2015
09.02

『風流』を考える①/③

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 突然ですが、“風流”という言葉を聞いてどのようなイメージを持つでしょうか。煩雑な日常生活に明け暮れている私たちにとって、あってあまり馴染みのない言葉ではあります。正直、ピンとこないという反応も多いかと思います。
 因みに、辞書(大辞林第三版)で調べてみると次のような説明がありました。
 ①おちついた優雅な趣のあること。みやびやかなこと。また、そのさま。風雅。
 ②詩歌・書画・茶など、俗を離れた趣のあるもの。
 ③美しく飾ること。意匠をこらすこと。また、その物など。

 読者の抱いているイメージと齟齬はなかったでしょうか。かく言う私などは、日没直後、東の空に浮かぶ丸い月を見て、「これを風流というのかなあ」と思う程度で、ふだんから“風流”とは縁遠い生活をしています。
 ところで禅にあってはこの“風流”という言葉は、これとはまったく異なる使い方をするようです。「風が流れる」という文字の通り、“風流”とは「ゆらぎ」のことだといいます。玄侑宗久氏(臨済宗の僧侶、作家)によれば、何でも禅僧たちは、「弁慶の泣き所をどこかにぶつけたような場合」、すぐさま次のように言うのだそうです。曰く、「“風流”だね」と(『禅的生活』ちくま新書)。
 不慣れなことに出会ったり、想定外の出来事に遭遇したりすると私たち凡夫の心は揺らぎます。玄侑氏の例をもとに展開するなら、
 「痛い!…」「誰がこんなところに○○を置いたのか?」「天敵の△氏の仕業かも?」「骨に異常はないだろうか?」「病院で診てもらった方がいいだろうか?」
などの感情がそれではないでしょうか。
 ところが禅によれば、人間には、このような心の「ゆらぎ」を楽しむことができる特別な能力があるといいます。そして、それこそは人間にだけできる最高の楽しみ方だともいいます。思い通りにならないことから生じる心の「ゆらぎ」をどのように楽しむというのでしょうか。
 禅でいう「ゆらぎ」というのは、心が揺れ動いている状態です。言葉を換えるなら、心が「六道」を輪廻(りんね)」している状態でしょう。「六道」とは、「天道(てんどう」「人道(じんどう」「阿修羅道(あしゅらどう」「畜生道(ちくしょうどう」「餓鬼道(がきどう」「地獄道(じごくどう」のことですが、いつも言うように、これは死後の世界のことを喩えたものではありません。現世を生きている私たちの心が、日々、この六つの道を迷い、巡っているという考え方です。(以下②/③につづく)
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2015
09.06

『風流』を考える②/③

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「六道」とは、次のような六つの心の状態であるときとされます。

 ・「天道」…喜びの真っ直中にあるとき
 ・「人道」…心が平穏な状態にあるとき
 ・「阿修羅道」…争いの中にあるとき
 ・「畜生道」…本能の赴くままにあるとき
 ・「餓鬼道」…際限のない欲望を抑えられないとき
 ・「地獄道」…罰を受けていると感じているとき
 例えば、肥満が気になり食べたいものが食べられないときの「不満」や大切な我が子が思うようにならないときの「苦悩」、嫌な上司の命令に随わなければないときの「憤懣(ふんまん)」などは、心が「餓鬼道」「阿修羅道」あたりを巡っているのではないでしょうか。
 それを“風流”として、文字通り“風に流してしまう”などということは、そう簡単なこととは思えません。いったいどのようなことなのでしょうか。以下、私見を述べてみたいと思います。
 「ゆらぎ」の中にあるときには、自分が揺らいでいることには気づけないはずです。「六道」を迷い、巡っている最中に、そのことに気づくことは不可能でしょう。飛躍するかもしれませんが、それは、有史以来、自転する地球上にあって、人類が永くその事実に気づけなかったこととよく似ていると思います。
 「ゆらぎ」に気づくためには、その外側に客観的な「固定点」を持たなければなりません。そこから眺めることによって「ゆらぎ」の事実を認識でき、内省のチャンスも得られるのです。因みに「地動説」の場合、ガリレオによってもたらされた数多くの科学的データが「固定点」となりました。
 「固定点」を持つということは、どのようなことなのでしょう。
 それは時空を超えたものの見方、考え方に立つことではないかと思うのです。別な言い方をするなら、「六道」の中に揺らいでいる自分から離れ「我にかえる」ということです。自分本来の立ち位置に戻り、「諸行無常」(永遠の転変性)と「諸法無我」(無限の関係性)の中を生きているという真理に目覚めることと言ってもいいでしょう。
 では、私たちが「固定点」を持つことで、どのような変化が生まれるのでしょう。
 それは、自分を抜きにして、広く全体を見渡し見通すことで、真理を見極める冷静さを獲得することではないでしょうか。(以下③/③につづく)
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2015
09.10

