずの子どもたちのこんな様子を見ると、呆れるのを通り越して、寂しささえ覚えます。(以下、②/④へつづく)

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2016
06.16

言葉が通じない ②/④

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 ところで、すでにお気づきの読者もあるかと想いますが、老師はこの本の中で、「バベルの塔」の話を引用していました。旧約聖書の「創世記」中に登場する巨大な塔にまつわる神話です。共同作業により塔を造ろうとしていた人間たちに、神は、別々の言語を与えるという方法で罰を与えたというあの件です。老師の話をもとに調べてみると次のようでした。
 神はノアの息子たちに世界の各地を与え、そこに住むよう命じていた。しかし人々は、石の代わりに煉瓦を漆喰の代わりにアスファルトを用いるなど、新技術を用いて天まで届く塔をつくり、名声を上げ、人間が各地に散るのを免れようと考えた。神は降臨してこの塔を見て、「人間は言葉が同じなため、このようなことを始めた。人々の言語を乱し、通じない違う言葉を話させるようにしよう」と言った。このため、人間たちは混乱し、塔の建設をやめ、世界各地へ散らばっていった。
 旧約聖書によれば、神は「バベルの塔」の建設という行為に対する“罰”として、人間から言葉を奪ってしまったということです。もちろんこれは神話の世界での話ではありますが、この話は何を伝えようとしているのでしょうか。
  まず、人間にとって「バベルの塔」とは何のことなのでしょうか。くどくどしい解説は不要かと思います。それは、人間の驕りを象徴するものでしょう。神が人間から共通の言葉を奪ったのは、人間の驕りを戒めるための神罰だったということです。
 さらに、「バベルの塔」には、人間が求める豊かさのシンボルとしての意味もあるかと思います。では、人間が求める豊かさとは何でしょうか。一言で言えば、物質的豊かさではないでしょうか。科学技術の発達がもたらす、さまざまな苦労からの解放という言い方もできるかも知れません。
 汚いこと、辛いこと、危ないことなど、嫌なことはできるだけ避けて通りたいのが私たちの常です。めざましい発達を続ける科学技術のお蔭で、私たちはずいぶん嫌なことから解放されました。今や多様で精巧な機械やコンピュータなどが、完璧なまでに人間の代わりをしてくれています。(以下、③/④へつづく)

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2016
06.20

言葉が通じない ③/④

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 私たちの生きる社会は便利で快適にはなりました。そして、このような状況を指して、私たちは“幸せ”と呼んでいるのだと思います。
 ところが、その反面、人間関係が希薄になり、コミュニケーションのチャンスは、間違いなく減っています。防犯カメラなどの普及に伴う、互いへの不信感と警戒心の増大も、それを象徴するものの一つと言っていいでしょう。これが、老師が言う“幸せ”と“罰”とは、表裏一体のものであるということなのだろうと思います。
 また、老師は別のところで、「人間は『バベルの塔』を永遠に未完成に終わらせるような生活を送りはじめている」と指摘しています。人間社会に、これまで以上のコミュニケーションの深化は望めないというのです。まことに、ショッキングな指摘ではあります。
 では、私たちは、このような現状に対して、ただ手をこまねくだけなのでしょうか?
 禅には「不立文字(ふりゅうもんじという言葉があります。言葉や文字にとらわれない…、言葉や文字をあてにしない…、という禅の立場を述べたものです。しかし、これは、言葉や文字など不要だから、一切頼りにするなということではないと思います。言葉や文字をすべて否定したら、日常生活は、恐ろしく不便になるだろうと思います。いえ、正常な状態では機能しなくなってしまうことでしょう。
 私見ではありますが、「不立文字」が伝えようとしている真意は、文字や言葉を超えたところにあるコミュニケーションの大切さを言っているのではないかと思うのです。
 老師は、本の中で次のような、興味深い例を挙げています。
 家族全員、握り飯でも持って同じ山に、お父さん、お母さんも子供も登ったとしましょう。一歩一歩と足が重くなっていく、全身から絞り出すように汗が出る、息は喘いでくる、みんな一緒に同じ体験をして、山へ登っていく。そして、頂上からずーっと景色を眺めて、「わー、きれいやな」「おい、きれいだな」「あなた、きれいですね」と、この「きれい」という言葉は、百パーセント通じ合っている「きれい」です。そして、帰ってきてからの思い出話に「山登りのときは、お父ちゃんえらかったな」「そやったな、汗ようけ出たなあー」この言葉もまた百パーセント通じ合っている言葉です。
 「きれい」も「えらかったな」も言葉ではあります。しかし、老師は、この言葉は、「百パーセント通じ合っている」と言います。
  私たちは、今、めざましい発達を続ける科学技術と、それに付随する多様で膨大な情報(文字や言葉を含む)に囲まれ、その中で生きています。いえ、それ以外の生き方は考えられないというのが実態ではあります。(以下、④/④へつづく)

