2016
05.03

炭素でつながる輪 ②

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 これはハンバーグです。食べ物ですから、もちろん、たくさん炭素が入っています。今からG先生に食べてもらいます。(※G先生、ハンバーグを食べる。)
 G先生はハンバーグを食べて元気になったので、運動をしたくなりました。そして、運動したので、たくさん「二酸化炭素」を出しました。
 では、ここで「炭素」を見せたいと思います。(※木炭の実物提示する)。これが、炭素です。ふだんが目に見えないですが、物を燃やすと見えるようになります。これは、木を蒸し焼きにしたものです。
 さあ、これから「炭素の旅」が始まります。どんな旅になるのでしょう?

  G先生の出した「炭素」は、どうなるでしょう?
 だれか「二酸化炭素」を食べてくれませんか?(※ここで、柿役の子どもAが前に出る。G先生が木炭を柿役の子どもに渡し、Aと手をつなぐ。)

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 G先生の出した「二酸化炭素」は、柿の木が吸ってくれました。「炭素」は柿の体に入りました。柿の木は、秋になると実を付けますが、この実の中にも「炭素」は含まれています。
 だれか柿の実を食べてくれませんか?
  (※ここで、カラス役の子どもBが前に出る。柿役の子Aは、木炭をBに渡し、Bと手をつなぐ。)

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 柿の実をカラスが食べてくれました。「炭素」は、カラスの体の中に入りました。そして、カラスのお腹の中で変化が起きて、柿の実はウンチになりました。そして、カラスはウンチをしました。もちろん「炭素」はカラスのウンチにも入っていきます。地面に落ちたカラスのウンチは、この後どうなるでしょう?
 だれか食べてくれませんか?
(※ここで、バクテリア役の子どもCが前に出る。カラス役の子どもBは木炭をバクテリア役の子どもCに渡し、Cと手をつなぐ。)

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 地面に落ちたカラスのウンチは、土の中にすんでいるバクテリアが食べてくれました。「炭素」はバクテリアの体の中に入りました。
 だれかバクテリアを食べてくれませんか?(※ここで、ミミズ役の子どもDが前に出る。バクテリア役の子どもCは木炭をミミズ役の子どもDに渡し、Dと手をつなぐ。)(以下、③/③につづく) 

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2016
05.07

炭素でつながる輪 ③

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 バクテリアはミミズが食べてくれました。「炭素」はミミズの体の中に入りました。そして、ミミズがウンチをしました。「炭素」はミミズのウンチの中に移りました。
 だれかミミズのウンチを食べてくれませんか?
 ミミズのウンチなんてだれも食べないと思っているかも知れませんが、ミミズのウンチは、とてもよい土をつくります。これを喜ぶのはだれでしょうか?(※ここで、草原役の子どもEが前に出る。ミミズ役の子どもDは木炭を草原役の子どもEに渡し、Eと手をつなぐ。)

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 ミミズのウンチでできたよい土のおかげで草がたくさん育ち、草原になりました。「炭素」は草の中に入っていきます。
 誰か草を食べてくれませんか?(※ここで、牛の子どもFが前に出る。草原役の子どもEは木炭を牛役の子どもFに渡し、Fと手をつなぐ。)

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 その草を牛が食べました。「炭素」は、牛の体の中に入りました。
 草を食べて大きく育った牛はどうなりますか?人間はその肉をハンバーグなどにして食べていますね。ハンバーグには「炭素」が入っています。だから、それを食べた人間のところへは、また「炭素」が戻ってくることになりますね。(※ここで、牛の子どもFは木炭をG先生に渡し、手をつなぐ。)
 これで「炭素」でつながる命の輪ができましたね。

 このようにそれぞれの生き物の命は、「炭素」によってつながっているのです。どんなふうにつながっていると言えるでしょうか?
 それは、それぞれが助けられて、助けるという関係の中でつながっていると言えるのではないでしょうか。それぞれが、互いに支えられ、支えているということです。
 もし、「この中で一番偉いのはだれ?」と聞かれたとしたら、どう答えますか?「人間」と答える人はいるでしょうか?
 「炭素でつながる命の輪」の中では、何一つ要らないものはないし、何一つ無駄なものはないことが分かります。A~Gまで、みんながそれぞれに大切な役割を持ち、みんな平等です。決して、人間だけが偉いわけではありません。人間も「炭素」でつながるの命の輪の一部です。それぞれの命は「炭素」でつながっているということです。
 さて、このことから私たちは、どんなことを学び、これからどのように生活していったらよいと思いますか?考えを聞かせてください。(〆)

