2015
11.01

「たてまえ」と「ほんね」の間で ①/⑤

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 中央教育審議会(中教審)が、現在は教科外活動とされている小中学校の道徳を正式な教科とすることを決めるように文部科学相に答申したというニュースが報道されました。文科省は2018年度の教科化を目指しているようです。
 道徳は、現在、教科に含まれていません。そのために、教科書はなく、評価も行われていません。したがって、通知票にも表記はありません。 
 正式な教科になれば、検定教科書が使われることになり、評価が行われ、通知票にも何らかの表記がなされることになると思われる。大きな変更であり、教育現場にあってはかなり混乱があると予想されます。
 この変更はどのような理由からなのでしょうか。最大の理由は道徳教育の充実を図ることにあることはいうまでもありませんが、裏を返せば、道徳の指導がいかに難しいかということを示すものではないかと思うのです。とりわけ、週1回行われる「道徳の時間」の扱いが問題になるのだと思います。
 教育現場では、指導する先生によって、この時間の進め方にかなりの温度差があるのも事実です。もちろん、一生懸命に取り組んでいる先生もありますが、その一方で、教科(国語や算数など)に重きを置き、「道徳の時間」を軽視する傾向も否めません。用意された副読本を読むだけ、NHKで放送されている道徳番組を見せるだけといった指導の実態もあります。あるいは他の教科の指導に振り替えたりする場合さえもあります(恥ずかしいのですが、これは若かりし頃の私自身の体験でもあるのです)。
 このように、現場の先生の意識の問題が大きいのかと思うのですが、一方で、指導方法についての研究も不十分なのだろうと思います。「道徳の時間」の授業の実際について私見を述べてみたいと思います。
 「道徳の時間」では、一連のプロセスの中で、「たてまえ」と「ほんね」との葛藤場面を上手につくり出すことが授業の成功の鍵とされます。「たてまえ」とは、表向きの方針、「ほんね」とは、本心から出たことば。たてまえを取り除いた本当の気持です。

 ここで、少し長くなりますが「道徳の時間」の授業展開例を一つ紹介したいと思います。「たてまえ」と「ほんね」を引き出し、葛藤させることで、道徳的な価値(家族愛)に気づかせることをねらった小学校の低学年の授業の例です。
 ちなみに、子どもたちに発言を引き出すための問いかけを「発問(はつもん)と呼びます。「道徳の時間」では多くの場合、読み物資料を提示し、その中の主人公の心情の変化を追うパターンで授業が進められます。
 今回、紹介する授業も、主人公である「ぼく」の気持ちを問いかける方法で進められています。子どもたちは、変化する「ぼく」に自分の気持ちに重ね合わせながら、考えを深めていくことになります。(以下、②/③につづく)

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2015
11.05

「たてまえ」と「ほんね」の間で ②/⑤

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 今回の読み物資料「いいおばけ」のあらすじは次のようです。


 夜、主人公(ぼく)と 姉、母親は、夕ご飯後、テレビを見ていたのですが、母親は家事の疲れからか、居眠りを始めます。すると、姉は、主人公に、二人で茶碗の片づけを提案します。姉は茶碗を洗い、主人公はテーブル拭きと皿拭きをします。
 しばらくして、目を覚ました母親はそれに驚きます。それを見た二人がにやにやしていると、母親は次のようにつぶやきます。
「こんなおばけが、毎日、出るといいわ。」


