2015
10.04

「『観音の力』を念じる」⑥/⑥

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 こうして読み味わってくると、その他の頌で語られる七難についても、それらは、ことごとく自分自身の心の中に生じる災難であるというように思えてこないでしょうか。紙面の関係で、一部の内容についてしか触れることはできませんが、『観音経』に語られている火難、水難、風難、刀杖難、鬼難、枷鎖難、怨賊難の七難も、結局は、私たちの煩悩の有り様を喩えたものであるということです。
 それらの災難を自分自身の問題として受け止めることができれば、私たちはそれを乗り越えるチャンスを与えられるのではないでしょうか。
 どのような災難に遭遇しても、「諸行無常」(永遠の転変性)と「諸法無我」(無限の関係性)の中を生きているという真理にさえ目覚めていれば、“仏”のように広く、大きく、深く受け止められるようになり、心が軽く、楽になる…。これが、『観音経』が伝えようとする真意なのではないでしょうか。それが、心の奥に宿る「観音菩薩」の存在に気づくことなのだと思うのです。
 その昔、釈迦は、愛弟子の阿難尊者(あなんそんじゃ)から「あなたの死後、誰を頼りにすればよいのでしょうか?」という問いに対して「自灯明 法灯明」と答えたと伝えられています。
 「自灯明(じとうみょう
とは、「自らを拠り所にせよ」ということです。しかし、これは、決して自分勝手なふるまいをしてよいということではありません。宇宙の真理に随って生きなさいというアドバイスです。したがって、「拠り所となる自分」とは、この宇宙の真理に目覚めた自分のことであり、それこそが自らの中にいる“仏”ということなのだと思います。
 『観音経』には、真観しんかん:真実を見る眼清浄観しょうじょうかん:清らかな眼)広大智慧観こうだいちえかん:すべてを見通す眼悲観ひかん:あわれみの眼)、慈観じかん:慈しみの眼)という言葉が出てきます。そして、これが「観音菩薩」の備える救済の源となる力であると説明されます。
 外にある「観音菩薩」にすがって、救済を待つという方法もあるかとは思いますが、自己の奥裡に宿る「観音菩薩」の存在を信じ、その力を身につけようと努力していくこともたいへん尊いことだと思うのです。
 後者の方が難しいことなのかも知れません。しかし、今の私は敢えてそれを実践していきたいと考えているのですが、強がりが過ぎるでしょうか?(〆)


(参考文献)
 ある日の法話より「いろはにほへと」(横田南嶺)                          
 続「観音経」法話(高田好胤 )                        
 あらすじで読む「日本の仏様」(早速 侑)
 「お経の意味がよくわかる本」(鈴木永城)

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2015
10.08

ギャラリー39

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◎これまで掲載した水をテーマにした写真をギャラリー39としてまとめました。 

 
水は百面相 どれも水の顔には違いない 
 しかし どれも本当の顔ではない 
 心も同じこと
 
すべて、名古屋市の名古屋港水族館で撮影したものです。屋内における水の多様な表情に出会い、驚かされました。


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次回は「因果一如」を掲載(5回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。
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2015
10.12

