2015
06.02

『役割を果たす』②/⑥

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 一つ目は、社会的な役割を持ち、その責任を果たす場合です。職業、あるいは地位や身分を持つものとしてその役割を果たす場合のことです。この場合、社会生活を営む中で、相互に支える力としてその役割を果たすことになるわけですから、多くの場合「人から喜ばれる」ことに通じるでしょう。
 ただ、職業人の場合、定年を迎えた後、その役割が消滅するわけですから、その後をどう過ごすかということが大きな問題となります(それは、私自身の問題でもあるのですが)。
 二つ目は、家族(親族)との関係で生まれる役割です。あるときは子として、あるときは親として、あるときは祖父として、またあるときは夫として、兄(姉)、弟(妹)として、様々な役割があります。さらには、甥(姪)、従兄弟などとしての役割も含まれるでしょう。
 この場合も、それぞれの関係がうまくいっていれば、「人(家族や親族)から喜ばれる」ことに通じていくのではないでしょうか。
 三つ目は、公民としての役割です。通常の市民生活をする上で求められる一市民としての役割のことです。自分が住む自治会などのなかでの役割もこれに含まれるでしょう。この場合には、社会のルールや公衆道徳などを遵守していくことが、結果として「人から喜ばれる」ことに通じていくのだと思います。
 ただ、これらの役割を果たすには注意が必要です。説明するまでもないかと思いますが、「人から喜れる」ためには、それ相応の“意識(善意)”が求められます。通常は、一番可愛いのが自分です。よほど強く“意識”しないと「人から喜ばれる」ことはできないものです。それが私たち凡夫の有り様だと思うのです。(以下、③/⑥につづく)
 

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2015
06.06

『役割を果たす』③/⑥

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 「人から喜ばれる」行為として、仏教には「無財の七施(むざいのしちせ)」という教えがあります。『雑宝蔵経』というお経の中に納められるている教えですが、お金も物も使わずに「人から喜ばれる」ことができるということから「無財の七施」と呼ばれます。
 以前、本ブログでも紹介しましたが、改めて記載させていただきます。
   一、言辞施(ゴンジセ)…温かい言葉をかけること
 一、眼 施(ゲンセ)…優しい眼差しをおくること
 一、和顔施(ワガンゼ)…いつも笑顔で接すること
 一、心 施(シンセ)…心から相手の気持ちになること
 一、身 施(シンセ)…困っている人の荷物を持つこと
 一、牀座施(ショウザセ)…電車の席などを譲ること
 一、房舎施(ボウシャセ)…自分の傘に入れて上げること  
  一つ一つのことは、簡単なことのように思えるのですが、私のような凡夫には、これがなかなか難しい。なぜなのでしょうか。
 それは、「自我(エゴ)」が邪魔をするからではないでしょうか。「自我(エゴ)」とは、自己愛に引きづられ身勝手に振る舞おうとする自分のことです。
 これらのことを実践するためには、その「自我(エゴ)」を働かないようにしなければなりません。それには、それなりの大きなエネルギーが必要です。それは、暴走する「自我(エゴ)」に“意識”的にブレーキをかけることなのですから。
 「全てのものに役割がある」という空海の言葉に随うなら、私たちは常に「人から喜ばれる」という役割を持って生きていることになります。支えられて生きているのだから、支える立場でも生きていくということです。
 ときには「人を悲しませる」こともある私たちではあります。しかし、“意識”さえすれば、それを克服して「人を喜ばせる」ことはできると思うのです。

 ところで、このように“意識”して「人から喜ばれる」ことをしているとき、私は、これを「菩薩としての役割」と呼びたいと思うのです。(以下、④/⑥につづく)