『風流』を考える③/③

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 そのときには、耐えられないような事柄であっても、時間が流れ、過ぎ去ってしまえば、何でもないことのように思えることがあります。また、後で冷静になり、よくよく考えみると、自分の勝手や都合だけで事が運ぶものではないと気づくことは多いものです。そして、
 「あのときは、どうしてあんなに心が揺れたのだろうか?」「よく考えれば、大したことではなかったのに…」
などとと思ったりする経験は誰にでもあると思います。それは、私たちが無意識のうちに身につけた“すべては時間が解決してくれる”さらには自分の勝手や都合だけではどうにもならないことがある”という真理につながる高度な気づきでもあると思います。
 このように、「固定点」を持つことで、私たちの心の働きには大きな変化が生まれることになります。それは、現状を全面肯定できるようになるということです。具体的には、「不足」や「苦痛」、「不満」など、「思い通りにならない」ことは「思い通りにならない」こととして無条件に受け入れることができるようになるということでしょう。
 そうなれば、心が揺らいだときにも、
「なんだ、またそんなことになっているのか…。いつもご苦労さんなことだな…」
などと達観できるのだと思うのです。それが「ゆらぎ」を楽しめることに通じるのではないでしょうか。
 ただ、月にかかる黒雲やスネを何かにぶつけたときの傷み程度の“風流”ならまだいいのですが、私たちは、ときとして想定を遙かに超える出来事に遭遇することもあります。先の東日本の震災やそれに伴う原発事故、あるいは予期せぬ水害や火山の噴火などがそれでしょう。また、突然の交通事故や発病などもそれにあたるでしょう。

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 ところが、こんなときにも禅は次のように言います。「不風流処也風流(ふうりゅうならざるところまたふりゅうなり)と。“風流”でないこと(「ゆらぎ」と受け止められなかったことで生じる「ゆらぎ」そのもの)がまた“風流”(新たな楽しむべき「ゆらぎ」)であるということです。
 “やせ我慢もここに至れり”との感もあるのですが、これが“風流”についての禅の立場というわけです。「固定点」が定まり、全面肯定という覚悟が決まると、こんな境地にまでたどり着けるということなのでしょう。なんと大きく自由な発想なのでしょうか。私のような凡人には到達できない境地ではありますが、禅の持つこのようなスケールの大きさ、自由闊達さに心ひかれるのです。
                         
 禅に倣うなら、思い通りにならないことがあったとき、無理矢理にでもそれを“風流”だと意識する習慣を身につけることでしょうか。やせ我慢ではあっても「ああ“風流”だなあ…」とつぶやくように努めたいと思っています。(〆)

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次回は「『観音の力』を念じる」を掲載(6回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。