『因果一如』①/⑤

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 禅問答集『無門関』の中に、たいへん気になる則があります。「百丈野狐(ひゃくじょうやこ(第二則)という話です。この話には、唐の時代に活躍した百丈懐海(ひゃくじょうえかい)という禅僧が登場します。
 百丈禅師は、法脈上は、臨済宗の宗祖、臨済義玄の祖父に当たる高僧です。その昔、禅宗がまだ独立した寺院や制度、儀式などを持たなかったとき、法堂、僧堂、方丈などの伽藍を設けたり、「百丈清規(ひゃくじょうしんぎ)」と呼ばれる修行生活の規則を作ったことでも知られます。禅宗史上、極めて大きな役割を果たした禅僧の一人です。
 また、「一日作(な)さざれば一日食(く)らわず」という有名な禅語がありますが、これは、百丈禅師が残した言葉です。出家者にとって労働こそが最も重要な修業であり、労働しないなら食べるに値しないということを自らに律して述べた言葉として伝えられています。
 このように、百丈禅師は実在の人物なのですが、『無門関』の第二則に登場する禅師は、たいへん不思議な扱われ方をされており、興味をひかれます。
 その概要は次のようなものです(細川景一著「古木再び生ず」から)。
 百丈禅師が、雲水たちに向かって説法する時、いつも彼らの後で静かに坐って聞く一人の老人がいました。
 ところが、ある時、講義座が終わり雲水たちは退出するのですが、老人は退かずに一人残ります。百丈和尚は不思議に思い、「一体、お前さんは誰か」と問いかけます。
  老人が答えます。「実は、私は人間ではありません。ずっと昔、迦葉仏(かしょうぶつ)の時代、この寺の住職でしたが、ある時、やって来た一人の修行者から次のように問われました。『修行に修行を重ね、大悟徹底した人は、因果律(いんがりつ)の制約を受けるでしょうか、受けないでしょうか?』と。
 私は、即座に、『不落因果(ふらくいんが―因果の制約を受けない』と答えたのですが、その答えのゆえに五百回も生まれ変わり、長い間、野狐の身に堕(お)とされました。なにとぞ憐れと思って、私に代わって正しい見解をお示し下さい」と。
 そう言うと老人は威儀を正して「修行に修行を重ね、大悟徹底した人は、因果律の制約を受けるでしょうか、受けないでしょうか?」と問いかけます。
 それを聞いた百丈和尚は、即座に『不昧因果(ふまいいんが―因果の制約を昧まさない』と答えます。すると、老人は言下に悟りを開き、野狐の身を脱してしまいました
。(以下略)
 寓話のような、何とも不思議な話ではありますが、「禅問答」としてはたいへん難解で、私などには全く歯の立たない難問です。(以下、②/⑤につづく)

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2015
10.16

『因果一如』②/⑤

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 「因(いん)」とは原因のこと、「果(が)」とは結果のことです。「種をまいて花が咲いた。」というときの「種をまく」が原因で、「花が咲いた」が結果です。
 しかし、種をまいただけでは花は咲きません。水や日光や肥料などが必要になります。これら原因と結果を結びつけるものが「縁(えん)」です。同じ種類の種(原因)であっても、環境や条件(縁)によっては、同じ花が咲く(結果)とはかぎりません。これが仏教固有の「縁起説」です。

 そこで、『無門関』です。この話に出てくる僧(狐)は、「不落因果」と言って狐にされてしまいます。しかし、それが誤りであったことに気づき、百丈禅師から「不昧因果」と示されたことで、真の悟りを得ます。
 ちなみに「昧」という漢字には「道理にくらい」という意味があることから、「不昧」というのは、「道理にあかるい」様を指したものと言えます。したがって、「不昧因果」というのは、「因果の道理をあきらかなものとして受け止め、その道理に随った生き方をしていくこと」との解釈ができます。平たく言えば「因果は逃れられないと覚悟して生きていく」ということでしょう。
 したがって、この話をストレートに受け止めるなら、禅が目指すのは、因果を逃れて生きることではなく、因果は逃れられないと覚悟して生きていくことにあるということになります。その意味では、仏教の伝統的な立場に符合するものであると言えます。
 ところが、今回の「禅問答」にあっては、どうもこれでは合格点がもらえないようなのです。 西村恵信氏(禅文化研究所長)は、その著書「坐る」で次のように述べています。


 「読者の方は、駄目なのは『不落』と思われたでしょうが、実は『不昧』も駄目だというのが禅では正解です。ではどういえば正解になるか、皆さんも一度坐禅して、よく工夫して見られたらいかがですか」