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2015
06.10

『役割を果たす』④/⑥

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 私は、「菩薩としての役割」と呼びたいと思うのです。菩薩とは、悟り(あるいは仏になること)を求めて修行している人という意味です。仏となるだけの実力や資格を十分に備えているにもかかわらず、敢えてこの世にとどまり、苦しみ悩む衆生の声に注意深く(“意識”して)耳を傾け、その声を聴くや否や、救いに来てくださるとされる方です。「人から喜ばれる」ことを悦びとし、それを自らの使命しているのが菩薩です。
 もちろん菩薩というのは、仏教思想の上での空想の存在ではありますが、私たちが「人から喜ばれる」ことを“意識”して実践しているときは、それに近いのではないかと思うのです。いわば「瞬間菩薩」としての役割です。

 ところで、なぜ、このように“意識”にこだわるかということですが、実は“無意識”の中にあっても「人から喜ばれる」ことがあからです。それは、どのような場合でしょう。
 その一つは「習い性となる」ということでしょう。習慣的に行っていると、それは生来の性質と同じようになるという意味です。「無財の七施」も、それを“意識”して続けていけば、その人の生まれつきのように性質になり、“意識”しないでも、「人から喜ばれる」ことができるようになるのかも知れません。もちろん、そうなるためには、それ相応の積み重ねが必要ではありますが…。
 もう一つ、“無意識”のままで役割を果たしている場合があることを忘れてはなりません。
 私事ではありますが、少し前に孫ができました。初孫でした。日々成長していくその姿に接すると、本当に心が癒され、温かい気持ちになって、思わず知らず笑顔になってきます。もちろん周囲の家族も同様です。
 これは、“孫”としての役割を持って誕生した孫が、その役割を果たし、私を含めた周囲の人々を「喜ばせている」ことに他なりません。ところが、当然のことながら、孫にそのことの“意識”は全くありません。“無意識”のままで見事にその役割を果たしているのです。考えてみれば、実に凄いことだと思うのです。
 その意味では、家で飼っているペットたちも同じでしょう。また、庭に植えられている花々も同様でしょう。動物たちや植物たちに「人から喜ばれよう」などの“意識”はないはずです。(以下、⑤/⑥につづく) 

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2015
06.14

『役割を果たす』⑤/⑥

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 さらに最近、こんな場合もあることにも気づきました。マスコミでも盛んに報道されましたのでご存じの読者も多いかと思いますが、2014年2月、ソチオリンピックでのクロスカントリー男子スプリント競技での一シーンです。
 ロシア代表の選手がレース中に転倒し、スキー板が破損してしまいました。同選手は、何とかレースを続行しようとしますが、再度転倒し今度は板が完全に2つに折れてしまいました。このまま棄権かと思われたとき、ライバルチームであったカナダのコーチが新しいスキー板を持って駆けつけ、交換してあげたのです。その結果、同選手は見事ゴールすることができました。
  いろいろな論評があるようですが、私は、カナダのコーチのこの行為こそは、“無意識”の中から生まれたものだと思うのです。目の前に、スキー板が壊れ、難儀をしている選手を目撃したとき、コーチは、後先を考えず、とっさに新しいスキー板を手に駆けつけたのではないでしょうか。そのとき、国籍や着順、あるいは過去の経緯など、念頭にはなかったと思うのです。
  また、同じころ、次のような新聞報道がありました。2013年12月22日、東京都・東大和市の駅構内で、男性一人がホームから線路上に落ちました。目撃した中国人の付鴻飛さんが、すぐさまホームから飛び降り、現場に居合わせた他の乗客と一緒に、転落した男性を救助したという記事でした。付さんは、名前も告げずに電車で立ち去りますが、救助者を捜す駅構内ポスターを見た知人の勧めもあり、「日中友好のために中国人のイメージ改善につながれば」と思い直し、申し出たとのことでした。
  勝手な想像ではありますが、この場合の付さんの行為も“無意識”の中で行われたものではないでしょうか。付さんは、事後、インタビューに応え、「日中友好ため」と述べたといいますが、救助の瞬間には、そのような思いはなかったはずです。ただ何かに突き動かされて、“無意識”の中でその行為に及んだと思うのです。
 カナダのコーチにも付さんにも、その刹那には、「人から喜ばれる」ことをしよう、まして、その行為を美談にしようなどとの思いは微塵もなかったはずです。 (以下、⑥/⑥につづく)  
  
