2015
05.01

「“目に見えないもの”の働き」④/⑤

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 仏教には「五観の偈(ごかんのげ)というのがあります。それは修行しているお坊さんたちが、食事をする前に唱えるものですが、それには次のような意味があるそうです。
 、この食事がどのようにしてできたかを考え、食事ができるまでの多くの働きに感謝をいたします。
 、自分の行いが、この食事をいただく価値があるかどうか反省します。
 、心を正しく保ち、あやまった行いを避けるために、欲ばる気持ちを起こさないことを誓います。
 、食事とは良い薬と同じであるので、身体を養い、正しい健康を得るためにめにいただきます。
 、今この食事をいただくのは、自分の道をなしとげるためです。

 「一」の「食事ができるまでの多くの働きに感謝をいたします」ということについて考えてみましょう。食事ができるまでには多くの人手が必要です。お米を例にしてみます。
 苗を作る人がいます。次に田んぼを作り、苗を植え、成長した稲を刈り取る人がいます。また、それぞれの仕事には、さまざまな機械が使われたりしますが、その機械を工場で作る人もいます。それに田んぼにはたくさん水が必要です。その水がしっかり流れるようにいつも気を配っている人がいます。刈り取った後、それをお米屋さんなどに運ぶ人がいます。こうして、できた米をお米屋さんから買ってきたお母さんが、みなさんに美味しいご飯を作ってくださるのです。
 けれども、この「食事ができるまでの多くの働き」というのは、決して人間の働きだけではないと思います。この他にも、太陽や空気、雨、土など大自然の働きも含まれるているはずです。大自然の働きがなくては一粒のお米もできません。
 また、「食事ができるまでの多くの働き」には、お米そのものが持っている働きも含まれると思うのです。お米にはお米の命があり、そこから生まれるお米本来の働きがあります。お米は一粒から、約500~1000粒くらいの新しいお米をつくることができるそうです。お米の一粒一粒に自分の子孫を増やすという、とても大切な命の働きがあるのです。でも、お米は人間に食べられてしまいます。
 お米にすればとても残念なことだと思います。悔しいことだと思います。でも、お米は、食べられることで、その命の働きは人間の命の働きに変わります。そのことは、肉や魚、野菜や果物なども同じです。食べられることで、それらの命は人間の体に移り、人間の命の働きに変わります。でも、それも命を奪うこと変わりはありません
(以下⑤/⑤につづく)   
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2015
05.05

「“目に見えないもの”の働き」⑤/⑤

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 こんなふうに考えてくると「五観の偈」の「一」は、私たちが食事をするときの心構えについて大切なヒントを与えてくれているように思います。
 日本には、古くから食事をする前と後に“両手を合わせる”という習慣があります。この習慣は、その姿も美しく、日本の文化を代表するものの一つだと思います。
 これには、食べ物を養い育ててくれた大自然の働きや食べ物にしてくれた人、食べ物となってくれた動物、植物などへの感謝の気持ちが込められていると思いますが、同時に、食べ物になってくれた動物、植物に対して「ごめんなさい。ゆるしてください」という心を示すものであると思います。そして、「あなたからもらった命の働きの分までがんばりますからね」という想いも込められているのではないでしょうか。さらには、“両手を合わせる”ことで、「わたし(右手)」と「あなた(左手)」は本当は一つであるということを改めて思い起こす意味もあるのかも知れません。
 ところで人間に食べられる動植物は人間にどんな気持ちを持っているのでしょう?もしも食べる、食べられるという立場が逆だったら、私たちは何と言うでしょうか。おそらくは、思い浮かぶあらゆる言葉を使って不満や怨み、悔しさ、あるいは恐ろしさなどを口にすると思います。
 それなのに、なぜ、動物や植物たちは、黙っているのでしょうか?
 「しゃべることができないから当たり前でしょ?」「 口がないから当たり前でしょ?」などと言う人もあるかも知れませんが、私はそうは考えません。
 食べられる動物や植物たちは、自分の命の働きが人間の体に移り、人間の命の働きに変化し、未来につながっていくことをよく知っていて、本当はみんな“目に見えないもの”からできた“兄弟”であることを心の底で分かっているから、何も言わないのではないかと考えたいのです。
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 もちろん、それを証明することはできません。でも、こんなふうに考えることで、動物や植物たちに対する私たちの想いは、より深くなるのではないでしょうか。
   私たち人間や動物、植物などの細胞をつくっている“目に見えないもの”、それは、目に見えないばかりか、声も聞こえないし、匂いも、味もしないし、触れることもできません。今まで誰も見たことがないし、これからも誰も見ることができないでしょう。そんな、「ある」とも言えないし、「ない」とも言えないような不思議なものではあります。でも、そのことについて考えを深めるとき、私たちは、人間はもちろん、動物や植物などに対して、もっともっと優しく温かい気持ちになれると思うのです。
 さて、みなさんはどう思いますか。(〆)   
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2015
05.09