 簡単に正解を口外したりしないのが「禅問答」の流儀のようで、この場合も、西村氏は体よく私たち読者を突き放しています。私のような凡人には、何とも苦々しいことなのですが、「禅問答」のことでもあり、致し方ありません。ここは、自分なりに考えるしかありません。(以下、③/⑤につづく)

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2015
10.20

『因果一如』③/⑤

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 ヒントは、どうも「因果一如(いんがいちにょ)という言葉にあるようです。これは白隠禅師の「坐禅和讃」の中にある言葉です。原文では「因果一如の門開け 無二無三(むにむさん)の道直(みちなお)し」と詠われます。原因と結果は一つであり、「因」と「果」に区別はないということです。「因」が「果」で「果」が「因」であるということでしょう。また、「門開け」というのは、原因と結果の間に壁はなくなり、代わりにそこには互いに通じる門ができるということなのでしょう。そして、「無二無三の道直し」は、それが一本の道となってどこまでも通じているということでしょうか。一体どのようなことなのでしょうか。
 一つには、原因が結果を生み、その結果が原因となって新たな結果を生むということのようにも考えられます。結果もそれで終わりというものではなく、次の原因のもとになります。花は咲き、やがて枯れますが種を残します。そして、その種は、また花を咲かせます。
 また一つには、原因があって結果が生まれるというのではなく、結果はすでに原因の中に含まれているという見方もできます。花の種は、花が咲いたときにすでにそこに蓄えられているということです。

 ただ、白隠禅師禅の説く「因果一如」というのは、これらとはややニュアンスが異なるようです。「因果は逃れられる」わけではなく、かといって「因果は逃れられない」わけでもない…、明らかに矛盾しています。
 そこで、以下、身の程知らずな私見を述べさせていただきたいと思います。
 これは、一瞬のうちに「因」と「果」が統合され“完結”している状態を言ったものではないでしょうか。
 自分自身の体験を交えながら考えてみたいと思います。
  自由な時間が増えたことから、我が家の床ふきをすることが日課になっています。台所や洗面所、トイレ、廊下など、不注意から床を汚すことは多いものです。また、その汚れがスリッパに移り、さらに家中の床に広がってしまうこともあります。そんな様子を見るにつけ、その理由を苦々しい思いで詮索したり、その先に待ち受ける床ふき作業の手間を考えて、憂鬱になることもあります。
 ところが一旦床ふきの作業に入ったときには、それらの思いは全く雲散霧消してしまいます。あるのは、床の汚れとそれを拭き取る道具(雑巾、ウエットティッシュ、スポンジなど)、そして私の肉体だけです。床をきれいにしたいという「因」床が磨かれるという「果」が切れ目なく一つになってどこまでも続いているといったイメージです。
 これが、原因と結果が一瞬のうちに統合され、“完結”している状態です。したがって、その一点においては、過去もなければ未来もありません。(以下④/⑤につづく)

