2016
03.04

「心を始末する」②/⑤

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EPSON020.jpg [六祖慧能禅師]

 慧能の師である五祖弘忍(ごそぐにん)禅師のもとには、700人もの修行僧が集まっていたと言います。因みに、弘忍禅師は、初祖達磨禅師からの法灯を守る高僧で、達磨から5代目に当たる人です。
 その弘忍禅師が、ある日、自らの継承者を決めるに当たって、門下の修行僧たちに、「自ら会得した境地を偈(詩)にして示せ」と告げます。
 修行僧の一人に、神秀(じんしゅう)という人がいました。五祖門下の中で最も優秀とされる人物で、誰からも後継者の最右翼だと見られていました。
 師からの要請に応え、神秀は次のような偈を作り、僧堂の壁に貼りり出しました。
 身は是れ菩提樹(ぼだいじゅ) 
 心は明鏡台(めいきょうだい)の如し 
 時々に勤めて払拭(ふっしょく)せよ
 塵埃(じんあい)を惹(ひ)かしむること莫(なか)れ

 概ね次のような意味になります。
 「この身は菩提(悟り)を宿す樹である。心は曇りも汚れもない鏡である。だからいつも精進して心を払い浄めなければならない。そのためには煩悩や妄想の塵や埃で汚さないことである。」
 出来栄えの素晴らしさに、この偈を見た誰もが、神秀こそ六祖にふさわしい人物であると確信しました。
 ところが、このときは、まだ一人前の修行者として認められていなかった新参の慧能がこの偈を見て、その傍に次のように書きます。
 菩提本(もと)樹無く
 明鏡も亦(また)台に非ず
 本来無一物(ほんらいむいちもつ)
 何れの処にか塵埃(じんあい)を惹(ひ)かん

 およそ、次のような意味になります。
 「神秀上座は、身を菩提樹、心を明鏡台とされたが、禅で言う空の世界・無の世界の世界には、もともと菩提(悟り)も無く、煩悩も無く、それを宿すような身も無い。また心の鏡も無い。『本来無一物』のはずである。それなのに、どうして塵や埃がつくことがあろうか、ましてや払ったり拭ったりする必要もないではないか。」
 最上座の神秀の偈を身分も最下位で、新参者の慧能が否定したわけですから、僧堂内は大混乱となります。
 しかし、その境地は慧能の方が優れているということを弘忍禅師が認めるところとなり、結局、慧能が禅宗六祖の地位を得ることとなったということです。(以下、③/⑤につづく)
 
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2016
03.08

「心を始末する」③/⑤

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 「本来無一物」という一語が、大きな分かれ目になったわけです。これは、読んで字のごとく、「本来、何も無い」状態であることを意味します。「悟りの世界」である分別や相対的な観念をいっさい挟まない世界に、身体や心はもとより、塵や埃もないということを詠んだものです。何事にもとらわれない、「空」や「無」という時空を超えたところでは、煩悩や妄想の起きようもないということをなのでしょう。となると、先の「心の始末」の問題はどうなるのでしょうか?
 私見ではありますが、結局、慧能の詠んだ世界と神秀の詠んだ世界では、次元が違うのだと思います。
 神秀の詠んだ世界も、それはそれでよく理解できます。まず、身体は心を宿す本体であり、大切にすべきものであると述べています。したがって、そこに宿る生まれながらにして清浄な心を煩悩や妄想の塵や埃で汚さないように努めることは、安楽に生きていくための必要条件と言えるでしょう。そのことに少しの誤りもないと思います。その意味では、神秀は「心の始末」のことを問題にしていると言えます。
 これに対して慧能の偈です。慧能は、身体はもとより、心そのものを「無い」と言っています。どのようなことなのでしょうか。
 まず、身体がないということについてです。
 私たちは、ふだん手や足など、身体が自分のものであることに何の疑いも抱きません。自分の身体は、全て自分のものだと思ってます。しかし、それは私たちが健康であるということが大前提です。健康でさえあれば、身体は、私たちの意思通りに動いてくれます。ところが一端、健康を損ねると(怪我も含みますが)、その自由を奪われてしまいます。
 私たちの身体は、「生(動)」と「死(止)」のせめぎ合いの中にあります。「生(動)」のエネルギーが上回っているとき、体は自由に動いてくれるために、自分のものになっているように考えていますが、「死(止)」のエネルギーが上回われば、体は自由にならず、自分のものでなくなります。
 私たちは、その力の及ばないところで働いている大きな力を得て今を生きています。その意味では、私たちの身体の中で、「わたし」のものと言えるものは何一つありません。全ては、いわば借り物です。いずれは元の場所へ返さなければなりません。
 加えて、私たちの身体は、日々刻々と更新(新陳代謝)され続けており、一瞬たりとも停滞することはありません。どの瞬間を捉えて身体と呼ぶのかとの疑問も湧いてきます。(以下、④/⑤につづく)
 