 この授業の場合、「たてまえ」とは何でしょうか。次のような発問によって引き出される反応かと思います。
Q居眠りをしているお母さんを見て「ぼく」はどう思ったでしょう?
・お母さんはとても疲れているんだな。
・お母さんは、「ぼく」たちのお世話で疲れているのかな。
・お母さんが疲れないようにお手伝したいな。
 「お手伝いしたいな」という発言がありますが、これはいわゆる「べき論」のカテゴリーにあるものです。いわば「きれいごと」を述べたもので、まだ「ほんね」とは言えません。
 そこで、次に「ほんね」を引き出す段階です。自分の中に潜む別の感情に気づかせる段階です。これには、次のような発問が考えられます。
Qお母さんが、おばけの仕業と言ったとき「ぼく」は、どんな気持ちになったでしょう?
これに対しては、次のような反応が予想されます。
・お母さんは、お姉ちゃんだけがやったと思っているかもしれない。
・お母さんは、ぼくがやったことに気づかいていないかもしれない。
・せっかくお手伝いをしたのに自分のことを認めてもらえないのはつまらない。
 これが「ほんね」です。「たてまえ」を除いたときに現れてくるもう一つの感情です。飾りのない「生の声」と言ってもいいかと思います。
 この段階では、さらに自分自身の事前の経験(学習)を想起させる必要があります。次のような問いかけです。
Qあなたにも、これと同じようなこと(経験)がありましたか?
 次のような反応が予想されます。
・お手伝いをして誉めてもらえなかったとき、つまらなかった。
・誉めてもらえると思ってやったのにだれも誉めてくれなくて、やる気がなくなったり、怒れたりしたことがあった。
・誉めてもらったときはとても嬉しかった。
 「たてまえ」から離れ、それまでは気づかなかった自らの内面に潜む、いわばマイナスの感情の存在に気づかせる段階です。これが、次にそれを乗り越えていこうとする意欲を高める段階へのステップになります。そのために、これまでの自分の経験や体験を思い起こさせ、主人公の心情に重ね合わせながら考えさせていくというわけです。
 ところで、「ほんね」を引き出すことは非常に重要ですが、この段階で終わってしまっては授業の目的を達成できません。実践への意欲を高めるためには「たてまえ」と「ほんね」を統合する必要があります。どうしたらいいのでしょうか?次のように発問が考えられます。(以下、③/⑤につづく)

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2015
11.09

「たてまえ」と「ほんね」の間で ③/⑤

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Q「こんなおばけが毎日出るといいわ」というお母さんの言葉を聞いた「ぼく」はどう思っただろう?

・お母さんはとても喜んでいる。
・認めてもらえたり、誉めてもらえたりしなくても、お母さんが喜んでくれるだけでいいのじゃないかな。
・これからももっと母さんの手伝いをして、お母さんを喜ばせよう。
 この段階で引き出される心情というのは、「たてまえ」でもないし「ほんね」でもありません。「お母さんが喜んでくれている」という事実への気づきから生まれるより高められた心情です。それは、母親から認められたいとか、褒められたいとかのレベルを超えたところにある道徳的な価値です。その意味では、「たてまえ」と「ほんね」を統合しています。これが、この授業がねらう「家族の一員としての役割」の自覚につながるものと考えられます。
 最後には、今日の授業についての感想を作文させて授業を終えます。

 以上、長々と場違いな記事を載せてしまったことをお許しください。お断りしておきますが、これは、あくまでも仮想の授業です。このように授業が進行すれば初期の目的が達成できるだろうという想定のもとで組み立てたものです。当然、これとは別の展開がいくつか考えられます。また、これが最適な展開であるとは思いません。
 授業は生き物です。実際の子どもたちの反応は、その場になってみないと分かりません。全く、予期せぬ展開になることもしばしばあります。しかし、そうはあっても、指導者は、事前にこのような準備をして授業に臨むことになります。それが、授業の難しさであり、また面白さでもあるのです。
 
 気になる詩がありました(「よくわかる 坐禅入門」藤原東演著)より)。




  「天使も悪魔もひとりの私」
  強いあなたと、弱いあなた。
  意地っ張りと、甘えん坊。
  わがままさんと、素直ないい子。
  どんな人の心の中にも
  天使と悪魔、ふたりの私がいるのです。
  質問、本当の自分はどっちでしょう。
  答え 三人目の私です。
  自分がふたりいるように感じるとき
  それを統合する「本当の自分」もいるんです。
  本当のあなたは
  天使と悪魔のちょうど真ん中。
  そのことに気づきさえすれば
  悪魔の衝動に負けることなく
  天使でいなくちゃと無理することなく
  自由な私でいられるんです。       (金盛浦子)




                                    (以下、④/⑤につづく)

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2015
11.13

「たてまえ」と「ほんね」の間で ④/⑤

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エッシャー天使と悪魔(M・エッシャー画)

