2016
01.01

「この世で一番愛しいもの」①/①

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新年、明けましておめでとうございます。
 つたない内容ではありますが、本年も、ブログ「無相の水」をどうぞよろしくお願いいたします。 





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 今から約2,500年前、仏教の宗祖である釈迦は、35歳のときブッダガヤの菩提樹の下で「悟り」を開きました。そして、その後、80歳で入滅するまで、45年間にわたってインド各地を旅しながら、さまざまな階層の人々に「法(自らが解き明かした宇宙の真理)」を説きました。その方法は、対機説法(たいきせっぽう)と呼ばれるものでした。 
 「機」とは、人の心の機縁、はたらきを意味します。そして、それは人々の性格や気質、能力、あるいは生まれや地位、立場などによってそれぞれ異なります。そのため、釈迦は、各人に合わせて、手を変え品を変えていねいに説法をしたと伝えられます。これが対機説法です。釈迦の言葉は、その後、弟子たちによってまとめられ膨大な量の経典になりました。
 そこで、今回は、その中からコーサラ国の国王夫妻とのやりとりを描いた場面を瀬戸内寂聴氏の文章をもとに紹介したいと思います。


 お釈迦様を敬愛していたコーサラ国王は、王妃と相愛の仲でした。
 あるとき、王が王妃に、
「この世の中で誰が一番愛しいと思うか」
と問いました。そのとき王妃は、ちょっと考えてから
「それは自分が一番愛しいと思います」
と答えました。王はその答えが何となく気に入りません。日頃、互いに愛を誓い合っている王妃は、即座に「それは王様、あなたがこの世で一番愛しいです」と答えてくれるものと期待していたからです。
 そこで今度は王妃が王に、
「それでは、王さまは、この世で誰が一番愛しいと思っていらっしゃいますか」と問い返しました。王はよく自分の心の中を覗いて見た末、
「やっぱり自分が一番愛しいね」
と答えました。
 それでも何か釈然としない気持ちが残って、たまたまそこに来合わせたお釈迦さまに王は尋ねました。
「今、二人で、誰がこの世で一番愛しいかを話し合ったところ、二人とも自分が一番愛しいという結論になりました。それでいいのでしょうか」
 そのとき、お釈迦さまは次のように答えました。
「どの方向に心を向けて探しても、自分より愛しいものは発見できない。そのように、他人にとっても、それぞれ自分自身は愛しい。だから、自分を愛しむために、他人が害してはならない」                               


 釈迦の言葉、最初の一文を読んだとき、違和感を覚えた読者もあるかもしれません。完全なる「悟り」の境地に到達した釈迦が、自分より愛しいものは発見できない」とは、どういうことだろうか…。「慈悲」を旨とする仏教の教義に矛盾するではないか…。
 しかし、それに続く言葉がそのような疑問をすべて払拭します。
 「そのように、他人にとっても、それぞれ自分自身は愛しい。だから、自分を愛しむために、他人が害してはならない」。
 これがこの説法における釈迦の真意です。自己を肯定しながら、同時に他者も肯定していく、仏教の根本的な立場を象徴する在り方です。
 誰でも、人間は自分自身を誰でも愛しいと思っています。それは人間が生まれたときから身についている本能でもあります。それを否定してしまっては、人間は生きていけません。釈迦は、その当たり前の事実を認めたその心で、他者の心を慮(おもんばか)ります。そこに一切の区別も差別もありません。そして、他者も自分を誰よりも大切だと愛しているのだから、他者を傷つけてはならないと諭します。これが戒律の一つである「不殺生戒」、そして非暴力の掟につながっていくのだと思います。                 
 「自己愛」と「他者愛」、一見すると矛盾しているようにも見えますが、「自他一如」、つまり、本来「わたし」と「あなた」は一つであるという真理に軸足を置くなら、それが相容れないものでないことが分かります。
 当たり前のことはあるのですが、ともすると私たちはこの当たり前を忘れがちになるものです。新年を迎え、心新たにスタートしたいものです。(〆)