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2015
06.18

『役割を果たす』⑥/⑥

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 二つとも極めて特殊な事例ではあります。しかし、人なら誰でも、条件さえ整えば、このような“無意識”の行為に至るチャンスがあるだろうと思うのです。それは、案外に身近なところにもあるのではないでしょうか。
 例えば、ケガをしたり、身体が不自由な人に出会ったりしたとき、あるいは困っていたり、悲しんでいたりする人を見たとき、思わず助けてあげられることはないか、何かしてあげられることはないかと考えるときもそうでしょう。大きな災害を受けた人のことを知って、助けてあげたい、励ましてあげたいと思うときもそうでしょう。あるいは、満員のバスや電車の中で、高齢者や身体に不自由がある方が乗ってこられたとき、席をかわってあげようという気持ちが湧いてくるのもそうでしょう。
 これこそは、国籍、年齢、性別、職業、経験などあらゆる相違を超越して、人が潜在的に持ち合わせているたいへん尊い心の働きだと思います。そして、それが具体的行為となって働き出すとき、それはさらに尊いものになると思うのです。
 そこで、このように“無意識”のうちに「人から喜ばれる」ことをする場合の役割の呼び方です。またぞろ、抹香臭いと思われるかも知れませんが、私は「仏としての役割」と呼びたいと思うのです。
 仏には、「限りない慈悲の心を持った人」という意味があります。「慈」というのは、相手に限りなく喜びや楽しみを与えることであり、「悲」というのは相手の悲しみや苦しみを限りなく抜き取ってあげることとされます。「慈」は「与楽(よらく)」、「悲」は「抜苦(ばっく)」とも呼ばれます。相手の喜びや悲しみを自らのものとしているのが仏であり、仏に自他の峻別はありません。
 “無意識”の自分というのは、自我に影響される以前の自分のことです。そこに自他の区別が生じることはありません無意識”であるからこそ、煩悩(自己愛から生じる身勝手な心の動き)に惑わされず、「自他一如」を実践できるということです。したがって、“無意識”で果たす役割こそは、限りなく仏に近い役割だと考えるのですが、いかがでしょうか。      
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 いずれにしても、私のように凡庸な生活に明け暮れている人間には、「仏としての役割」を果たすなど、縁遠い話ではあります。今の私には、せいぜい“意識”して「人から喜ばれる」ことをする程度しかできません。さしあたり、「無財の七施」の実践が目標でしょうか。 
 また、その他にも、家の中や公共の場でトイレのスリッパを揃えたり、近所のと人顔が合ったときには、「人から喜ばれる」よう声がけをしたり、あるいは、喫茶店でコーヒーを飲んだり、コンビニやスーパーに買い物に行ったときには、「人(店員さん)から喜ばれる」ように客としての役割を果たしたいと思っているのですが、これでは次元が低いのでしょうか? ともあれ、習い性となるまで、根気強く続けていかなくてはなりません。

 最後に森 信三(哲学者・教育者)の言葉で今回のブログを閉じたいと思います。
 「如何にささやかな事でもよい。とにかく、人間は他人のために尽くす事によって、初めて自他共に幸せとなる。これだけは確かです。」 
(〆)          

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2015
06.26

「耳で見る 目で聞く」①/③

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EPSON022.jpg [大燈国師]