 「天使と悪魔、ふたりの私…」、「本当の自分は…?」、それは「三人目の私」であるという部分に興味を惹かれます。「天使と悪魔」という、二つの側面を持つの私の他にもう一人の私がいる、それが「本当の自分」というわけす。
 少し飛躍するかも知れませんが、このことを、先に例示した「道徳の時間」の場合と照合しながら、少し考えてみたいと思います。
 「道徳の時間」では「たてまえ」と「ほんね」が問題でした。したがって、これに当てはめるなら、「たてまえ」で臨む自分「ほんね」で臨む自分のどちらが「本当の自分」かということが問題になるのかと思います。
 「たてまえ」だけの生き方、それは仮面をかぶって生きることにも喩えられます。その場その場で仮面を付け替えては、無理にでもそれにふさわしい生き方をするということです。社会生活を営んでいく上で避けて通れないことではありますが、これを続けていると疲れます。周りの目を気にしながら生きることにもつながり、ストレスも溜まります。
 しかし、だからといって「ほんね」だけで生きようとすれば、他者との間にさまざまな軋轢を生むことになります。自分を大切にするがあまり、相手に対する意識や配慮が希薄になり、関係にも歪みが生じて様々なトラブルに遭遇することにもなります。そして、それがやはりストレスの源ともなります。
 先の「道徳の時間」の授業例でも述べたように、人として求められる道は、「たてまえ」でもなければ「ほんね」でもないのだと思います。それを統合したところにある生き方だと思うのです。
 「お母さんが喜んでくれれば…」という思いの底流にあるのは、「あなた(お母さん)が喜んでくれることが、わたし(ぼく)の悦びである」という、人間としての原初的な感情だと思うのです。その意味では、「三人目」の私というのは、“私を抜きにする”ところに現れる私ということなるのではないでしょうか。いつも言う、「わたし」は「わたし」であると同時に「あなた」でもあるという真理に同化した私です。そして、それに気づいた自分が、「本当の自分」ということではないかと思うのです。(以下、⑤/⑤につづく)

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2015
11.17

「たてまえ」と「ほんね」の間で ⑤/⑤

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 「ありのまま(ありのままの自分)に生きる」というフレーズをよく耳にします。しかし、私の偏見かも知れませんが、これにはどうも「ほんね」で生きるということに固執したイメージがあります。また、どこか利己的な印象があり、他者への意識や配慮に欠けるものを感じます。「ありのままに生きる」ということは、決して、自分の好みや都合だけで生きることではないはずです。
 仏教の重要な教えの一つに『諸法無我(しょほうむががあります。これはこの世のあらゆるものが無限の関係性の中に存在しているということを説いたものです。端的に言うなら、「あなた」に支えられ「わたし」があり、その「わたし」も「あなた」を支えるものとして存在しているということです。結局は、「わたし」も「あなた」も本来は一つだということです(念のため言い添えますが、このときの「あなた」というのは、人間のことだけではなく、生きとし生けるもの全てを指します)。
 「ありのまま」というのは、“その事実のまま”ということではないでしょうか。したがって、「ありのままに生きる」とは、その事実をそのまま認めて生きていくことだと思うのです。それが、「わたし」と「あなた」を統合しながら生ていくことではないかと思うのです。
 「悪魔」というのは、自分の都合だけで生きようとする私…。「天使」というのは、相手の機嫌ばかり気にして生きている私…。どちらも私には違いありません。しかし、これとは別に、その両者を冷静に俯瞰する「もう一人の私(三人目の私)」がいる、そう考えると、現実生活の中で揺らいでばかりいる私のような人間も、救われるような気がするのです。
 「道徳の時間」では、道徳的価値の自覚や自分の生き方についての考えを深めることで「道徳的実践力」を育成することが目指されますが、それは結局、「わたし」は「わたし」であると同時に「あなた」でもあるという真理に目覚めることで醸成される力ではないかと思うのです。そこに、「本当の自分」があり、その自分に随って生きることの中に「本当の自由」があるということです。
 本ブログでよく引用する言葉に「自灯明 法灯明」があります。釈迦がその最期のとき、弟子の阿難尊者に遺した言葉として伝えられているものですが、その意味は、「よく整えられた自分を拠りどころとして生きていく」ということです。私は「道徳の時間」というのは、まさに「自らをよく調え、本当の自分に気づく時間」ではないかと思うのです。それだけにたいへん難しいし、だからこそたいへんやり甲斐もあると思うのです。
 教科化という大きな変革が予想されますが、現場の先生には、これを機として、一層頑張っていただきたいと思うのです。(〆)

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いつもお付き合いいただき、ありがとうございます。お陰様で、ブログ開設4周年を迎えました。皆さんのご訪問が何よりの励みです。つたない内容ですが、今後ともよろしくお願いいたします。
 
  次回は、「良寛さんの鍋」を掲載(5回配信)します。ぜひご訪問ください。 


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2015
11.21

ギャラリー40

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◎これまで掲載した水をテーマにした写真をギャラリー40としてまとめました。 

 
水は百面相 どれも水の顔には違いない 
 しかし どれも本当の顔ではない 
 心も同じこと
 
1~2は名古屋市の名古屋港水族館で、3~7は、豊田市の松平公園で撮影したものです。後者は、薄氷の面白い表情が印象的でした。


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次回は「良寛さんの鍋」を掲載(5回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。

