2015
12.03

良寛さんの「鍋」③/⑤

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 有名な玄奘三蔵(三蔵法師)がインドからもたらした法相宗(ほっそうしゅう)の教義の中に「一水四見(いっすいしけん)という喩えがあります。法相宗では、世の中のあらゆるものは、心の働きが生み出すと説くのですが、「水」について次のような喩えをします。
 「水」は、①人間にとっては単にとしてしか見えませんが、②魚には自らの棲みかと見え、③天人(神)には瑠璃の大地と見え、さらに④餓鬼(がき)には膿や血に見えるというのです。
 天人と餓鬼については、次のように補足説明されます。
 曰わく、天人は身が軽く、「水」の上を自由に歩けるので、青色の宝石を張った大地のように見え、餓鬼はその業によって「水」に親しむことができないので、膿や血のように見えると。
 同じものを見ても、それに触れる人によって意味するところは異なるものです。「一水四見」は、そのことを、仏教的な視点から喩えたものだと思います。また、私たちが同じものを見た場合にも、そのときの気分や置かれた状況によって、受けとめ方は変わってきます。
 このように、私たちが認識する世界は、外界そのものではなく、認識するときの心の働きによって生み出されます。つまりは、物には固定的な実体はないということです。その意味では、「水」も「空」であるということです。
 しかし、これを読んだ読者から、次のような疑問が生まれるかも知れません。良寛さんの「鍋」に固定的な実体はないことは認めるとしても、仮に「鍋」とされる、おそらくは鉄でできた半球状の容器があることは実体として認められるのではないか、と。
 もっともな疑問だと思います。たしかに鉄製と思われる半球状の容器はあります。しかし、「鉄」というものは、固定的な実体としてあるのでしょうか。また、「半球」は、どうでしょうか。そして、「容器」は、どうでしょうか。

 いつも引用する禅問答集『無門関』に「奚仲造車(けいちゅうぞうしゃ)という、面白い則があります。奚仲というのは、その昔、中国にあって、馬車の発明家とされる人物です。
 中国で車というものが発明されたときは、手押し車のような一輪車であったようですが、その後、人間が引く二輪車、牛に曳かせる牛車、そして馬に曳かせる「馬車」というように改良が加えられたのですが、奚仲というのは、この「馬車」の発明者とされる人です。その奚仲にまつわる、次のような話です。(以下、④/⑤につづく)
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2015
12.07

良寛さんの「鍋」④/⑤

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 「奚仲は、工夫に工夫を重ね、一代のうちに型の異なる馬車を百台も造ったとされるが、彼はいつも車の両輪を外したり、軸を抜いたりして、何かを考えていた。いったい彼は何を考え、何を発見したであろうか?」
 読者は、この問いに対して、どのように答えられるでしょうか。
 「馬車」は、さまざまな部品から構成されています。ながえたがくるまやこしきじくなどがそれです。したがって、「馬車」を解体すれば、あるものはこれらの部品ばかりとなり、そこに「馬車」はありません。つまり、「馬車」に固定的な実体はなく、「空」であるということです。
 このことは、現代の利器である「自動車」も同様でしょう。「自動車」には、数万個の部品があると言われます。そして、その一つ一つに名称が付けられていますが、どれ一つとして「自動車」と呼べるものはありません。ハンドルはハンドルであり、エンジンはエンジン、ブレーキはブレーキです。その意味では「自動車」も「空」です。
 では、「自動車」の最小部品と考えられるボルトナットに固定的な実体があるのでしょうか?
 さすがに、それまでは否定できないだろうと思われる読者があるかも知れません。しかし、よく考えなければなりません。それら最小部品とされるものも、ミクロの単位で分解していけば、分子から原子、原子から素粒子(クォークなど)というように、やがては、最小物質が構成する世界に行き着くことになります。そこは、最小物質に満たされた単一の世界です。そこにはいかなる区分けもありません。そして、それらの部品を特定できるものは何もありません。そのことは「鉄でできた半球状の容器」も同じでしょう。
これが、「空」ということです。
 固定的な実体がないということは、結局、そのものが「ある」とも言えるし、「ない」とも言える状態にあるということです。奚仲の造った「馬車」は「ある」とも言えますが、「ない」とも言えます。「ある」ようで「ない」、「ない」ようで「ある」ということです。これが、「空」の持つ“一元性”という側面ではないでしょうか。(以下、⑤/⑤につづく)