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次回は、「点と点を結ばない」を掲載(3回配信)します。ぜひご訪問ください。

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2016
05.11

「点」と「点」を結ばない ①/③

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 2歳半になる孫が毎日やってきます。そんな折、これまで撮り溜めてきた写真を見せることがあります。当然のことながら、その成長ぶりは目を見張るものがあり、新生児のころの写真から今の孫の姿を思い浮かべることはできません。
 それは孫にとっても同じはずです。その写真を見せれば、そこに写っている“奇妙なもの”が自分であるとはとても信じることなどできないはずです。当然のように、孫は戸惑いの表情を見せます。写真を見つめ、ただぽかんとしているだけです。そんなとき私がいつもかける言葉は、次のようです。
 「これは、Aちゃんの赤ちゃんのときの写真だよ。これはAちゃんなんだよ」と。
 2歳半にもなると、学習する力はそれなりに芽生えてきています。こんな働きかけを繰り返せば、孫にも写真に写っている“物体”が自分であるという認識はできてきます。そして、写真を見せれば、即座に「Aちゃん」と答えるようにもなります。学習ができたということでしょう。
 ただ、これは孫にとっては不本意なことなのかも知れません。それは「奇妙なもの=Aちゃん」と教えられ、そう答えているだけだからです。孫にしてみれば、鏡で見る自分以外に自分はいないのですから…。
 孫が、今の自分だけが自分であると思うことは至極自然なことです。私が撮り溜めた孫の姿は、誕生直後、生後1週間、1ヶ月、3ヶ月、半年、1年、2年と明らかに異なります。しかし、そのときそのときで、それは紛れもなく孫の姿を収めたものです。
 いうまでもなく人間は新陳代謝を繰り返しています。それは細胞の更新であり、言葉を換えるなら“人間の更新”とも言えるものです。人間は約7年で、構成分子の全てが入れ替わると聞きます。極端に言うなら、昨日の自分と今日の自分は異なるし、今日の自分と明日の自分も異なるという理屈です。つまり、同じ自分はないということです。もし「あなたは誰ですか?」と問われたとしたら、「一体いつの自分のことですか?」と、逆に問い返すしかないのではないでしょうか。
 自分の写真を見たときの孫の戸惑いというのは、この事実に直面することによって生じるものではないかと思うのです。孫には「今」しかないのです。つまり、孫は「点」でしか物事を捉えていないのです。(以下②/③につづく)

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2016
05.15

「点」と「点」を結ばない ②/③

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   私たち大人(人間)は、抜き難く「点」と「点」を結びつける傾向があります。自分の持つ感覚や感情、尺度や価値観などを織り交ぜながら、「点」と「点」とを結びつけ、自分なりに意味づけをすることで心の安定を図っています。それは、私たち大人の特性でもあります。しかし、そこに意外な盲点が隠されているのかも知れません。もう一つ卑近な例を挙げてみたいと思います。
 96歳になる義母と同居しています。義母には認知症の症状があります。そのために、その世話(実質的には介護)となると一筋縄ではいきません。世話をする妻にすれば実母であり、全てのことを受け入れざるを得ない状況にはありますが、現実は誠に厳しいものがあります。私ができることと言えば、妻の愚痴を聞くことくらいしかありません。
 ただ、そんな折にふと思うことがあります。それは、妻は「点」と「点」を結んでいるのではないかということです。つまり、子どもの頃、厳しくも愛情を込め懸命に育ててくれた母のイメージと今の母の姿とを結びつけ、重ね合わせることによって生じるギャップに苦悩しているのではないかということです。「母は、昔自分に教えてくれたことができない…」「昔の母はこんなではなかったのに…」など、こんな想いが妻を苦しめているのではないかと思うのです。
 玄侑宗久氏(臨済宗の僧侶、作家)の話から、古い部派仏教の中に面白い時間論があることを知りました。
 縄の先に火が着けます。火は「点」の状態で徐々に燃えていきます。それをゆっくり回したとします。当初は火のついた縄の先は「点」に見えるます。ところが回す速さをだんだん上げるにつれて「点」は見えなくなり、やがては「線」になり、「輪」になって見えてくるはずです。これを「旋火輪(せんかりん)とい呼ぶのだそうです。
 回っている間にも、縄の先の火は「点」のはずです。いわば非連続の状態です。しかし、これを速く回すことによってやがては「輪」になって見えます。この「輪」に実体はありません。ただそのように見えるだけです。
 ちなみに、仏教によれば、火のついた縄を動かす力が、時間を生み出しているとされるようです。
 玄侑氏は次のように述べてます。
 「我々の人間の頭の中には、抜き難く時間を連続せしめようとする力があります。しかし、これが連続しているというのは、非常によろしくないという考え方もあるのです。非連続の時間は、非連続のままでいいのではないかというのが、坐禅です。坐禅している時間というのは、(中略)、記憶に残りにくいのです。というのは「記憶する」という作業は、この縄を回すということによってしかできないからです。」
以下、②/③につづく)