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2016
01.05

ギャラリー41・42

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◎これまで掲載した水をテーマにした写真をギャラリー41・42としてまとめました。 

 
水は百面相 どれも水の顔には違いない 
 しかし どれも本当の顔ではない 
 心も同じこと
 
今回の写真は、全て阿知波池で撮影したものです

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次回は、「太古の民のおどろきを」を掲載(4回配信)します。ぜひご訪問ください。

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2016
01.11

「太古の民のおどろきを」①/④

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 禅には、古くから「悟り」の体験にまつわる逸話として、音に関わるものが多く残されています。以前にも紹介したことがありますが、一休禅師は、カラスの鳴き声、白隠禅師は寺の梵鐘の音を聞いて「悟り」を開いたと伝えられています。また、中国(唐代末期)には、香巌智閑(きょうげんちかん)という高名な禅僧は、掃除中に竹に小石が当たる音を聞いて「悟り」を開いたというという逸話もあります。それに、白隠禅師の有名な公案「隻手の音声」も「音」にかかわる問いかけです。曰く、両手を打ち合わせればパンッ!と音がするが、片手で打ったときには、どんな音がするか…?
 禅では、なぜこのように音にこだわるのでしょうか…?これには、次のような理由が考えられます。
 私たちは、見たいものを見、聞きたいものを聞いています。つまり、選り好みをしながら、自分に都合のよいものだけを取り入れ、都合の悪いものは受け付けません。常にその繰り返しです。そのために、なかなか真実の姿(実相)を認識できません。そこに自我(エゴ)が働くからです。
 ところで、「見る」ことと「聞く」ことを比べたとき、どちらが、自我(エゴ)の働きから遠いと言えるのでしょうか。
 私見ではありますが、「見る」という行為に、より意図的な傾向が強いように思います。「注目する」、「着目する」、「凝視する」あるいは「無視する」などのように、「見る」という行為にまつわる言葉はたくさんありますが、いずれも、私たちの想いや都合によって「見方」は変化します。「見る」という行為には、自我(エゴ)が色濃く写し出されます。
 それに比べて、「聞く」という行為は、自我(エゴ)に縛られません。「耳をそばだてる」、「耳をふさぐ」などの言葉もありますが、目を閉じるように簡単に外からの情報を遮断できないのが、耳の特徴的な構造です。
 このように、音は、通常、私たちの想いや都合に関係なく、ありのままに耳に届きます。したがって、基本的に「聞く」という行為に自己都合はありません。
(以下、②/④につづく)
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2016
01.13

「太古の民のおどろきを」②/④

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2 [高村光太郎]

 ところが、購読している書籍(月刊MOKU Vol.275)の中に、たいへん興味深い記事がありました。内田 繁氏(インテリアデザイナー)のインタビュー記事でした。「美」と記憶との関係性について言及したものでした。 
 要約すると、人間が「美しい」と感じるときは記憶が深く関与しているということ、そして、その記憶は、「個人的記憶」「文化的記憶」、そして「前文化的記憶」という三つの階層から成っていると考えられが、最も重要なのが、言葉を獲得する以前の人類に共通する根源的な記憶である「前文化的記憶」であるというものでした。内容の一部を原文のまま紹介します。


 何に美を感じるかは人それぞれだというのは個人的記憶によるものでしょう。また咲き誇るバラの花束も、はかなげに咲く野の花により美しさを感じるというのは、日本人の文化的な記憶です。そして、夕日を見て美しいと感じるのは、前文化的な記憶なのです。火や水、風、光といった普遍的な自然に美を感じる美は、前文化的な記憶として人類の身体に残されているものだと言えます。もっと言うと、これだけ社会や文化が複雑になって行く中で、前文化的な記憶こそが、人々を結びつけていくのかも知れません。