「ギャラリー35」

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◎これまで掲載した水をテーマにした写真をギャラリー34としてまとめました。 

 
水は百面相 どれも水の顔には違いない 

 しかし どれも本当の顔ではない 

 心も同じこと
 
すべて、名古屋市の東山動植物公園で撮影したものです。水の多様な表情には、いつも驚かされます。

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次回は、「一遍上人が伝えたこと」を掲載(5回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。 



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2015
05.13

「一遍上人の伝えたこと」①/④

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1  [一遍上人]

 宗教の問題を扱ったラジオ番組で、一遍上人(いっぺんしょうにん)のことが取り上げられていました。その中で、一遍上人に「捨聖(すてひじりという異称があることを知りました。このことに興味をひかれ、一遍上人について調べてみることにしました。
 時宗(じしゅう)の開祖、一遍上人(以下、一遍とします)は、鎌倉時代の初め、伊予(愛媛)の豪族の子として生まれました。10歳のとき、母との死別をきっかけに出家すると、13歳で九州に渡り、太宰府で浄土宗の専修念仏にいそしみ、10年ほど修行します。
 25歳のとき、父が死ぬと伊予(愛媛)に帰り、還俗(在家信者に戻る)して家督を継ぎ、結婚をして子(娘)ももうけます。ところが、一族の所領争いに嫌気がさしたのか、29歳のとき再び出家し、ふる里のお寺で、ただひたすら「南無阿弥陀仏」と称名することで阿弥陀の世界に往生できるという、称名念仏(しょうみょうねんぶつ)の生活に入ります。そして、3年後、いわゆる「悟り」の境地に達します。
 浄土信仰を確立した一遍は、35歳のとき、妻や娘を伴って遊行(ゆぎょう)の旅に出ます。高野山に参詣し熊野に赴いた折、熊野権現から神示を受けます。これを機に、同行していた妻と娘、従者を打ち捨てます。また、持っていた経文も一部を除いてすべてを焼き捨ててしまいます。一遍に冠せられた「捨聖」の異称は、ここに由来します。
 その後、一遍は、51歳で亡くなるまで全国を乞食遊行(こつじきゆぎょう)し、「一切を捨離すべし」と説き続けながら、称名念仏による布教に身を投じました。そして、その最期には、持ち物のすべてを焼き捨てさせ、葬式などはせず、骸は野に捨て、獣に施せと遺言したとされます。
 ラジオ番組の中では、「捨聖」の立場を貫き通し、死ぬまで遊行を続けた一遍の生き方について、次のような見解が示されました。「モノ(家族や家臣も含め)を持っていては自由に歩けない…、歩けなければ、持たないことによって見える真理を衆生に伝えられない…、捨てることで、真理を伝えようとしたのではなかったか…」と。
 よく理解できる話だと思いました。しかし、一遍が捨てたものは決してモノばかりではなかったはずです。モノを捨てることで、我欲・我執、とりわけ煩悩の権化とも言える「貪欲(とんよく)」を捨てたのだと思います。
 一遍のたどり着いた「悟り」の境地というのは、捨て切ることの先に見えてくる真理への目覚だったのだと思います。(以下、②/④へつづく)
 

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2015
05.17

「一遍上人の伝えたこと」②/④

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2 [一遍上人絵伝より]

