2015
04.07

「二つ目の鏡」①/③

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 鏡を見ました。髪が少なくなり、シラガも増えました。シワも増えました。シミも増えました。昔の写真を思い出しながら、若い頃は、こんなではなかったのにとの思いが膨らみます。
 カツラをつけようか、それとも白髪染めをしようか、あるいは女性がするように顔に何かを塗ったりしてみようかとの思いが頭を過ぎることもあります。これらは、現実と理想とのギャップを埋めようとする心の働きと言えるでしょう。
 見方を変えれば、それは「苦悩する姿」そのものかも知れません。しかし、些末な苦悩ではありますが、これが生きるエネルギーに転化することも事実です。上昇欲と苦悩とは表裏一体をなすものだと思います。
 このように鏡は、時して「客観力」として働きます。髪も整えず、髭もはやし放題の状態で人前に出れば、相手に不快な思いをさせることは必定です。鏡を見ることで、そんな自分を客観的に眺めることで、調髪、髭剃りなどの行為に向かわせるのだと思います。
 もっとも、それは人間としての本質的な在り方に基づくものだと言えるでしょう。有史以来、人類は現実と理想のギャップの間に身を置きながらその歩を進めてきました。人類が紡いできた歴史は、心の鏡に照らしたとき映し出される現実の不満に対して、少しでも理想に近づけようとする努力の足跡でもありました。そして、人類が創造・蓄積した科学技術は、現実と理想のギャップを埋めるための手段として、その役割を果たしてきました。
  しかし、そこに一つの盲点があることを忘れてはならないと思うのです。先の例からも分かるように、現実を理想に近づける努力に苦悩が伴うことは周知のとおりです。ただ、それは、あくままでも私的なものに過ぎません。その昔、蒸気機関を発明したニューコメンや電灯を発明したエジソンなど、歴史的な発明家たちは、筆舌に尽くしがたいような苦労を味わっていますが、それらは、彼らの「私的な苦悩」に留まるものでした。
 しかし、科学技術の発展には、これとは別に、避けがたく大きな苦悩が伴う事実に目を向けなければならないと思うのです。現実と理想を二極として捉えた瞬間から生じる人間としての「本源的な苦悩」のことです。(以下、②/③につづく)
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2015
04.11

「二つ目の鏡」②/③

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 今さら言うまでもないことですが、人間は自然の中に生かされている存在です。さもなければ、人間は、切り取られた一輪の花の如く、その命は破綻に向うことになります。
 科学技術の発展は、人間を主人公にして、利便性や快適性の追求という形をとって進められてきました。ところが、それはほとんど例外なく、自然の姿を人間の勝手や都合に合わせて変更させるものでした。
 産業革命以来、人類にとって最も大きな課題は、エネルギーをどう確保するかにありました。石炭から石油へ、そして石油から原子力へ、さらに原子力に限界が見えてくると、次は、シェールガスやメタンハイドレードにと、消費する資源は変わりましたが、いずれも自然の姿に変更を加えることで、それらの確保に狂奔してきました。いえ、科学技術は、常にその足場を「自然を破壊・征服する」ことに置くことでしか、歩を進めることができなかったのです。
 人間としての「本源的な苦悩」とは、科学技術を発展させることが、自らをその存立条件である自然の循環から離脱させることになるという矛盾を抱えながら生きているという事実です。これこそは、人間存在にかかわる究極の苦悩ではないかと思うのです。
 ところが、私たちには、それがなかなか見えません。いえ、見ていても見えないことにしているだけかも知れません。だとすれば、問題は、一層深刻だと言えるでしょう。いずれにせよ、このままでは、未来への展望がありません。そこで提案です。
 先に、鏡は時として「客観力」として働くと書きましたが、それをさらに「俯瞰力」に高めるために、もう一つの鏡が必要なのだと思うのです。冒頭の話に戻すなら、鏡を見ながらシラガ、シワ、シミが増え嘆いている自分を眺める二つ目の鏡です。いわゆる合わせ鏡の要領で、鏡を見る自分を視るのです。一体、そこに何が見えてくるのでしょう。
 そこに見えてくるのは、老化現象というのは、自然の成り行きであり、じたばたしても、本質的には何も変わらない、じたばたするとかえって自分を苦しめることにもなるという、ごく当たり前の事実ではないでしょうか。
 では、人間にとって、この二つ目の鏡はいったい何なのでしょうか。以下私見を述べたいと思います。(以下、③/③につづく)
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2015
04.15