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2016
03.12

「心を始末する」④/⑤

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では、心がないというのはどういうことなのでしょうか?
 身体についての見方から類推するところ、本来、身体そのものがないというわけですから、心もないというのは当然の帰結とも言えます。時空を超えた世界には、私たちを苦しめる煩悩も生じないということになるのだと思います。
 ただし、誤解のないように申し添えますが、これはあくまでも「本来は…」ということです。言い換えるなら「悟りの世界」での人間の有り様を述べたものです。したがって、現実の世界の中における心の存在や心の働きまでを否定するものではないということです。
 仏教には「六道輪廻(ろくどうりんねというの思想があります。「六道」とは「天上道」「人間道」「阿修羅道」「畜生道」「餓鬼道」「地獄道」の六つの道です。人間の心は、この六つの「迷いの道」をぐるぐると廻っているという考え方です。「迷いの道」とは、驕り、高ぶり、貪り、怒り、怠けなどの心に囚われ、引きづられ、本能の赴くままに生きることです。
 「六道輪廻」などと言うと、とかく死後の世界、つまり「あの世」のことのように思われがちですが、決してそうではありません。今、現実に「この世」に生きている私たちの心の状態(「念」とも言う)でもあります。私たちの心は、周囲の様々な条件(「縁」とも言う)に左右されながら、日々刻々、常にこの六つの迷いの道を巡り巡っているというわけです。
 私見ではありますが、神秀が言及した心というのは、この次元にある心だったのではないでしょうか。そして、私たちが「始末できていない心」というのも、この辺りにある心のことではないでしょうか。結局、凡夫である私たちは、この近辺でウロウロするしかないのかも知れません。
 法話の終盤で、講師さんから、「念仏とは、自己を発見することである」という言葉がありました。“人間は自分の都合(便利さ快適さ等)を最優先させて生きている…、善良な人間であっても、立場や状況が変われば悪に手を染めることもある…”というお話の後に続けられた言葉でした。「阿弥陀仏」との関係性を深め、このような心の性質を気づく(目覚める)ことが、「心を始末する」ための方策であり、それが心を煩悩や妄想の塵や埃で汚さないことに通じるというメッセージだと受け止めました。
 一般に、「仏」のような時空を超えた大きな存在を意識することで、人間は謙虚になれます。それが「客観力」や「俯瞰力」「達観力」さらには「自制力」として働き出すとき、私たちは「心の始末」に向かえるのではないでしょうか。(以下、⑤/⑤につづく) 

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2016
03.16

「心を始末する」⑤/⑤

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 ところで、「自己の発見」ということで言うなら、それは禅にあっても大きな課題です。いわゆる「己事究明(こじきゅうめいです。戸籍上の自分の他に存在する「もう一人の自分」を追求していくことです。自分をすべてを否定した後で立ち現れてくる「新しい自分」に気づくことと言い換えることもできます。「新しい自分」というのは、掴んで得たものをすべて捨て去った、いわば裸の自分(与えられたままの自分)であり、万物との無限の関係性の中で「生かされている自分」でもあります。この事実に目覚めるなら、私たちは人間としての謙虚さを正常に保てるのだろうと思います。
 しかし、繰り返しになりますが、それは神秀が捉えた世界とは別次元にある世界での話です。「無」あるいは「空」という、一切の二元対立を超えた世界に身を置き、そこから現実を眺めたとき見えてくるもの、それこそが、『心のためにはせ使われ、安きときあるものなし』という私たちの有り様なのだと思うのです。そして、そのような見方、考え方から芽生えてくるのが、俯瞰力であり、達観力であり、ひいては自制する力なのだろうと思うのです。

 最後に、蛇足になるかも知れませんが、臨済宗の開祖、臨済義玄(りんざいぎげん)禅師が心についてどのように捉えているかを紹介したいと思います。因みに、臨済は、法脈からすると慧能から数えて5代目の弟子に当たります。


 「心法(しんぽう)形無うして、十方に通貫す。眼に在っては見ると曰(い)い、耳に在っては聞くと曰い、鼻に在っては香りを嗅ぎ、口にあっては談論し、手に在っては執捉(しっしゃく)し、足にあっては運奔(うんぽん)す。」(「臨済録」示衆より)


 「心法」というのは、心の決まり、つまり心の働きのことです。そして、それには形がないということです。ところが、形はなくても、「十方(東西南北と四維、上下)」、つまり、宇宙全体を貫いており、眼や耳、鼻、口、手、足等の働きとなって現出しているというわけです。
 「本来、心は無い」と言っておきながら、人間の身体を含む、宇宙全体に充ち満ちていると言っているわけですから、頭をかしげたくなるような内容ではありますが、これが、禅が説く「絶対無(ぜったいむ)という思想です。「無一物中無尽蔵(むいちもつちゅうむじんぞうという有名な禅語も、ここから生まれてきたのだと思います。つまり、何もないところに、無限に尽きないものがあるというわけです。
 このように禅の思想は、一見すると大きな矛盾を抱えているように見えます。しかし、これが禅の世界観であり、宇宙観なのです。まさに、次元が違うとしか言いようがありません。しかし、私は、そこに魅力を感じるのです。
 こんなことだから、いつまで経っても「心の始末」ができないのでしょうか。(〆)