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2015
12.11

良寛さんの「鍋」⑤/⑤

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良寛 
 以前、「即非の論理(そくひのろんり
について紹介したことがありました。「AはAに非ず。ゆえにこれをAと名づく」というあの論法です。『金剛経』という経典の中に展開される仏教特有の考え方です。これに随えば、「鍋は鍋に非ず。ゆえにこれを鍋と名づく…」「馬車は馬車に非ず、ゆえに馬車と名づく…」「自動車は自動車に非ず。ゆえに自動車と名づく…」ということになります。いわゆる全否定です。
 この論法は、すべての名称(概念)を否定し、否定し、否定し尽くすことで、“すべては一元に帰する”という真理に気づかせるための便法なのだと思います。現象世界に固定的な実体はないということを主張するための論法と言えるでしょう。その意味では、これも「空」に言及したものと言えます。想像ではありますが、奚仲もその真理を発見したのではないでしょうか?
                   
 冒頭で、「般若(真実の智慧)」に随って、物事をありのままに正しく見ることで自由になれる、楽になれると書きました。ここまで読み進まれた読者は、果たしてどうでしょうか?
 私たちは、日々、現象世界の中で、さまざまな「もの(カネも含む)」に心を奪われ、惑わされています。そして、思うようにならないと言っては悩み苦しみ、不平や不満を漏らしたり、ときには他者を恨み、嫉み、責めたり、争ったりすることもあります。「物」への必要以上の執着が、「事」の成り行きを不透明にし、複雑にする現状があります。
 しかし、その「物」には固定的な実体などはなく、根源は一つであり、すべては仮のものである…。そして、そのように見ることが、世界を正しく見ることである…。こんなふうに考えると、ものの見え方が変わってくるのではないでしょうか。それは、これまで、とかく物質的な豊かさを追い求め、固執することで今、行き詰まっている私たちに自戒のチャンスを与えるのだと思うのです。
 思えば良寛さんの「鍋」の話も、こんなメッセージを伝えているのではないでしょうか。良寛さんは、鍋一つの貧しい生活ではあります。しかし、決してそれを苦にしていません。また卑下もしていません。その姿は、いかにも自然体で、悠々としています。それは、心の持ち方次第で、自由に楽に生きていけるということを私たちに示唆しているのだと思うのです。
 こんなふうに考えてくると、良寛さんは「空」の真の理解者であり、「般若(真実の智慧)」の実践者であったと思えてきます。もっとも、良寛さん自身にそんな思いは無かっただろうと思うのですが…。
 私たちも、思い通りにならなかったり、行き詰まったりしたときなど、ときには「空」に思いを馳せてみてはどうでしょうか。(〆)

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次回は、「煩悩の行方」を掲載(3回配信)します。ぜひご訪問ください。
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2015
12.15