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2016
05.19

「点」と「点」を結ばない ③/③

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 玄侑氏が述べる「人間の頭の中にある、抜き難く時間を連続せしめようとする力」というのが「記憶する」ということでしょう。仏教では、それを火の着いた縄を回すことに喩えるのだと思います。
 「記憶」というのは言葉や文字などによる知識の蓄積です。それに基づいて私たちの思考は始まります。その先に分別や比較、分析、判断、そして受容や拒否などといった思考活動があるのだと思います。例えば「あのとき、あの人は○○をした」「また、別のあのときは△△と言った」など、「点」と「点」の情報を結び合わせ、「だからあの人は□□だ」などと一方的にまとめてしまいます。
 「記憶」やそれに基づく様々な思考活動は社会生活を営む上で必要なことではあります。しかし、注意しなければならないのは、それらが自我(エゴ)の影響下で行われるという事実です。本来独立している「点」と「点」を無理やり都合よく結びつけてしまっているのです。したがって、そこでは必ずしも客観性は保証されません。そこに私たちの苦悩の一因があることを忘れてはならないのだと思うのです。
 妻には申し訳なく思うのですが、彼女の愚痴もその例ではないでしょうか。「昔の母はこんなではなかったのに…」という想いは、独立した「点」と「点」の結合によってもたらされる落とし穴のようなものだと思うのです。
 私たちは常に非連続の中にあります。火の着いた縄をいくら振り回しても「点」と「点」は独立したままです。それが「実相」です。そうである以上、ときに私たちは非連続の時間は非連続のまま受け入れていくという発想の転換も必要なのではないでしょうか。
 孫のことに話を戻すなら、孫に「点」と「点」をつなぐ力はありません。火の着いた縄を回す力がないのです。孫にあるのは「点」だけ、つまりは不連続の「今」だけです。過去もなければ未来もありません。比較することがありませんから、苦悩もありません。いつ見ても屈託なく弾んでいられるのはそのためなのでしょう。思えば、誠にうらやましいことです。
 妻もこれに倣うとよいのかも知れません。義母の変化を止めることはできません。今日よりも明日、明日よりも明後日、さらには1週間後、1ヶ月後、1年後とその様子を変化させていくことでしょう。それに伴い、妻は対応の変化を迫られるのだと思います。
 その意味では、妻も孫に倣い、そのときそのときで母のイメージを消去していけば、苦悩も軽減するのかも知れません。ただし、私の助言を妻が素直に受け入れてくれるかどうかは分かりませんが…。
 禅には「前後裁断(ぜんごさいだん)という言葉があります。現在の状況を過去や未来と対比させることを否定する在り方を述べたものですが、同時に「今」という時間を精一杯に味わいながら生きることでもあります。仏教の時間論から導かれる含蓄のある在り方だと思います。孫のように無邪気にはできませんが、できる範囲で取り組んでいきたいと思うのです。(〆)                                       

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次回は「“角ならず”で勝つ」を掲載(4回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。


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2016
05.23

ギャラリー46

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◎これまで掲載した水をテーマにした写真をギャラリー46としてまとめました。 

 
水は百面相 どれも水の顔には違いない 
 しかし どれも本当の顔ではない 
 心も同じこと
 
 今回の撮影地は1が名古屋市(熱田区)、2~3が豊田市(阿知波池)、4~7が同(フォレスタヒルズ)、8が碧南市(碧南市海浜公園)です。

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次回は「角ならずで勝つ」を掲載(4回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。

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2016
05.27

“角成らず”で勝つ ①/④

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1[永瀬六段]