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2016
03.20

ギャラリー44

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◎これまで掲載した水をテーマにした写真をギャラリー44としてまとめました。 

 
水は百面相 どれも水の顔には違いない 
 しかし どれも本当の顔ではない 
 心も同じこと
 
1は自宅で、2~3は豊田市で、4~8は名古屋市(熱田区)で撮影したものです。

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次回は、「しゃもじになる」を掲載(4回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。

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2016
03.24

しゃもじになる①/④

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 退職してから、台所に立つ機会が増えました。少しでも妻の助けになればとの思いもありますが、その一方で、根っからのせっかちな性分のため、早く食事にありつきたいという身勝手な動機にも起因するものです。
 そんなとき、探し物をすることがよくあります。たとえば、“しゃもじ”や“おたま”など、盛り付けに使う道具などです。ところが、近くにあるのにそれを見つけられず、妻に救いを求めることがあります。多くの場合、それらのものが定位置に置いてなかったり、物陰に隠れていたりしているのですが、困るのは、目の前にあっても見つけられないこともあるということです。最近はそんなことが増えてきました。
 ところで、そんな時、ふと思うことがあります。“しゃもじ”が「ある」ということと、それを私が「知る」ということの間には、ギャップがあるということです。つまり、“しゃもじ”がそこに「存在」することと、それを「認識」することとは別のことだということです。
 具体的な例を挙げてみたいと思います。今、私がテーブルの上に“たまご”を置いたとします。そこに“たまご”以外のものがなく、その姿を遮るような状況がないとしたら、それを「ある」と「知る」ことは容易でしょう。つまり、私たちは、「テーブルの上に“たまご”がある」と認識できます。
 では次に、この“たまご”を上から手で覆ってみます。すると“たまご”は手の中に収まり、外からは見えなくなります(小振りな“たまご”の話ではありますが、それでも指の隙間から見えそうだと思われる方は、ウズラの“たまご”でも想定ください)。
 この時、自分の手で覆ったのですから、そこに“たまご”が「ある」ことは、容易に認識できます。そこに疑いの余地はありません。
 しかし、そこに別の部屋にいた妻がやってきたとします。妻は、私の手の中に“たまご”があることを全く知りません。この場合、妻に“たまご”は「ある」でしょうか。おそらくは「ない」でしょう。妻は“たまご”を認識できていないからです。
 その時、玉子焼きを作ろうとして台所にやってきた妻は、何のためらいもなく、冷蔵庫を開けることになることになるでしょう。(以下②/④につづく)

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2016
03.28

しゃもじになる②/④

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rinnzai.jpg [臨済義玄 禅師]
 もう一つ例をあげたいと思います。私は眼鏡をかけています。当然のことながら、眼鏡をかけているときには、その存在を認識できます。ものがよく見えるということもありますが、それ以外にも、眼鏡のフレームやレンズの一部くらいは視野に入ります。
 では、眼鏡を頭(おでこ)にかけたとしましょう。加齢などの理由で近距離の物が見にくくなるためによくある、いわゆる“頭眼鏡”の状態です。すると、私のようなうっかり者には、往々にして次のような事態が起こります。つまり、
 「あれ?眼鏡はどこだ?」「ネェーッ。眼鏡をどこかで見なかった?」と。
 まるでお笑いのコントを見るようなシーンではありますが、実はこれが私たちのふだんの有り様ではないでしょうか。存在していても、認識されなければ、実在しません。そして、現実的な意味もありません。眼(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)・皮膚(触覚)の、いわゆる五官に触れるものだけが実在するということです。
 ところで、臨済宗の宗祖である臨済義玄(りんざいぎげん)禅師の語録を集めた『臨済録』の中に、「心地の法(しんちのほう)」という言葉があります。次が、臨済の言葉です。
 道流(どうる)、山僧(さんそう)が説法、什麼(なん)の法をか説く。心地(しんち)の法を説く。
 山田無文老師は、この一文を次のように解説しています。
 臨済の説くところの法とはどんなものであるかと言うならば、それは心地の法である。大地を麦を生み出し、大根を生み出し、人参を生み出し、茄子を生み出し、胡瓜を生み出すように、お互いの心の大地から森羅万象、神も仏も天地宇宙ことごとく生み出していくのだ。心地の法だ。お互いの認識がすべての実在を現成していくのである。 
  また、臨済の言葉として次のようなものもあります。
 道流、心法(しんぽう)形無(かたちの)うして、十方に通貫(つうかん)す。
 次が、この一節に対する山田無文老師の解説(一部)です。
 何か知らん、あるものと心、意識が一つになって、そこに太陽をあらしめていくのだ。お互いの認識の世界に上がって来る太陽はお互いの認識の中にしかないのだ。お互いの実感として受け取っていく世界は、お互いの認識の中の世界だけである。それ以外のことは不可知である。…心が届かなければ、物があったって意識には上がって来ない。お互いの心が十方に通貫するから、十方世界が意識に上がって来るのだ
(以下③/④につづく) 

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