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2016
06.24

言葉が通じない ④/④

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 しかし、よく考えてみれば、情報というのは、誰かの目で見、誰かの耳で聞き、誰かの頭で考え、誰かの心で感じたことでしかありません。とりわけマスコミを通して報道される情報は、編集者など第三者のフィルターを通すことでしか存在し得ません。私たちは多くの場合、“生”の情報に接していないのです。そこから発せられる言葉や文字が、一向に骨身に沁みないのは、このことに原因があるのではないかと思うのです。
 これに対して、老師は、「きれい」や「えらかったな」を「百パーセント通じ合っている言葉」と言っています。それはなぜなのでしょうか。
 一つには、体験に基づく、まさに“生”の情報(“生”の言葉)のやり取りだからではないでしょうか。体験することでしか得られない、血の通った情報(言葉)を通してのコミュニケーションであるということです。
 また、もう一つには次のような側面もあるのでしょうか。「きれい」も「えらかったな」も、その場を繕うような便宜的な言葉ではありません。まったく嘘も偽りもない、全身からほとばしり出た言葉です。言い換えるなら、それは人間なら誰もが持つ、原初的な感覚(心)に根ざした言葉であるということです。万人が例外なく具える感覚(心)に根ざし、そこから導かれてくる言葉だからこそ、互いの心に響き合うのだと思うのです。
 科学技術の発達によって獲得した“幸せ”と、“罰”としてのコミュニケーションの崩壊という現実に向き合うとき、現代を生きる私たちに求められることはどのようなことなのでしょうか。あいにく、今の私はそれに対する明確な回答を持ち合わせていません。また、それを導き出すような力もありません。
  ただ一つ言えることがあるとするなら、今こそ私たちは一度、立ち止まり“幸せ”の意味を改めて見つめ直すべき時期にさしかかっているということではないでしょうか。いたずらに生活を高度化・複雑化することばかりが“幸せ”ではないという反省や自戒の念が芽生えてきたとき、見えてくるものがあるのかも知れません。
 いずれにしても、これまでも繰り返し述べてきたように、私たちは「知足」にこそ本当の「満足」があり、「シンプル」にすること、つまりは「捨てる」ことの中にこそ「進歩」があるという発想の大転換を迫られているのだと思います。そして、それが“人間は一人では生きらない”という揺るぎない事実を再確認することに通じるのではないかと思うのです。
  たいへん難しい課題ではあります。しかし、私には、この方向性以外に“罰”から逃れる道はないと思うのですが…。
 読者はどのように考えられるでしょうか。(〆)

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2016
06.28

「ギャラリー47」

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◎これまで掲載した水をテーマにした写真をギャラリー47」としてまとめました。 

 
水は百面相 どれも水の顔には違いない 
 しかし どれも本当の顔ではない 
 心も同じこと
 
写真1は知立市(知立弘法)、2~6は碧南市(碧南海浜公園)、7は碧南市(あおいパーク)で撮影したものです

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次回は、「時間が経てば腹が減る」を掲載(4回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。
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