 「前文化的記憶」という言葉に興味をひかれました。地域や歴史、民族、宗教、風習などが異なっても人類が共通して感じる心、つまり普遍的な心があるということを言ったものだと思います。
 内田氏も述べているように、何に美を感じるかは個人の問題であり、その見解となればまさに十人十色、百人百色でしょう。そこには自我(エゴ)の働きが色濃く反映されるからです。ところが、内田氏は、個別的な美を超えたところに「前文化的記憶」に根ざした人類の普遍的な美があると言います。
 以前、知人のお宅を訪問したとき、高村光太郎にこんな歌があることを知りました。
  海にして 太古の民のおどろきを 我ふたたびす 大空のもと
 大空の下で壮大な海の様子を目の当たりにしたときの感動を読んだ詩だと思われますが、注目すべきは、そのときの自分の感動が、太古の昔を生きた人々のそれと少しも異なるものではと気づいたことにあるのではないでしょうか。高村光太郎の驚きは、まさに時空を超えた驚きであるということです。そのバックボーンとなるのが「前文化的記憶」ということではないでしょうか。 (以下、③/④につづく)
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2016
01.17

「太古の民のおどろきを」③/④

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 また、先の書籍の別のページには、脳の働きと「美」との関係について興味深い記事がありました。川畑秀明氏(慶応大学 準教授)の話として掲載されたものでした。
 それによると、美しいと感じているときの脳の働きはどの人にも共通するもので、前頭葉下部にある「報酬系」と呼ばれる神経回路の一部が、欲求が満たされるときや満たされることが分かっているときなどに活発に働くとのことでした。具体的にはドーパミン回路が活発化するとありましたから、それにより心が「快」の状態になるのでしょう。
 また、「共通性」を具えた美というのは、単にきれいという印象を超えた「圧倒されるような感覚」を生むという指摘もありました。
 川畑氏の言う「共通性」を具えた美と、内田氏の言う「人類の普遍的な美」とは同意のものと解釈できます。また「圧倒されるような感覚」というのは、「前文化的記憶」に連なる脳の働きによるものではないでしょうか。
 高村光太郎の詩に戻るなら、海の持つ壮大さ、荘厳さに圧倒されるような感覚は、決して光太郎だけの個人的な感覚ではなく、人類が普遍的に具えている感覚であるということだと思います。

 ところで、私は、この「圧倒されるような感覚」に連なる「前文化的記憶」と「仏性(仏心)」と同質ものではないかと思うのです。またぞろ抹香臭い話が始まるのかと、眉目を寄せられる読者もあるかと思いますが、どうかお許しください。
 「前文化的記憶」というのは、文字どおり人間が文化を築きあげる前の記憶のことです。そこには、年齢や性別、国籍、言語、あるいは時代、社会、思想、信条など後天的な要素が入り込む余地はありません。誰もが生まれながらに具えている記憶であり、人間としての自我(エゴ)が介入する前のいわば本源的な記憶のことでしょう。
 一方、「仏性(仏心)」とはどういうものなのでしょうか。これには、さまざまな見方、考え方、そして表現の仕方があるかと思いますが、山田無文老師の言葉に次のようなものがあります。
 「自我の自覚以前、自他の対立以前、知識以前、経験以前の『無』としてのお互いの本心」
 「仏性(仏心)」という言葉に触れたとき、私はいつもこの言葉を起点にして考えるようにしています。
 言うまでもなく、仏性(仏心)というのは、自我(エゴ)と対極にあるものです。それは、個人的な感情や思考、認識、理屈、あるいは選り好み、癖、都合など、自我(エゴ)によって生み出されるあらゆる要素を超越したところにある心と、それに連なる感覚の働きです。(以下、④/④につづく)