 一遍は、こんな和歌を詠んでいます。解説文(「仏教を歩く」№12)とともに紹介します。
 身を捨つる 捨つる心を 捨て去れば おもいなき世に 墨染(すみぞめ)めの袖
 本気で捨ててみると思いの外、心は平静であった。捨てつ尽くしてしまうと、はじめは物足りないかもしれないが、やがては心の安らぎが訪れ、自分を不安にする要素がなくなった。
 一遍の生き方に触れるとき、我が心の弱さ、脆さを痛いほど思い知らされます。私のような凡人には、とても近寄ることのできない生き方です。
 ただ、そうではあっても、自分の生き方を見つめ直すきっかけは与えられます。それは、必要以上にモノを求めないということではないでしょうか。二つの語句から考えてみました。
  一つ目は「少欲知足」という仏教語からです。これは、欲望をできるだけ抑え、現状を満ち足りたものとして生きていくことです。ないモノを求めるのでなく、あるモノを生かし、そのことに楽しみを見い出してことと言えるかも知れません。
 二つ目には、「過ぎたるは及ばざるが如し」という諺からです。これは、単に「もったいない」という警句ではないはずです。度を過ぎてしまったものは、目標に達しないものと同様であるという意味ですが、拡大解釈すれば、必要以上に求めることは、かえって不具合をもたらす場合があるとも読み取れます。
 細川景一著の「古木再花生」に興味深い仏教説話がありました。
「ある貧しい男が、富豪のの晩餐会に招かれます。たいへんなご馳走が用意されていました。空腹だった男は、皿に盛られたご馳走にむしゃぶりつきます。
「味はどうかね」
富豪が訊きます。男は、
「見た目よりもう一つですな」
と物足りなさを正直に告げます。すると富豪は、
「そうだろう。これがなかったからな」
と言って、傍らにあった壺から白い粉をつまみ出して、皿に盛られたご馳走に振りかけます。
 すると、ご馳走も素晴らしい味に変わり、男は大満足します。二枚目の皿、三枚目の皿、どの皿も、白い粉を振りかけると素晴らしい味に変わります
。(以下、③/④へつづく)


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2015
05.21

「一遍上人の伝えたこと」③④

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3  

 すっかり満腹した男が、別れを告げて立ち去ろうとすると、富豪は、家で待つ妻子に、今夜食べたご馳走の中で、一番美味しいものを土産として持って帰るように勧めます。男は、白い粉を求めます。富豪は、白い粉を壺ごと渡します。
 帰宅した男は、得意顔で妻子に白い粉を渡します。
 ところが、これを口にした妻子は、一斉に顔をしかめてこれをはき出します。
 それは「塩」だったのです。
 「貪欲(とんよく)」に身を任せることの愚かさをテーマにした、考えさせられる話だと思います。
 この話から、私たちが学び取らなくてはならないことは何でしょうか。そもそも、私たちにとって話の中の「塩」とは、一体何なのでしょう。以下、私見を述べてみたいと思います。
 まず、広義には、人類が築きあげてきた科学技術がそれに当たるのではないでしょうか。科学技術は、私たちが便利に快適に生活できるように生み出され、日々進歩してきました。そして、私たちの生活の隅々まで行き渡り、今や溢れんばかりです。
 ところが、「それによって幸福になったか?」と問わたとき、必ずしも肯定する人ばかりではないでしょう。むしろ、息苦しく、住みにくくなっていると感じている人も多いと思います。
 そして、狭義には、コンピュータ(ここでは制御機能を持つ小型の電子部品とします)がその一つに当たるのではないかと思うのです。
 私たちの身の回りには、おびただしい種類と数のコンピュータが存在します。身近なところでは自動車やエアコン、テレビ、洗濯機、掃除機、カメラ、照明器具など、当たり前のことのように、コンピュータが組み込まれています。人間の意向に合わせてその機能がコントロールされるわけですから、確かに生活は便利で快適になりました。
 しかし、昨今はそのことがあまりにも恒常化しているために、人間が本来持っている瑞々しい感覚や感性を鈍らせているのではとの疑念も湧いてきます。それに、一旦、それらが故障すれば、我々消費者は全くお手上げ状態です。(以下、④/④へつづく)