「煩悩の行方」①/③

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1

 正月も近いことから、妻と一緒に我が家の軒下の掃除をしたときのことです。枯れ葉を拾い集め作業をしながら、ふとこんな言葉が口をついていました。
 「枯れ葉を拾いながら、煩悩を拾っているようなものだね」
 妻も薄々その意味が分かったようでした。
 軒先に落ちた枯れ葉、それは我が家にとっては厄介なものです。それを外部の人が見たらどう思うだろうか?掃除が行き届いていない家のように思われないだろうか?無精な住民の住む家のように思われないだろうか?など、次々と、世間体を気にした懸念が浮かびます。
 ところが、よくよく考えてみれば、それは私の勝手な妄念、妄想であって、世間の人がほんとうにそう思うかどうかは分かりません。ほとんどの人が、我が家の軒先に小さな庭があることなど知らないでしょうし、そもそもよその家のことなど関心がないという人もたくさんいるはずです。
 しかし、そうではあっても世間体というのは気になるものです。これが「煩悩」なのではないでしょうか。人間の心身を煩わし悩ませる妄念(迷いの心)です。 「煩悩」というと俗に「貪・瞋・痴」の三種類(三毒)があるとされますが、この場合の「煩悩」は、さしずめ「痴」ではないでしょうか。世間体を気にして、苦悩や苦労の種を自分で作り出し、悩み、苦しんでいる…。無視することもできるのにそれがなかなかできない…。少しでも自分の家(いえ、自分自身)をよく見せよう、飾り立てようとする浅はかな心の動きではあるのですが、私たちにはその心をなかなか抑えることができません。これが「痴」の持つ厄介な側面だと思います。
 枯れ葉を拾い集める作業を「煩悩を拾う」と喩えましたが、枯れ葉はなくなりません。目の前にある枯れ葉を全て拾い集め、ゴミ袋に入れてしまえば、庭はきれいになり、気分もよくなります。ところが、枯れ葉の落とし主は、我が家の庭の落葉樹ばかりではありません。周辺にはいくらでも落葉樹はあります。ひとたび風が吹けば、枯れ葉は舞い込んできます。枯れ葉を「煩悩」に見立てるなら、「煩悩」は拾い切れないし、捨て切ることもできません。また、無くなるということもありません。いわゆる「煩悩無尽(ぼんのうむじん)」です。
 以前、床拭きの話をしたことがありましたが、これも同じことでしょう。(「因果一如」参照)私の床拭きや便器磨きの動機は、純粋にそれをきれいにしたいという願望の他に、急な来訪者など第三者の目を意識したものも含まれるのだと思います。
 結局、私たちは、棄て難く「煩悩」を抱えながら生きていくしかないのだと思います。(以下、②/③につづく)

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2015
12.19

「煩悩の行方」②/③

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2

 ところで、青山俊董氏(曹洞宗 愛知専門尼僧堂堂長)が法話の中でたいへん興味深い詩が紹介されていました。下村湖人の詩です。

 あなたと私とは、今ばらの花園を歩いている。あなたは云う、―
 「ばらは美しい、だが、その下には恐ろしいとげがある」と。
 けれども、私は云いたい、―
 「なるほど、ばらにはとげがある、それでも、こんな美しい花を  咲かせる」

 一つのばらを見ても、ある人は花を見る、またある人はトゲを見る…。作者からのメッセージは、「よいところを見ていく生き方をせよ」ということにあるのだと想像します。しかし、青山氏は、この詩に対して、別の読み味わい方があると指摘します。


 「トゲを作るエネルギーも、花を咲かせるエネルギーも一つだということです。一つのいのちのエネルギーがトゲとなり、あるいは花となるのです。トゲをとるために幹を傷めてエネルギーを奪ってしまったら、花も咲かなくなるでしょう。欲とは大事なエネルギーで、欲自体が悪というわけではありません。欲というエネルギーの方向づけを誤らないようにすることが一番大事なことです。」


 「欲というエネルギーの方向づけ」という一文に目が止まりました。「貪・瞋・痴」の「煩悩」も、間違いなく欲に根ざしたエネルギーの一種です。それに引きづられて苦悩することの多いのが人間ではありますが、同時に、「煩悩」は生きるエネルギーでもあります。「煩悩」の全てを否定してしまったら、私たちは生きていけません。そんなことをしたら、“人間の日干し”になってしまいます。
 そこで、以下は、いつものように私見です。
 「方向づけ」ということを問題とするなら、やはりキーワードは「自他一如」でないかと思うのです。「わたし」は、「わたし」であると同時に「あなた」でもあるという認識とそれに基づいた実践です。
 当然のことながら「自利(じり)のみを追求するような生き方は認められません。それが、欲を三毒の方向へ向かわせることは明白です。
 一方、「利他」りた)を優先させる生き方はどうでしょうか。大乗仏教の根本理念に随うなら、これこそが理想的な在り方と言えるでしょう。いわゆる「自未得度先度他(じみとくどせんどた」という方向づけです。
 しかし、自分をの利益を考える前に、周りの人の利益を実現するなどということは、簡単なことでありません。とりわけ、私のような凡人には、たいへん高いハードルです。世知辛いご時世にあって、現実味に欠ける方向づけだとの批判も聞こえてきそうです。
 やはり、「自利」と「利他」を同時に、バランスよく実現していくような生き方が望ましいのだ思うのです。欲というエネルギーを「自利」と「利他」という二つの要素を兼ね備えさせながらコントロールしていくという在り方です。
 湖人の詩になぞらえるなら、さしずめ、ばらのトゲが「自利」、そしてばらの花が「利他」ということになるのでしょうか。トゲで自らの身(幹)を守り、同時に、花で他者に癒しを与えていくというようなイメージになるのかと思います。
(以下、③/③につづく)
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2015
12.23