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2016
01.21

「太古の民のおどろきを」④/④

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  「前文化的記憶」も「仏性(仏心)」も、いずれも自我(エゴ)の影響を受ける前の心の有り様であるという点で共通しています。
 少し飛躍するかも知れませんが、その意味では、禅における「悟り」の体験というのは、内田氏の言う「前文化的記憶」、無文老師の言う「自我の自覚以前、(中略)経験以前の『無』としての本心」に回帰することなのではないでしょうか。本源的な記憶に立ち帰り、本来に具わる「無」としての本心、言い換えるなら、仏性(仏心)とも呼ばれる心の有り様に気づく体験、それが「悟り」の体験なのだと思います。そこに「自他一如」の世界があり、「大慈悲心」の源泉があるということなのだと思うのです。
 冒頭で、「見る」ことと「聞く」ことを比較し、自我(エゴ)の影響を受けやすい「見る」という行為は、「悟り」の体験から遠いのではと言いました。しかし、このように考えてくると、「見る」ということの中にも、「悟り」のチャンス、つまり、仏性(仏心)に気づくチャンスがあることに気づかされます。

 さまざまな価値観が錯綜する混沌とした時代に入ってきました。国内外の情勢、国家間の問題は言うに及ばず、私たちの日常生活までが迷路に足を踏み入れたようで、閉塞感は増すばかりです。この先、私たちが生き延びていくための術が果たしてあるのかとの思いが募ります。
 そんな中、希望を込めながら仮説を立ててみたいと思います。
 内田氏の言う「前文化的記憶」と無文老師の言う「経験以前の『無』としての本心」に通じる全人類に共通にする心へ回帰することできたら、かすかであるかもしれないが光が見えてこないか。
 私たち凡人に、禅が目指すような「悟り」の体験はできません。しかし、大海を前に高村光太郎が受けたような「圧倒されるような感覚」なら、誰もが味わうことができるではないでしょうか。
 水や火、風、光といった自然がつくり出す普遍的な「美」、あるいは「音」に触れ、「圧倒されるような感覚」に浸っているとき、私たちの自我(エゴ)は一切働かないのだと思います。そのとき、脳に「快」という報酬をもたらしながら立ち現れてくるのが「自他一如」の境地ではないでしょうか。時空を共有しているという実感と言ってもよいかとも思います。その一点において、私たちは“一つになる”チャンスがあるのではないかと思うのです。
 私も含めてのことですが、現代人には、このような体験があまりにも少ないのかも知れません。その意味では、美術や音楽など芸術分野の持つ役割は大きいと言えるでしょう。内田氏の言うように、芸術は人々を結びつけていく有力なツールになると思います。しかし、高村光太郎の詩に学ぶなら、日常的な場面でも「圧倒されるような感覚」を味わい、それに浸れるチャンスはあるのではないでしょうか。
 さて、読者はこれまでそのような体験をされことがあるでしょうか。また、この先どのような体験をすることでそのチャンスを得ようとお考えでしょうか。
 ご意見をお待ちします。(〆)

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次回は、「天心が伝えようとしたこと」を掲載(4回配信)します。ぜひご訪問ください。


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2016
01.25

「天心が伝えようとしたこと」①/④

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1_20150222170312af8.jpg[岡倉天心]