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2015
05.25

「一遍上人の伝えたこと」④④

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5
 加えて、急速に普及を示しているパソコン、ケイタイ、スマートフォンなどにまつわる問題もあります。インターネット利用者の人口普及率は、平成24年度末の段階で79.5%だということです。たいへんな普及率だと思います。固定電話だけで通話していた時代を考えれば、その利便性は全く比較になりません。
 しかし、その反面で、いわゆるネット犯罪など、これまでなかったような新しい形の犯罪も増えてきてます。振り込め詐欺はその代表でしょう。子どもの世界までも蝕むネットいじめもあります。マスコミの報道などを通じて、途方に暮れる被害者の様子を知るにつけ、なんと住みにくい世の中になったものかとの思いが膨らみます。
 また、四六時中、これらの機器を介して送受信される情報(メールなど)に気を配らなければならないような生活も考えものです。
 さらに、やや飛躍するかも知れませんが、兵器の開発についても同様のことが言えるのかも知れません。初期の爆弾は、スウェーデンの科学者、発明家であるノーベルによる爆発物の研究が基になっているのは周知のとおりです。鉄道工事などを効率よく進めるためにニトログリセリンの安全な製造方法と使用法用を開発したことが、その発端となりました。
 爆弾は、その後、より大きな損害を与えるべく目的に合わせて、ナパーム弾や誘導爆弾、ロケット弾、クラスター爆弾など、様々なに改良や工夫が加えられてきました。そして、これらの爆弾とは爆発の原理こそ異なりますが、究極の兵器として核爆弾があります。これらの兵器は、その存在だけで、恐怖心を与えます。 

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 先の仏教説話における「塩」の話は、コンピュータをはじめ、科学技術を適度に、また、適切に使うことの大切さを教えてくれているのだと思います。科学技術には、光の部分と影の部分があります。そのことをしっかりと踏まえないと、その先に思わぬ落とし穴が待っています。
 また、別な言い方をするなら、私たちは、いい加減に、“心の満足は、決してモノによってのみもたらされるものではない”という真実に目覚めるべきだと思うのです。このままでは、「モノで栄えて心滅ぶ」を地でいくことになりかねません。
 最後に、一遍上人の和歌をもう一つ紹介したいと思います。
 すててこそ みるべかりけれ 世の中を すつるもすてぬ ならいありとは
 何もかも思い切って捨ててしまうと、実は大切なものは捨てていなかったことが分かった。ここに身も心もさわやかな喜びが生まれてくる。
 一遍上人が見た、捨て切った先に見えてくる大切なものとは何のことなのでしょうか。一遍上人からのこのメッセージを私たちはどのように受け止めたらよいのでしょうか。
 読者からのご意見をお待ちしています。(〆)

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次回は「役割を果たす」を掲載(5回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。



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2015
05.29

『役割を果たす』①⑥

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01.jpg  [空海 像]

 空海(弘法大師)の言葉に、 『医王の目には途(みち)に触れてみな薬なり、解宝(げほう)の人は鉱石(こうしゃく)を宝と見る』という名言があることを知りました。その意味は、「優れた医者の目には、道端の雑草も薬草と見え、宝石が分かる人は、ただの石のかたまりにも宝を見出だす」とのことでした。これを広義に解釈するなら「物事の本質をきちんと見抜くことができる人にとっては、この世の中には無駄なものなど一つもない」となり、極めて仏教的なメッセージであることが分かります。無駄なものなど何もない、無駄ではないからこそ、今、この世の中に存在しているというわけです。
 これを別な表現をするなら「全てのものに役割がある」ということになるのではないかと思います。釈迦が伝えた真理の一つに「諸法無我」がありますが、そのことを空海の言葉で述べたものと言えるかと思います。全ての事物事象は、それ自身で独立して存在しているのではなく、無限の関係性の中で存在しているということです。この世のものは、持ちつ持たれつ、支えられていると同時に支えているということです。つまり、空海の言葉にも示されるように、全てのものには、等しく役割があるということです。
 そこで、役割ということを考えてみました。役割とは、「割り当てられた役目」ということですが、それは、その責任を果たすことと一体でなければならないと思います。つまり、役割を持っただけ(あるいは、与えられただけ)では意味がないということです。役割は、それに伴う責任を果たすことによってのみ意味があると思うのです。
 では、役割としての責任を果たすとはどういうことでしょうか。私見ではありますが、それは「利他(りた)」の実践ではないかと思うのです。平たく言えば、自分の利益はさておき、「人から喜ばれる」ことをすることではないかということです。
 役割についてこんな分類をしてみました。(以下、②/⑥につづく)


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