「二つ目の鏡」③/③

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 釈迦の言葉に次のようなものがあります。
 「一切の形成されたものは苦しみである」と明らかな智慧をもって観るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそが人が清らかになる道である(ダンマパダ)
 生きとし生けるものには、例外なく苦しみがあります。現実と理想のギャップに悩み、苦しんでいるのが私たち人間もその中の一員です。運よく思い通りになることもあれば、そうならないこともあります。
 しかし、忘れてはならないことは、それらがすべて一時的な現象であるということです。ある瞬間には思い通りになったとしても、次の瞬間には、また別な思いが湧き、新たな不満のもとになる…。これが私たち凡夫の常ではないでしょうか。結局、いつまで経っても、現実と理想のギャップは埋まることはなく、死ぬまで思い通りにならないということです。
 これが釈迦の説いた「一切皆苦(いっさいかいくという真理です。このことをを理解すれば、人々の心は浄化され救われるということを言っているのだと思います。
 仏教には、欲望を抑え、正しく使っていける「もう一人の自分」がいるという思想があります。先のことを考えず、どこまでも刹那的で刺激的な欲望を追い続けていく自分も確かに自分です。しかし、それとは別に、自我(我欲)から離れ、それを俯瞰視できる、「もう一人の自分」がいるという考え方です。
 一つ目の鏡を見つめる自分も自分ですが、二つ目の鏡でその様子を客観的に眺める自分もあります。二つ目の鏡を通して、自分の中にある「もう一人の自分」の存在に気づいたとき、それまでとは異なる世界が見えてくるはずです。
 それは、人間の唯一の存立条件は、自然の循環の中で、自然に寄り添い、自然ととともに生きていくことにあるという真理ではないでしょうか。「万物と我と一体、天地と我と同根」ということを覚知することです。
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 かといって、生身の人間である以上、仙人のように霞を食べて生きるよう真似はできません。結局、自然に対して、私たち人間がいかに謙虚な姿勢を保てるかが問われているのだと思うのです。
 そもそも増大し続けるエネルギー消費は、「満足」という幻を追って右往左往する私たちの姿そのものです。無限に湧き出す「煩悩(欲)」を有限なもので充たすことはできません。  
 やはり、鍵になるのは『知足(ちそく)』ということではないでしょうか。「身の丈に合った生き方」をするということです。二つ目の鏡(釈迦が説いた真理)に触れることで「もう一人の自分」に目覚め、「知足」という境地に思いを致すとき、「俯瞰力」は「自制力」として働き出し、やがては、それが人間の「本源的な苦悩」を軽減する力となるのだと思うのです。(〆)

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次回は、「目に見えないものの働き」を掲載[5回配信]します。ぜひ、ご訪問ください。 


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2015
04.19

「“目に見えないもの”の働き」①/⑤

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 「こどもの日」が近づいてきたことから、今回は、読者が子どもであることを想定し、思うところを綴ってみたいと思います。
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 人間の体は約“60兆個”の細胞からできていると言われています。“60兆個”と言われてもピンとこないかも知れません。数字で書くと、6の後に0が13個並びます(60,000,000,000,000個)。
 こんな説明を聞いたことがあります。一つ一つの細胞をそのまま1列に並べたとすると、約60万㎞という長さになる…。たいへんな長さですね。
 地球の1周は約4万㎞ですから、60万㎞といえば、地球を15周する長さとです。また月と地球の距離は、平均すると約38万㎞ですから、その長さがいかに凄いかが分かります。
 今、地球上には、約70億人の人が住んでいると言われていますが、その一人一人に例外なくそれだけの細胞があるということです。本当に凄いことだと思います。
 でも、それほど多くの細胞があるのは、人間だけでしょうか。いえそれは違います。数の多少はありますが、それは動物(鳥、魚、昆虫も含みます)の体にも植物に体にも同じように、たくさんの細胞があります。そして、その一つ一つがそれぞれのをつくり、のもとになっているのです。
 調べてみると動物の場合、1㎏あたり1兆個の細胞があるそうです。そうすると、細胞の数は、体重3㎏のネコで3兆個、体重500㎏のウマで500兆個、体重6tのゾウなら6000兆個ということになりますから、想像もできないような数ですね。
 では、その細胞は一体誰がつくったものでしょうか?それは、自分の体を誰が造ったのかという質問にものなるのですが、残念ながら、それは誰にも分りません。「お父さんとお母さんではないの…?」思う人があるかも知れませんが、私たちは、生まれてくると、その後、60兆個の細胞がいつまでもそのままの姿でいるのではありません。時間が経ち、古くなった細胞は死んでしまい、代わりの細胞が新しく生まれてきます。血液の中にある白血球(これも細胞の一つです)は、生まれて死ぬまでの期間はおよそ10日だそうです。
 また、私たちがお風呂に入って体を洗った後、アカが出ますが、これは皮膚をつくっていた細胞が死んだものです。この他にも、毎日、たくさんの死んだ細胞が体の外に出され、代わりに新しい細胞がつくり出されています。
 このように、60兆個の細胞は、その一つ一つが死んだり、生まれかわったりしながら、私たちの体をつくり、命のもとになっているのです。それは、細胞そのものの働きであり、お父さんお母さんとは、全く関係のないものです。
(以下②/⑤につづく) 