「煩悩の行方」③/③

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3

 枯れ葉を取り除く作業に重ね合わせて考えてみたいと思います。
 枯れ葉を取り除き、我が家の軒先をきれいにしたいというのは、欲から生じるエネルギーです。そして、その結果、軒先がきれいになれば、そこに達成感や満足感が生まれ、気分もよくなるでしょう。また、世間の目を気にしなくても済むようになるでしょう。したがって、ここまでは「自利」ということになるのだと思います。
 では、「利他」をどう具現化するのでしょうか。我が家の近くを町内の人が通ったとします。そのとき、たまたま「○○さんの軒下がきれいになって気持ちよくなったな」などと感じてもらえたとしたら、それも「利他」ということになるのかも知れません。しかし、こんなご都合主義的な解釈は許されないでしょう。町内に住むどれだけの人が、我が家の軒先の状態に注意を払い、美しく保たれることに期待を寄せているでしょうか。ほとんど皆無のはずです。「利他」に求められるのは、そのような在り方ではないと思います。
 それは、全てを「心あるもの」として見ていくという在り方ではないかと思うのです。具体的には、きれいになって庭が「喜んでいる」という見方です。
 こんなことを言うと「何を子どもじみたことを言っているのか」「絵本の世界の話でもしているのか」とお笑いになる読者もあるかも知れません。はたまた呆れて、この先、読み進むことを拒否される読者もあるかも知れません。
 しかし、私はいたって真剣なのです。全てのものに心(「仏心」あるいは「仏性」)があるという見方、考え方は、今から約2,500年前、釈迦が解き明かした真理に基づいて築き上げられた仏教固有の世界観です。いわゆる「山川草木悉有仏性」あるいは「山川国土悉皆成仏」という仏教の核心的な世界観です。私は、この世界観に強く心を惹かれるのです。
 このような世界観に立って我が家の庭や、以前、本ブログで紹介した我が家の床や便器などに思いをめぐらすなら、それらのものたちが“きれいにしてもらった”ことを「喜んでいる」という発想は、少しも奇異なことではないと思うのです。そして、このような見方に立てば、それはそれで立派に「利他」を実践できていることになります。子どもじみた発想に映るかも知れませんが、私には、今それが妙に納得できるのです。
 「自利」が動機であっても、それが最終的に他者から「喜ばれる」結果を生むなら、それが「利他」になるというのが私の解釈です。その意味では、欲から生じるエネルギーも、それが結果として広い意味での他者から「喜ばれる」かたちで現れるなら、それは「煩悩」ではないということになるのかも知れません。
 独りよがりの都合のいい解釈かも知れません。しかし、私は、こう考えることで、救われた気分になることが増えてきました。そして、そのことをありがたいと思えるようにもなってきているのです。(〆)

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次回は、「笑うと咲く」を掲載(2回配信)します。ぜひご訪問ください。
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2015
12.27

「笑うと咲く」①/②

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 我が家で購読している朝刊のコラム欄(読売新聞「編集手帳」)に目が止まりました。次のような文でした。


 「改札の前で連れを待っているらしい中年の女性が「あっ、おにいさん、ちょっと」と声をかけた。通りかかった青年の襟から何かを外した。クリーニング店のタグらしい。「オッケー、いってらっしゃい」最初は呼び止められてびっくりしていた青年が、照れくさそうな笑顔で礼を述べた。通りすがりの知らない同士3、4人がつられて微笑した。小欄もその一人である。どうということもない駅頭の光景だが、温かい拾い物をしたような気分が残った。(以下略)


 なにげないやりとりではありますが、その中に「温かい拾い物をした」という筆者の気持ちはよくわかります。中年女性の小さな親切とそれを笑顔で受けた青年、そして、その様子を微笑ましく見つめていた通りすがりの人たち、なんとほのぼのとした心温まる光景でしょうか。幸せな気持ちになります。
 コラムの最後には、「花が咲くの『咲』という漢字には「笑う」という意味があるという」一文が添えられていました。この出来事を駅頭の雑踏の中に咲いた一輪の花にたとえた筆者の感性には、感心させられました。
 ところでいつも例に挙げる禅問答集「無門関」に、「拈華微笑(ねんげみしょう)」という不思議な則(問い)があります。  