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2015
11.25

良寛さんの「鍋」①/⑤

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 以前、本ブログ「お経で健康になる」で、仏壇の前で『般若心経』の読誦(どくじゅ)を日課にしていると書きました。そして、その際、これを陀羅尼(呪文)と考え、意味を理解することより、声を出して読むことに重きを置いているとも書きました。
 しかし、今回は、敢えてその意味について少し考えてみたいと思います。前言を覆すようで後ろめたいものを感じるのですが、仏教(とりわけ禅)の根本思想である「空(くう)」の概念を把握する上で、『般若心経』は避けて通れないと思うからです。
  「空」という概念はたいへん難解です。転変生、関係性、相対性、一元性などさまざまな側面があると思われるのですが、今回は“一元性”という視点から考えてみたいと思います。
 私見ですが、「空」のもつ“一元性”という側面を考える上で、白隠禅師(江戸時代に活躍した臨済宗の高僧)の『坐禅和讃』の中に一つのヒントがあるように思います。
 白隠禅師は、和讃の中で「直(じき)に自性(じしょう)を証すれば 自性即ち無性(むしょう)にて すでに戯論(けろん)を離れたり」と詠っています。
 「自性」という言葉には、本来の性質、あるいは固定的実体などの意味があります。したがって、この一文は「物事の本質を見極め、そこに全く固定的な実体が無いということが分かれば、無駄な議論は必要なくなる」ほどの意味になります。この「物事には固定的な実体が無い」ということが、「空」の“一元性”ではないかと思うのです。
 『般若心経』では「深般若波羅蜜(はんにゃはらみた)という言葉が5回登場します。「般若」というのは仏の智慧のことで、一般の智恵ではありません。真実の智慧ともされ、物事をありのままに正しく見る智慧ともされます。そして、『般若心経』では、この「般若」によって「空」を把握することが可能になり、その結果として「悟り」を得られると説かれます。つまり、物事に固定的な実体がなく、現象世界にあるものは、すべて仮のものであるということを見極めることで、私たちはより自由に、楽に生きていけるようになるというわけです。
 では、固定的な実体がないとはどのようなことをいうのでしょうか?
 良寛さんにまつわる面白い話があります。(以下、②/⑤につづく)

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2015
11.29

良寛さんの「鍋」②/⑤

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 ある日、良寛さん(江戸時代後期の曹洞宗の僧侶)のところへ一人の旅人がやって来ました。わざわざ越後の山中に訪ねてねてきてくれた知人です。良寛さんはこの旅人を大事にもてなします。旅人が足を洗えるよう、良寛さんは器に水を入れて用意します。次にお茶を出し、夕食には粥を供します。
 そして翌朝になると、洗面のために水を用意します。
 ここまできて、どうやら旅人も気がつきます。彼は、恐る恐る良寛さんに尋ねます。
「ひょっとすると、これは鍋ではありませんか?」
「ああそうだよ」
良寛さんはすまし顔で答えます。
旅人は驚いて訪ね返します。
「では、昨日はこの鍋でお粥をつくってくださった?」
「そうだよ。私は鍋を一つしか持っていないからね」
「では、昨日私が足を洗ったのもこの鍋で?」
「ああ、そうだよ。さあさあ、早く顔を洗ってくだされ。その鍋で、朝粥を作らなければならないでのう」


 まるで学芸会で演じられる児童劇を見るような逸話ではあります。足を洗うときは…、煮物をするときは…、顔を洗うときは洗面器…。一つの器をそれぞれ場面に応じて使い分けているその様子は、良寛さんの清貧枯淡な生き方を象徴するものと言ってよいでしょう。
 では、この話から、「空」ということをどのように受け止めたらよいのでしょうか?以下は、いつものように私見です。
 先に、固定的な実体がないことを「空」というと言いました。そして、現象世界にあるものは、すべて仮のものであるとも言いました。
 そこで、この器ですが、良寛さんが示してくれたように「鍋」ではありますが「鍋」ではありません。「桶」ではありますが「桶」でもありません。また、「洗面器」ではありますが「洗面器」でもありません。つまりは、この器に固定的な実体がないということです。これが「空」ということです。
 私たちの身の回りにあるものは、使う側の都合によって、さまざまな役割を持ち、それらしい名称が付けらています。けれども、すべては便宜的なものであり、固定な実体を持つものではありません。(以下、③/⑤につづく)

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