 少し前のことになりますが、NHKのEテレにチャンネルを合わせたとき、偶然、
岡倉天心(おかくらてんしん)の著作本の一つに「茶の本」があることを知りました。
 恥ずかしながら、岡倉天心については、アメリカ人のフェノロサとともに近代日本における美術史学研究を開拓したこと、東京美術学校(現・東京藝術大学の前身の一つ)の設立に大きく貢献したこと程度の浅い理解で、正直なところ特別に関心を抱いたことのない人物でした。
 ところが、今回、テレビ番組を通じてではありましたが、その代表的な著作である「茶の本」に接し、この本が老荘思想(老子、荘子の築いた思想)や禅の思想を強く意識して執筆されていることを知ることとなり、早速、テキストを購入し、読んでみることにしました。テキストの著者は、大久保喬樹氏(東京女子大学教授)でした。
 テキストよると、「茶の本」は、茶の湯を日本の文化・思想の到達点と考えた天心が、それを欧米に向けて紹介するために英文で執筆され、ニューヨークで出版されたとありました。また、テキストには「百年前に自然との共生を説いた先見の書」という、魅力的な見出しも付けられていた。
 茶の文化は、4~5世紀に中国で始まり、唐代、宋代の変遷と発展を経て、日本には鎌倉時代、禅僧により本格的に紹介されました。そして室町時代に、禅と深く結びついた茶道が完成し、その後、華道を初めとして、日本のさまざまな芸術文化に影響を与えることになりました。
 その茶道ですが、テキストによると、天心はその背景にある哲学に触れ、その出発点は、中国の老荘思想にあるとし、それを引き継いだ道教、さらにそれを引き継いだ禅によって、日本に定着したと説いているとありました。そして、その哲学のポイントは、一つには「不完全性の美学」に、二つには「相対性の認識」にあると記されていました。
 では、一つ目の「不完全性の美学」とはどういうことでしょう。この論理が、この世に完全や完成、完璧などあり得ないという認識を前提にしたものであることは言うまでもありません。万物は常に変化し続け、少しの間も止むことはありません。あるとき完全や完成、完璧と見えたものも、次の瞬間にはそれが仮初めの姿であったと気づかされるのが常です。これが「諸行無常」ということだと思います。
 「不完全の美学」というのは、その事実を冷徹に見据えた上で、真逆の発想から打ち立てられた哲学と言えるでしょう。つまり、不完全であり未完成、未熟であるからこそ、その先に、完全や完成、完璧に向かって無限の可能性が内包されるということです。(以下、②/④につづく)

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2016
01.29

「天心が伝えようとしたこと」②/④

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 また、「不完全性の美学」は「虚の美学」でもあり、この場合にも「虚」(「無」と同意)であることによって、そこに無限の可能性が開かれるという思想が読み取れるという記述もありました。
 テキストでは、天心の次のような文章が紹介されていました。
 老子によれば、真に本質的なものは虚のうちにしかないというのである。たとえば、部屋というものの実質は、屋根や壁それ自体にではなく、屋根や壁に囲まれたからっぽの空間にある。また、水差しが役に立つのは、その形や材質にあるのではなく、水を容れるからっぽの空間によるのである。虚は全てを容れるが故に万能であり、虚においてのみ運動が可能になるのだ。自分をからっぽにして自由に他人が出入りできるようにすることを心得た者は、どんな状況でも自由にコントロールすることができるようになるだろう。
 茶室のことを「数寄屋(すきやとも呼ぶことがあるそうです。好みの家という意味の「好き家」から、「空き家」、つまり、からっぽの家となったと聞きました。一切の無用なものを排除した空間が茶室であるというわけです。
 不完全であるからこそ、無限の可能性があるということの真意を考えるとき、この「空き家」は一つのヒントになるのではないでしょうか。物質的な現実はすべからく変化していきます。無限とか永遠とかといったものは、モノに宿るのではなく、精神にしか見いだせないということです。一切の余計な装飾を排除した、静寂に包まれた小さな空間の中で、あたかも秀逸な詩の行間を読むかのように自由自在に思いを巡らせることの豊かさ、贅沢さを味わえるのが茶室なのかも知れません。
 曹洞宗の開祖である道元禅師の有名な言葉に「放てば手に充てり」がありますが、これもこの真実を述べたものではないでしょうか。曰く、
 「坐禅修行をすることで、思いを手放し執着を捨て、心を空にすれば、真理と一体になった豊かな境地が手に入る」と。
 「無」は「空」に通じるものです。「空」は「絶対無」という言い方もあるように、単純なからっぽの状態のことではありません。逆に「あるもの」によって隈なくく満たされている状態を言います。したがって、その「あるもの」にどう思いを馳せるのか、それは茶室に訪れた私たち一人一人の心の働きに託されるということなのでしょう。
 それに、蛇足になるのかもしれませんが、何かを掴んだままの手に別のものは掴めません。思い切ってそれを手放してみると、案外「なんだこんなつまらないモノを掴んでいたのか」ということになるのかもしません。(以下、③/④につづく)

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