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2015
09.14

「『観音の力』を念じる」①/⑥

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 ある本を読んでいたとき、仏教詩人として知られる坂村真民に「手が欲しい」という詩があることを知りました。
 目の見えない子が描いた / お母さんという絵には 
  いくつもの手が描いてあった 
 それを見たときわたしは 
 千手観音さまの実在をはっきり知った
 それ以来あの一本一本の手が
 いきいきと生きて / 見えるようになった
 異様なおん姿が / すこしも異様ではなく
 真実のおん姿に / 見えるようになった…   
          ※原文では「 / 」は改行されています。
 目の見えない小さな子どもが描いたお母さんの絵には、たくさんの手があったという話です。ご飯を食べさせてくれる手、着替えを手伝ってくれる手、どこにいくにも手を引いてくれる手、お風呂に入てくれる手…。まだその姿を見たことのない子どもにしてみれば、自分が困ったとき、その都度、その都度、救いの手を差し伸べてくれるお母さんの体に何本もの手があるように感じられたとしても、なんの不思議もないのかも知れません。
 その絵を想像するとき、描いた子の感性の豊かさ、表現の自由さに感動を覚えると同時に、この絵から千手観音の実在を「はっきり知った」という作者の告白も、眩しく迫ってきます。
 「千手観音(せんじゅかんのん)といえばその名の通り、千本の手を持つ観音さまのことです。それは、どのような衆生も漏らすことなく救済しようとする慈悲の大きさを表すとされます。千本の手には、それぞれに眼がついており、数珠、宝珠、宝鏡、宝弓、宝剣などさまざまな持物があります。空想上の存在であるとは言え、その姿は異様といえば異様です。
 ところが、作者は、母親を描いたこの絵に触れ、それに「真実のおん姿」を見たと言います。想像ではありますが、これは観音さまの持つ母性的なイメージに由来するのではないでしょうか。「白衣観音」や「慈母観音」に代表されるように、観音さまは、一般に仏像や仏画などでは、女性の姿で描かれることが多い仏です。このため、作者は、子どもの描いた母親の姿に、「千手観音」の姿を重ね合わせたのではないでしょうか。
 ただ、余談ですが、観音さまは、仏教学的には男性であるようです。何でも、菩薩を表すサンスクリット語“ボーデイサットヴァ”は男性のみに使われる言葉なのだそうです。
(以下、②/③につづく)
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2015
09.18

「『観音の力』を念じる」②/⑥

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 観音さま(以下、「観音菩薩」とします)は、『般若心経』では、冒頭で「観自在菩薩(かんじざいぼさつ)」とも読まれます。また、別に「観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)」と呼ばれることもあります。
 仏教では、仏を「如来」と「菩薩」という概念で区別しています。「如来」は、悟りを開き、真理の世界(彼岸)から教えを広めている仏です。釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来などの仏がそれです。
 これに対して「菩薩」というのは「菩提薩捶(ぼだいさった」、つまり、悟りを求める者という意味で、「如来」に限りなく近い位置にありながら、現世に留まり、私たち凡夫を救うことを務めとする仏です。宝冠、胸飾りなど豪華な装飾品を身につけた姿にその特徴がありますが、これは釈迦が出家する前の姿を表しているとされます。
 そこで「観音菩薩」ですが、名称は、その名前を称えるとその音を観じて(受け止めて)願いを成就させてくれるということに由来します。
 「観音菩薩」は、救うべき相手に応じて、その姿を三十三に変身させていきます。ある時は、聖者、ある時は天界の神々、またある時は人間界にいる者、さらには修行者、女性、子供などのように自由自在にその姿を変えながら、人々を救済するとされます。
 現世利益の成就に霊験があるとされることから今日まで、最も広く民衆の信仰を集める仏の一つとなっています。これが全国に広がる三十三観音霊場巡りの起こりのようです。
 ちなみに「千手観音」は、「観音菩薩」とは区別して「変化観音(へんげかんのん」と呼ばれています。「十一面観音」「馬頭観音(ばとうかんのん」「如意輪観音(にょいりんかんのん)などと並び、固有の菩薩として衆生済度していくとされます。 