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2015
04.23

「“目に見えないもの”の働き」②/⑤

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 では、古い細胞をなくしたり、新しい細胞をつくったりする働きはどこからくるのでしょうか。このことも誰にも分かりません。細胞をつくる働きも、細胞をつくりかえる働きも、誰がしているのか分からないのです。それは、これまでも分からなかったし、これからもずっと分からないだろうと思います。それくらい不思議で大きな働きだということです。
 ところで、宇宙にあって人間の目に見えるものの割合は、どれくらいだと思いますか?ふだん、私たちが生活しているとき、大切にしているものは、そのほとんどが“目に見えるもの”ではないでしょうか。だから“目に見えないもの”のことを考えることはあまりないと思います。
 ところが、宇宙という大きな単位で見たとき、“目に見えるもの”は、わずか4%だけだと言われています(ちなみに地球も宇宙の一部です)。どんな大きな望遠鏡を使っても、あるいは遠くまで飛んでいけるロケットで調べても、目に見えるのは、宇宙全体にすれば100分の4だけということです。後の96%は、私たちの目に見えないということです。
 ところが、目に見えないといっても、そこに働きがないというわけではありません。ダークマター(暗黒物質)とかダークエネルギーと呼ばれる“目に見えないもの”が、太陽や地球、月のような、宇宙に広がっている無数の星々をつくっているのです。
 その働きは、地球に暮らす私たち人間や動物、植物などの細胞にも及んでいます。“目に見えないもの”は、小さな細胞をたくさんつくることで、私たち人間や動物(鳥、魚、昆虫など含みます)もつくっています。そして、さまざまな植物(木、草、花などを含みます)もつくっています。その他の無数の生き物も同じです。つまり、“目に見えないもの”が、“目に見えるもの”をつくっているということです。
 このように、地球上に今、生きているものは、そのすべてが“目に見えないもの”の働きによって“目に見えるもの”としてつくり出されたものです。そしてそれらは“目に見えないもの”の不思議な働きによって、今、たまたまいろいろな姿、形になって現れてきているということです。

 では、それらが“目に見えないもの”であったときには、どんな様子だったのでしょうか?想像してみてください(以下③/⑤につづく)

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2015
04.27

「“目に見えないもの”の働き」③/⑤

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 (では、それらが“目に見えないもの”であったときには、どんな様子だったのでしょうか?想像してみてください。)
 そこには、どんな区別もなく、みんな平等で、何一つとして見分けのつかない世界が広がっていたはずです。人間も動物も植物もありません。男も女もありません。お年寄りも赤ちゃんもありません。もちろん国籍や言葉もありません。すべてが一つのものであったということです。 
 こんなふうに考えてくると、“目に見えるもの”として、いろいろな姿、形でつくり出されるものも、本当はみんな“兄弟”であると思えてこないでしょうか“目に見えるもの”は、“目に見えないもの”から生まれてきた無数の“兄弟たち”であるということです。

 ところで、こんなふうに、地球上にいる動物も植物も、その他の無数の生き物たちも、同じお父さんとお母さんから生まれてきたと“兄弟”であるいうことを考えたとき、私たち人間が、肉や魚、野菜や果物などを食べ物とすることをどのように考えたらよいのでしょうか?
 “生きる”ということは“食べる”ということです。私たちは生きていくために、他の動物、植物を食べなければなりません。でも、それはかれらの命を奪うことです。殺すことです。本当は“兄弟”のはずなのにその命を奪ったり、殺してしまうことをどう考えたらよいのでしょうか?
 もちろん、これは動物たちにも同じことが言えます。ライオンやトラなど肉食動物たちは、他の動物の命を奪うことで、自分の命をつないでいます。それにゾウやウマなど草食動物の場合でも、草や木の葉など植物の体やその一部を食べることで自分の命を保っています。
 ただ、人間の場合は少し事情が違います。人間も大昔は、他の動物と同じように生活していましたが、いつの頃からか、自然の中で暮らしている動物、植物とはべつに、自分たちが食べるためだけに動物を飼育したり、植物を栽培したりするようになりました。ウシやブタなどをたくさん飼育し、大きくしたり太らせたりしてその命を奪う、あるいは、穀物や果物など、いろいろな種類の植物を栽培し、大量に育てたり都合のいいように作りかえたりしてその命を奪う…、こんなことに力を入れるようになりました。 
 私たちは、生きるためには食べなければなりませんが、それには必ず、他の動物や植物の命を奪うという問題が起きます。このことをどう受け止め、どうしたらよいのでしょうか?
  (以下④/⑤につづく)

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