 京都・大徳寺の開山である大燈国師(だいとうこくし)の読んだ和歌に、興味深いものがあります。
「耳に見て 眼に聞くならば 疑わじ おのずからなる 軒(のき)の玉水」
 ちなみに、「軒の玉水」というのは、軒からこぼれ落ちる「雨だれ」のことです。それを「耳で見る…、眼で聞く…」ということですから、大燈国師は、「眼」と「耳」を間違えて詠んだのではないか、こんな疑念を抱く読者があるかも知れません。凡人の常識では考えられない境地です。
 この和歌には、耳で見て、眼で聞くことができなければ本当の「雨だれ」を見たことにならない…。耳で見て、目で聞くことができるなら、「雨だれ」も本当の「雨だれ」になり、さらには、自分自身が「雨だれ」になる…、こんな意味が込められているようです。
 まったく首をかしげたくなるような和歌ではありますが、大燈国師[宗峰妙超禅師]は、日本の臨済宗諸派の法系上の源流として尊崇される「応燈関(おうとうかん」の系譜を成した高僧の一人で、稀代の傑物と評される禅僧です。その境地など、私のような凡人にはとても計り知ることなどできないのは当然でしょう。
 しかし、今回、身のほど知らずにもこの和歌の意味するところについて考えてみたいと思います。例によって、独りよがりな思索であることをお断りしておきます。
 この和歌は「眼で見る」、「耳で聞く」ということの限界に言及したものではないかと思うのです。俗に、「聞いて聞こえず 見て見えず」という諺もあるように、私たちは、関心のあることには眼を光らせ、耳をそばだてますが、関心のないことには、概して無頓着です。見ているようで見えていない…、聞いているようで聞こえていない…、こんな経験は、誰にでもあるのではないでしょうか。いわゆる「心ここに在らず」という状況が作り出す有り様です。
 また、好ましいこと、都合のよいことは受け入れますが、嫌なこと、都合の悪いことは避けようとする厄介な性質もあります。とりわけ、眼に見えるものへの関心は旺盛で、執着心も強いのに、眼に見えないものに対しては無関心であったり、信じようとしなかったりする傾向が強いものです。(以下、②/③につづく)

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2015
06.30

「耳で見る 目で聞く」②/③

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 いつも言うように、私たちが身につけてきたものは、自分の眼で見たこと、自分の耳で聞いたことなど、自らの感覚器官を通して入手した情報以外にありません。そして、それらは、すべて自我(エゴ)の働きによって取捨選択されたものであり、狭く、浅く、偏ったものです。しかし、通常、私たちは、それを正しいと思い込んでしまっています。
 そこで、大燈国師の和歌です。この歌には、自我(エゴ)の働きを停止させる意図があるのではないでしょうか。自我(エゴ)から発するあらゆる予備知識や先入観、偏見を捨て、全身全霊で「雨だれ」に正対し、無心になって、その音を「聞き」、その姿を「見る」、そうすることで、「雨だれ」の本当の姿が見え、本当の音が聞こえてくるということを言っているのではないかと思うのです。
 「雨だれ」の音がするから耳に聞こえる、耳があるからその音が聞こえる、あるいは「雨だれ」があるから眼に見える、眼があるからその姿が見えるといった次元のことではないのだと思います。「雨だれ」も「眼」も「耳」も区別するものはなく、本来は一つだということでしょう。そこに、自我が入り込む余地はありません。そこのところをしっかりと味わうということではないでしょうか。
 また、別の角度から、次のような捉え方もできるかも知れません。
 当然のことながら、眼では聞けません。「眼で聞く」というのは、「眼をつむって感じる」ということではないでしょうか。眼をつむれば、何も見えなくなります。しかし、眼以外の感覚器官は働きます。逆に、眼をつむることによって、他の感覚器官の働きが鋭くなることは、誰もが体験しているのではないでしょうか。
 実際に眼をつむってみると実に様々な音が聞こえてきます。それまで気づかなかった音が聞こえてきます。音だけではありません。香りを感じることできるし、風の動きを感じることもできます。そして、何よりも、自分の周りには、実は眼では見えない大きな世界が広がっていることを感じ取ることができます。それが、「耳で見る」ということではないでしょうか。
「耳に見て 眼に聞くならば 疑わじ おのずからなる 軒の玉水」
 結局、この和歌は、私たちが住む世界には、眼で見たり、耳で聞いたりできないものがあるという事実に目を向けさせようとしているのではないかと思うのです。(以下、③/③につづく)

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