 ところで、禅宗などよく読まれるお経に『観音経(かんのんぎょう)があります。数あるお経の中でもたいへんポピュラーな経典の一つで、『法華経』の中に含まれるお経でははありますが、独立して読まれることの多い経典でもあります。
 『観音経』は、「観音菩薩」を大慈悲心の体現者として位置づけ、観音の力を念じることで、人々を七難から救ってくれると説いています。七つの災難とは、火難、水難、風難、刀杖(とうじょう)難、鬼難、枷鎖(かさ)難、怨賊(おんぞく)難の七難です。」(以下、③/⑥につづく)

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2015
09.22

「『観音の力』を念じる」③/⑥

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 後半に読まれる『世尊偈(せそんげ』では、12頌(しょう)にわたって具体的に観音の力が説かれます。その一部を紹介します。
 ○たとえ害意によって大きな火の坑(あな)に落とされても、観音の力を念じれば、火坑は池に変わる。
 ○大海に漂流して龍や魚、鬼神の難に遭うことがあっても、観音の力を念じれば、荒波に飲み込まれることはない。
 ○須弥山(しゅみせん)の頂上から突き落とされそうになっても、観音の力を念じれば、太陽のように空中にあって落ちることはない。
 ○国王から迫害されて死刑を執行されようとするとき、観音の力を念じれば刀は見る見る間に折れてしまう。
 ○猛獣に囲まれて牙や爪をむいて襲いかかられようとしたときも、観音の力を念じれば、たちまちのうちにいずこかへ逃げ去るだろう。 
 ○空が雲り、雷がとどろき、雹や大雨が降ってきても、観音の力を念じれば、すぐに消えるだろう。   
 残りの6頌についても、観音の力について、このような調子で説かれていきます。
 これらの文言を驚きをもって受け止められた読者も多いことでしょう。『観音経』というのは、SF映画を先取りしたような虚妄の経典では…?「観音菩薩」は、“スーパーマン”よろしく虚構に彩られた存在では?…などが、その感想ではないでしょうか。
  しかし、これらの文言をそのまま鵜呑みにしていたのでは、『観音経』の真意を読み取ることはできません。文字通りの理解に留まるなら、この経典は荒唐無稽なものになり、その存在意義を失ってしまいます。これらはすべて喩え話として語られているということをおさえておかなくてはなりません。
 では、私たちは『観音経』が伝えようとする真意をどのように受け止めたらよいのでしょうか。そのヒントになる一文があります。8番目に出てくる頌ですがその原文は次のようです。
「呪詛諸毒薬(しゅうそしょどくやく)所欲害身者(しょよくがいしんしゃ)念彼観音力(ねんぴかんのんりき)還著於本人(げんじゃくおほんにん)
 その意味は、次のようになります。
 ○呪いの言葉や毒薬で身が危険にさらされても、観音の力を念じれば、それらの害は逆に呪い毒殺しようとした人間にふりかかかるだろう。  (以下、④/⑥につづく)