  ある日、仏陀(釈迦)が、霊鷲山(りょうじゅせん)で説法されるというので聴衆が集まりました。ところが仏陀は、ただ黙って一本の華を中空に差し上げて聴衆に示されるままで、一言もお話しになりません。大衆は、その意味が分からず、ただぽかんとするばかりでした。
 そのとき一人、摩訶迦葉(まかかしょう)という弟子だけは、これに対してにっこりと微笑みました。
 すると、これを見た仏陀は、「吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門あり。不立文字、教化別伝にして、これを摩訶迦葉に付嘱す(われにしょうぼうげんぞう ねはんみょうしん じっそうむそう みみょうのほうもんあり これを ふりゅうもんじ きょうげべつでんにして まかかしょうにふしょしょくす)といって、仏心印(ぶっしんいん)を授けられたというのです。
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  釈迦の言葉、「吾に正法眼蔵 云々…」の件は難解なのですが、その意味は概ね次のようです。
 私の「悟り」の智慧である「仏心印」を言葉で述べることなく、文字にも表すこともなくして、弟子の摩訶迦葉(以下、迦葉とします)に全て譲り渡した…。
 読者は、この話をどのように受け止められるでしょうか?一本の華を中空に差し上げることで説法しようとした釈迦の意図、そして、それを見た迦葉の微笑みの意味、さらには、その後の釈迦の言葉の真意など、この則には多くの問いかけがあり興味をそそられます。また、その一つ一つが難問です。 (以下、②/②につづく)

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2015
12.31

「笑うと咲く」②/②

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  「仏心印」を伝えるのが禅宗の使命であるとされます。禅の思想の核心部分にかかわるやり取りだけに、 私のような素人には、とても近づくことのできない領域ではあります。
 ところが、あるときこの則を考える上で、一つのヒントがあることを知りました。いつも参加している禅セミナーで、山川宗玄老師(岐阜県 正眼寺住職)から「咲く」には「笑う」という意味があるということを教えていただいたことでした。これは、先のコラムに添えられていた一文にも符号するものです。
 禅では、物事を一人称で捉えます。いつも言う「わたし」は「わたし」であり、同時に「あなた」でもあるということですが、さらに突き詰めて言うなら「わたし」と「あなた」に区別はない…、ということです。いわゆる「自他一如」の世界観です。これに沿ってこの話を解釈してみます。
 釈迦が中空に差し上げた華は、金波羅華(こんぱらげ)という蓮華の一種とされますが、その華はきっと満開だったことでしょう。そしてそれを見た迦葉は微笑みます。その瞬間、迦葉と金波羅華とは一つになったのではないでしょうか。釈迦は、それを確かめた上で、自らの「悟り」の智慧が、しっかり迦葉に伝わったことを示したということなのだろうと思います。
 禅の教義に随うなら、釈迦が解き明かした真理(「悟り」の智慧)というのは、文字にも言葉にもならないものです。表現すれば真理ではなくなってします。「説似一物即不中(せつじいちもつそくふちゅう)という禅語もあります。何を言っても当たらないということです。
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 禅の話に傾き過ぎたのかも知れません。冒頭に挙げたコラムに戻ります。
 中年女性の小さな親切とそれを笑顔で受けとめた青年、そしてその様子を見て微笑んだ通りがかりの人々は、その時点で一つになっていたのではないでしょうか。さらに言うなら、それぞれの人々の心の中には、“華”が咲いていたのではないでしょうか
 その“華”がどのようなものであったのかを説明することはできません。いえ、説明する必要もないのだと思います。
 私たちが微笑んでいるとき、心の中には“華”が咲いている…。“華”が咲くから微笑むことができる…。「笑う」ことと「咲く」こととは同一と見なすこの見解に、私は大きな魅力を感じるのです。

 年末を迎えました。間もなく新しい年となります。それがどんなに些細で平凡なものであったとしても、明るい笑いとともに、心の中に幸せな華を咲かせることの多い年になることを願わずにはいられません。(〆)

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次回は、「この世で一番愛しいもの」を掲載(1回配信)します。ぜひご訪問ください。
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