 私は、将棋をよく知りません。駒の動かし方くらいは知っていますが、戦法などについての知識は皆無です。まして定跡など知るよしもありません。
 その昔、小学生だった息子にせがまれ毎晩のように将棋盤に向かった時期もありますが、勝敗は五分五分でした。ところが次第に息子の腕が上がり、私の方が分が悪くなると、相手に不足を感じたのか、息子の方から対戦を持ちかけることはなくなったと記憶しています。しかも、私が負けるときは、たいがい私の凡ミスが原因でした。
 ところで、毎月購読している書籍の中に、将棋の世界のことで、たいへん興味深い事実があることを知りました。“角成らず”で、「王手放棄」と題した記事でした(月刊MOKU vol.278)。以下、玄 秀盛氏の原文をもとに紹介します。
 「将棋電王戦」というのがあるそうです。プロ棋士とコンピュータが戦うのですが、この「将棋電王戦FINAL」第2局で、永瀬拓矢六段が勝利したという話でした。ところが、意外にも、その結末はコンピュータの反則負けだったというのです。なぜ、コンピュータは反則を犯したのでしょう。
 コンピュータには、「棋譜」がインプットされていました。「棋譜」というのは、棋士たちが、過去に実際の対局で指した手順を記録したものです。プロ棋士が考えつく手は、ほぼすべて詰め込んであるといいます。したがって、コンピュータは、相手がどんな手を指しても、膨大なデータの中から、瞬時に最善の一手を探して指してきます。そのデータの量は人間より多いため、プロ棋士であってもなかなか太刀打ちできないとのことです。
 ところで、将棋では、敵陣に侵入したときなど、“成る”ことによって、別の力を付加できるルールがあります。いわゆる成り駒です。「角(角行)」や「飛車」では、「王」と同じ働きが付加され、「角」の場合は「竜馬」に、「飛車」の場合は「竜王」に成り、攻める力も守る力も増大します。“成る”ことによって、大きな力を得るわけですから、当然のことながら、ほとんどの場合、“成る”という戦法が取られます。“成らず”で指す人はないといっていいでしょう。
 ところが、永瀬六段は、「角」を敢えて“成らず”と指し、コンピュータに「王手」をかけたのです。付加できる力を敢えて抑え、敵に迫ったわけですから、驚くべき一手ではあります。
 ところが、この奇手に対して、コンピュータは「王手」への対応を放棄し、別の手を選択してしまったというのです。これは将棋のルールでは「王手放棄」という反則です。こうして、コンピュータの敗北が決まったというのです。(以下、②/④につづく)

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2016
05.31

“角成らず”で勝つ ②/④

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2 [南泉禅師]

 玄氏は、この話を紹介した後、次のように続けています。
 本来、人間は過去をどれだけ集めても、現在から未来にかけてどう生きるとかという答えは出てこない。それは、人間の一生は、将棋のデータの蓄積力が決定打になるようなゲームではないからや。…他人の創った道を歩くことが人生やと疑っていない人にとって、自分の道を創るという発想はない。
 玄氏の指摘には、身につまされるものがありましたが、同時に、いつも例に出す禅問答集『無門関』の中の第十九則にある「平常是道(びょうどうぜどうという話を思い出しました。「平常な心とは果たしてどのような心か?」というやりとりです。
 「平常な心」というと、スポーツ選手がよく口にする「平常心」を思い起こす読者も多いかと思います。どんなプレッシャーのかかる場面に遭遇しても、普段どおりの平静な心で臨むことの大切を表現したものだと理解してます。
 ところが、この禅問答の中で説かれる「平常心」には、これとはやや異なる意味合いがあります。ちなみに、「平常心」は「びょうじょうしん」と読まれます。
 話は、雲水(修行僧)であった若き趙州禅師とその師、南泉禅師との一問一答形式で進みます。以下、山田無文老師の講義記録をもとに紹介します。
趙州「道とは何でありましょうか」
南泉「あたりまえの心が道だ(原文では「平常心是道」です。)
趙州「どうしたらそのあたりまえが手に入りますか」
南泉「手に入れようとしたら、もうあたりまえではないぞ」
趙州「手に入れよう思わなかったら、どうしてそれが道と分かりますか」
南泉「道は、分かったと言ってもいかん。分からんと言ってもいかん。分かったと言えばそれは分別に過ぎない。分からんと言えばまったく無自覚である。分かったでも分からんでもなく、ただ、すらすらと何の不安も疑いもなく、流れる水のごとくに行われるものが分かれば、それが道である」

 南泉禅師の真意は、いったいどこにあるのか…。私のような凡人は頭をかしげるしかありません。そこで、無文老師の解説です。
 ありのままに当為(あるべきものとして)の大道がすらすらと行われるとするならば、それはあらゆる思慮分別を超越した絶対無的自覚においてのみ可能である。…太虚(大空)の如き分別理知を超えた境地から流れる(水のような)心境にして、初めて平常なのである。 
(以下、③/④につづく)

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