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2015
10.24

『因果一如』④/⑤

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 もっとも、こんなふうに考えると、そもそも私たちが何かの「こと」に集中、没頭しているときというのは、すべからくこのような様態なのではないでしょうか。「我」を忘れ、「時間」を忘れて、全身全霊でその「こと」に臨んでいるはずです。そのときに、それまでの経緯やそこから先の見通しなど全く脳裏にないはずです。言ってみれば、「時間のレベル」を超越しています。
 つまりは、「因果一如」というのは、瞬間、瞬間を全力で生き切ることなのではないかと思うのです。
 「因果律」は確かにあります。一切のものは原因があって生じ、原因がなくては何ものも生じません。しかし、仏教の「縁起説」に随うなら、一切の事物は固定的な実体をもたず、さまざまな原因(因)や条件(縁)が寄り集まって成立(果)しています。
 したがって、「善因」があっても必ず「善果」がもたらされるわけではありません。これだけ努力したのだから、これだけ頑張ったのだからといって、必ずしも望み通りの結果が得られるわけではありません。努力や頑張りが報われないこともあります。私たちは、そのことをわきまえておかないと、想定外の結果に悩み、苦しむことになります。
 「不昧因果」…因果は逃れられない。これが仏教の根本的な立場ではあります。しかし、これだと最初から決まっている結果を変更できないことになり、「因果律」への執らわれが生じます。また、だからといって「不落因果」…因果は逃れられる、となれば、社会から隔絶した、まるで仙人のような生活を送らなければならなくなります。これでは「無門関」に出てくる野狐と同じことになってしまいます。
 結局のところ、過去のことは変えられず、未来のことはよくわからないという真実に目覚めるということではないでしょうか。そして、目の前の今できることに集中し、ベストを尽くしていく、その瞬間瞬間の「因果」の“完結”を味わうことの大切さを言っているのではないかと思うのです。「因果律」は否定できないけれども、それに執らわれることのない生き方こそ、最善の生き方であるということではないでしょうか。
 先の禅問答「百丈野狐」の僧(狐)は、皮肉にも口では「不落因果」と言いながら、「悟りを開けば、因果から逃れられる…」と、結局は「因果律」に執らわれたことで、野狐にされてしまったのではないでしょうか。(以下⑤/⑤につづく)

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2015
10.28

『因果一如』⑤/⑤

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16c.jpg[石田三成]

 少し横道に逸れるかも知れませんが、戦国の武将、石田三成の最期の様子を伝える、たいへん興味深い話があります。
 関ヶ原の合戦で敗軍の将となった石田三成は、山中(古橋村)で捕縛された後、徳川家康の命により六条河原で斬首されますが、その処刑の前、喉が渇いたので警護の者に白湯(さゆ)が欲しいと願い出ます。
 しかし、警護の者からは「白湯はないが柿はある。これを食べよ」と言われます。ところが、三成は「柿は痰の毒であるからいらない」とこれを拒みます。警護の者は「これから首をはねられよう者が自らの体調を気遣ってどうする」と笑いますが、三成は、「大志を持つものは、最期の時まで命を惜しむものだ」と言ったといいます。
  見方によれば、往生際が悪いという批判も可能です。しかし、この三成の最後の生き様に「因果一如」を感じ取ることはできないでしょうか。間もなく処刑され、命を断たれる運命にありながら、三成の態度にそのことへの執らわれはありません。あるのは、今を全力に生きることだけです。この話から察する限り、三成は、その最期に臨んでも「因果一如」を貫いたのだと思います。
 考えてみれば、これは私たち自身にも当てはまることだと思います。三成との違いは、私たちには余命がどれだけあるか分からないだけです。「因果一如」という立ち位置から人生を眺めるなら、
たとえ余命があとわずかであろうと、あるいは数十年あろうと、生きることの意味と重さに変わりはありません。「因果」の統合と“完結”、その瞬間、瞬間の連続にこそ生きることの意味があり、目的があるということです。

 ところで、善行を重ねても、悪果を受ける人がある一方で、世の中にはその逆の場合もあることを私たちは知っています。愚行を重ねながらも富をつかんだり、社会的な地位を得て得意になっているような人もたくさんあります。正直に善を積み、守ろうとし努力している人が馬鹿を見るというような場面もままあるものです。これについてはどのように考えたらよいのでしょうか。
 この問題について、最後に、日本曹洞宗の祖、道元禅師の言葉を紹介して、今回のブログを閉じたいと思います。


 大凡(おおよそ)因果の道理歴然として私なし。造悪の者は墜ち、修善の者はのぼる。悪をつくりながら悪に非ずと思い、悪の報(むくい)あるべからずと邪思惟(じゃしゆい)するに依りて、悪の報を感得せざるには非ず。
(意訳)悪い事をしても悪い結果にならないのは因果律が成り立たないのではなく、悪い事をしている事自体が悪い結果なのである。因果一如とはこのことなのである。 (〆)

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次回は、「たてまえとほんね」を掲載(5回配信)します。ぜひご訪問ください。

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