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2015
09.26

「『観音の力』を念じる」④/⑥

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 「人を呪わば穴二つ」という諺があります。人に害を与えようとすれば、やがて自分も害を受けるようになるという喩えですが、原文の最後にある「還著於本人(げんじゃくおほんにん)」(「還(かえ)りて本人に著(つ)かん)がまさにそれだと思います。平易な言い方をするなら、人に向かって吐いたつもりのつばきも、結局は自分の身にふりかかってくるということでしょう。いわば「自業自得」の理を述べたものと言えます。
 しかし、この文言を見たとき、違和感を覚える読者も多いのではないでしょうか。「観音菩薩」というのは、いやしくも大慈悲心の体現者です。たとえ人を呪い、毒殺しようとするような曲がった心を抱く人間がいたとしても、そういう人を救ってあげることこそが「観音菩薩」の使命であり、存在理由ではないのか…。悪いことをしたからといってひどい目にあわすなどということは、大慈悲心に背くのではないか…。こんな感想もあることでしょう。
 ただし、この場合も、文字通りに受け止めていたのでは、『観音経』の真意は理解できないのだと思います。薬師寺元管長である高田好胤氏は、その著書「『観音経』法話」で、この一文について次のように述べています。
 「『還著於本人』…本人に還るということは、人間の本質としての清らかな一切衆生悉有仏性、あるいは菩提心といわれる清浄心、その本心に立ちかえることです」
 仏教によれば、“衆生本来仏なり(しゅじょうほんらいほとけなり”です(白隠禅師の『坐禅和讃』より)。観音の力を念じることによって「本心に立ちかえる」ということは自分の中にある“仏(仏性)”に目覚めことではないでしょうか。言い換えるなら、この世を貫いている「諸行無常」(永遠の転変性)と「諸法無我」(無限の関係性)という宇宙の真理に気づくことで、俯瞰力、達観力、さらには自制心が立ち現れてくるということです。
 ただひたすら観音の力を信じ、それに身も心も委ねていくということは“自分を抜きにする”ことに通じます。それは、我欲、我執にまみれた自分を一旦は「無」にすることでもあります。それが、呪いや害を加えようとする人の心にも通じ、“我に返る”チャンスを与えるということなのでしょう。
 言うまでもありませんが、この場合の“我”は、“仏(仏性)”につながる自分のことです。仏教思想、特有の「性善説」は、こんな所にも色濃く表現されているわけです。(以下、⑤/⑥につづく)

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2015
09.30

「『観音の力』を念じる」⑤/⑥

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 また、次のような見方もできます。自分に対してかけられる「呪いの言葉」も「毒薬」もすべて受け止める側にあるものです。いつも例に出す「極楽も地獄も己が身にありて、鬼も仏も心なりけり」という古歌もあるように、自分が好ましく思っていなかったことも、見方を変えれば、ありがたいことになる場合があるものです。
 それに、私たちは自分を大切に思うが余り、往々にして必要以上に自分を追い込んだり、逆に、過度に相手を恨んだりすることもあります。しかし、仏教によれば、これらのことは、迷いの心から生じる妄念、妄想に過ぎません。心の持ち方に問題があるということです。
 このように考えると、「還著於本人(げんじゃくおほんにん)というのは、害を受ける側にも当てはまることに気づかされます。観音の力を信じ、身も心も委ねることで、心底から“自分を抜きにする”ということができたなら、それは自分自身も“我に返る”チャンスを得ることにもなるということです。

 このように『観音経』を読んでくると、他の頌で述べられている一見、不可解な文言も別な味わい方ができます。
 次に紹介するのは11番目に登場する頌です。


 ○人を食べ物にする鬼や毒を持った龍、さまざまな悪鬼に遭っても観音の力を念じれば、危害は加えられない。


 何ともおどろおどろしい世界の話のようではありますが、これも心の持ち方の問題に置き換えると、別の世界が見えてきます。高田好胤氏は次ように語っています。


 「羅刹(らせつ:人を食べ物とする鬼)は私たちお互いの心の中に巣くっている煩悩の悪羅刹です。…毒龍というのは、私たちの身・口・意の三業における悪行の毒虫です。…ねたみ、そねみ、恨み、ひがみ、こういう心の働きです。…人がいいことをしているのを見て、褒め称えるのではなく、それをお手伝いするというのではなく、反対に妨害し、それをねたみひがんで、難癖をつけるような心がお互いの心の中に巣くっている。」


  このように、これらの災難を外なる景色として見るのではなく、自分自身の内なる景色として受け止め、「観音菩薩」を念じることで、私たちの醜い心は、浄化され、救済されていくというわけです。それは、私たちの心の奥に眠っている温かく、尊く、清らかな“仏(仏性)”に気づくことでもあります。(以下、⑥/⑥につづく)   
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